その三
ぬかるんだ地面を泥が跳ねるのも気にせず長靴で進んだ青年は、ふいに呼び止められ立ち止まった。振り向けば、体格のよい男がちょうど扉を開けて外に出てきたところだった。
柵の側に建っている家は二階建てで、屋根裏部屋からは村の外も一望できる。ほかの村のように見張り台ではなく、家というところが、この村の閉鎖的な特異を象徴している。
きっと長い間ほかの村とは争いごとがなかったのだ。戦乱に巻き込まれた村は、大事を知らせるために村の出入口付近に見張り台を建て、危険を知らせる鐘を設置するからだ。
男は、不審そうな目で、びちゃびちゃと汚らしい音を立て大股で歩いてきた。青年の革靴とは違い毛皮を足に巻いたような靴は、泥水触れると艶やかな毛並みがぺったりとした。
靴と同じく、動物の皮を縫い合わせたような服を着ている男の姿は、箔凰地方では珍しい出で立ちだ。原始人のような野性味あふれる簡素な装いとも、北の寒い地域のような防寒を主としたものとも違った。
寒い地域の者たちは、毛皮は外套や帽子に使うのを好んでいて、直に着込む者はいない。そう考えると原始人のほうが近いのかもしれないが、服にはしっかりと装飾がされていて形も手が込んでいた。
「どういう用件だ」
唸るような低い声。彼の手には、尖端が磨かれた槍が握られていた。青年が好ましくない人物と判断すれば、迷わず突き刺すつもりか。
「私はしがない吟遊詩人。ふらりと大陸をさまよう者に理由がありましょうか?」
青年は背負っていた弦楽器を男にみせると、婉美に微笑んだ。中性的な顔立ちとはいえ、細身であるが長身な青年を女と見間違う者はいない。けれど、色気を含ませた蠱惑的な笑みは、男であるからこそいっそうと匂い立つようで、険しかった男の目尻が微かに下がった。
ようやく青年がただの不審者ではなく、めったにおめにかかれないほどの美貌の持ち主であることに気づいたらしい。青年を無遠慮に舐め回す男の目には、好色な光が宿っていた。
「そ、そうか。だが、身分を証明する物を見せてもらおうか。お前が本当に吟遊詩人であるなら村長様にお伺いをたてよう」
それを聞いて、おやっと青年は思った。
それほど大きくない村にしては、物々しい態勢だ。領主の城に入城するならば、身分の提示も理解できるが、たかだか小さな村に足を踏み入れるだけで村長の意見を聞くとは。御者の男が言っていた特殊という言葉に、なるほどと思った。聖職者の件だけでなく、いろいろとベルッセ特有のやり方があるようだ。
「この村に立ち入るには、だれもが許可を必要とするのですか?」
「ふんっ、当たり前だ。ここは村長様がおられる村だぞ。たとえ御使いだろうと身分を示す提示をしてから村長様に目通りを許す決まりだ」
にやにやしていた男は、顔を引き締めて、うさんくさそうに青年を見た。
「なんでそんなこと知りたがる?」
「いえ…ただ不思議に思ったものですから。私が訪れたどの村や町よりも警備態勢が立派なので、感嘆としていたのです。ほかの村も見習ったらよろしいのに」
そう褒め称えた青年は、笑みを消さずに胸元から掌に収まるほどの鉄管を取り出し、吟遊詩人である証の石を取り出した。人差し指より短い円柱の水晶の中に、女王代理の承認が刻まれた紫色の石が入っていた。紫色の石は、吟遊詩人にだけ与えられるもので、この石があるだけで大陸全土を渡ることができる。
もちろん、吟遊詩人にも階級があり、吟遊詩人ならばだれでも領土の境なしに横断できるわけでもない。青年のように全土を回ることが許されているのは、片手にも満たないだろう。
青年に賛美され、まんざらでもなさそうな男は、石を陽光に照らし検分した。誇らしげに仕事をこなしているが、石を持つ手はどこか危なっかしい。石の持ち方ひとつとっても素人であることは一目瞭然だ。これが領に仕える門番なら、黒い布の上で虫眼鏡を使って偽物ではないか調べたはず。
「ふん、どうやら本物のようだな」
親指と人差し指に挟んで石を眺めていた男は、しばらくするとそう言った。本当に本物かどうかなんてわかっているのかも怪しいが、本人はいたって得意げだ。
まあ、地方の――しかもこんなに閉ざされた村の警備を任されている男にしては、石に関しての知識はあるらしい。だが、やはりというべきか、階級まではわからないようだ。
水晶に入った紫色の石は、特級吟遊詩人だけに許されたもの。もし彼が真価を知っていたら、放ることはしなかっただろう。
男が放り投げた石を恭しく両手で受け止めた青年は、大事そうに鉄管に戻し懐にしまった。
「こっちへ来い。村長様にお目見えを許そう」
男は三十半ばだろうか。日に焼けた浅黒い肌には、傷がいくつもついていた。太陽が出ていても外は肌寒いというのに、毛皮一枚で、筋肉の隆々とした様が服の上からも見て取れた。
男のあとについていきながら、青年は物珍しそうに周囲を眺めた。昼までにはまだたっぷりと時間はあるようだが、人の出入りは少ない。
雪は降っていないようだが、明け方や日が沈む頃は、吐く息も白くなるほど寒いに違いない。青年が先頃までいたベルーの村は、ここよりも暖かかった気がする。それでもあの親切な御者の忠告に従って、ベルーの村で厚手の外套を購入して正解だった。地域によって気温の変化が激しいのは悩みの種だ。原因を考える悠長にはしていられないだろう。
「待ってろ」
一番立派な家の前で足を止めた男は、畏まった態度で入っていった。そこには、青年に対する横柄さは微塵もなかった。
少ししてから男が現れて顎をしゃくった。中へ入れということか。
「旅のお方、ぞうかお気を楽になさってください」
家の中は暖かかった。
勧められるまま荷物を置き外套を脱いだ青年は、籐で編んだ長いすに座った。目の前には、好々爺とも呼べるほど人の良さそうな顔をした老人が座っていた。小柄というわけではなさそうだが、大柄な男が後ろに侍従のように控えているとどうしても小さく見えてしまう。
笑顔のせいか目がほそまり、弓なりにしなっている。口元に刻まれた皺と白髪からそう若くなさそうな年齢だが、口ぶりはしっかりしていて揺るぎない。
「吟遊詩人とお聞きしましたが、この村に縁のない方がいらっしゃるのはどれほど久しぶりなことか。どうぞ、ご自由に滞在なさってください」
そう大らかに語る老人からは、人の良さがにじみ出ているだけで、御者の言っていた独裁者のような面はない。もし今の顔が偽りだというならば、相当な芸達者だろう。
「あなたのような見目のよい方がいらっしゃれば、娘たちの志気もあがりましょう。あいにくと、ほかの村のように宿はございませんが、ぜひわしの家にお泊まりください」
「長様!」
いつでも構えることができるようにと槍を立て、ひっそりと後ろに控えていた男が、禁じるように声を上げるが、村長が穏やかに男の名を呼ぶと真っ青になって謝った。
「失礼いたしました、旅のお方。この者は、仕事熱心なのですが、どうも過ぎるところがありましてな。なに、部屋なら余っているので、気を使わずお使いください」
そこへ、失礼しますと少女が入ってきた。仕立てのよい服に身を包んだ少女は、少しぎこちない様子で青年と老人の前に陶器の茶器を置いていく。
「ほぅ、白磁ですか。美しい模様ですよね」
青年が目の前に置かれたカップを手に取りそう褒めると、はり付けたかのような笑みを浮かべてばかりだった老人が、おぉっと身を乗り出した。
「わ、わかりますかな? さすが、吟遊詩人殿。芸術に関して博識でいらっしゃる。どうもうちの者たちは、そういったことに関心を持ちませんでなぁ。それは、さる領主様に献上される予定だったものをわしが買い取ったのです。一目で気に入ってしまいましてなぁ」
「お気持ち察します。これほどの一品は、どの領主でもお持ちではないでしょう」
そう持ち上げれば、老人の顔がそうだろうとばかりに緩んだ。