その二
「エルファーナ、お目覚めくださいませ」
肩を揺すられたエルファーナは、目をこすりながら起き上がった。
「リーシア……?」
朝なはずなのに、部屋は暗い。
蝋燭の明かりがいくつもともり、部屋を照らしていた。
窓を打つ雨音が激しくなっていく。
「さ、お着替え下さい」
リーシアの声がいつもよりずっと固い。
アルフィラとイーズの姿もあった。
朝から三人がそろうのは珍しい。
リーシアたちは、てきぱきとエルファーナの身支度を整えていく。
どこか落ち着かぬ様子の三人に、エルファーナは首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもございません」
女官たちは笑っていたが、どこか覇気がなかった。
いつもと違う様子に、脳裏にあの集団の姿がよぎった。
まさか、なにかあったのだろうか。
エルファーナは窓に駆け寄ろうとしたが、窓掛が邪魔で見えない。それを退かそうとしたら、リーシアに止められた。
「いけません」
「どうして? なんで隠すの?」
「お願いですから、大人しくしていて下さい」
リーシアの手が震えていた。
「エルファーナ――――!」
「エルファーナ様っ」
女官たちの焦った声を背に、エルファーナはヴァリスを求めて走り出していた。
「ヴァリス、ヴァリス……っ」
どうすればいいのか。
どうしたらいいのか。
ちっともわからない。
エルファーナはヴァリスの部屋を目指した。
けれど、ちょうど開けた回廊で怒鳴り声が聞こえ、びくりと足を止めてしまった。
「ええい、なにぐずぐずしてる。もはやこの宮殿も終いだ。金品を盗んで離れるぞっ」
男たちの声であった。
エルファーナは、恰幅のよい男が侍従らしき者たちに命じているところを見てしまった。
「あ……」
声に気づいた男がエルファーナを目に入れる。
血走った目が、一瞬、驚いたように見開かれるが、すぐに愉しげに口の端をつり上げた。
「おやおや、これはこれは。女王候補じゃないか。ええ? 役立たずな女王候補さんよ、こんなところでなにをやっているのかな?」
白髪まじりの髪は、風にあおられたのか、それとも整えていないのかぼさぼさであった。
目にかかる前髪を後ろに流した男は、せせら笑うと生気のない顔でエルファーナを睨みつけた。
「これもみんなあんたらのせいだ! なにが女王候補だっ。あの女のせいで俺は破滅だ! 俺は先代の女王にお仕えしたんだぞ! なのに…クソッ」
「バーラス様……」
侍従の怯えた声に、エリッツェ・バーラスは名を呼んだ侍従を蹴りつけた。何度も何度も固いかかとで踏みつける。
「や、めてっ」
エルファーナが慌てて止めに入るけれど、うっとうしそうにエルファーナの体をはねのけた。小さな体は簡単に吹っ飛び、支柱に背が叩きつけられた。
「……ぅ」
「女王候補なんかいなければよかったんだっ。忌々しい売女だ。女王候補なものか。淫乱なメ狐だ。死ねばいいんだ! お前もあの売女もっ。せっかく暗殺者を雇ったのに生きていやがって! なんでこううまくいかない! ちくしょう、馬鹿にしやがってっ」
痛みに顔をしかめながら、エリッツェ・バーラスを見上げると、彼はエルファーナの髪をひっつかんだ。
「イタッ」
「ええ? お前もあの騎士らの相手をしてるんだろ? 答えろよ。お前も売女なんだろ?」
純粋なエルファーナには男の俗語が理解できなかった。
ただ髪が痛くて、涙が出てくる。
「答えろっ」
頬を叩かれた。
じんじんと頬が痛い。
恐怖に目を見開くと、男が舌なめずりをした。
「いっそここで殺してやろうか。はっ、もう終わりなんだ。そうだ、この世は終わりだ! すべてが終わる前に、女王候補をこの手で仕留めるのも悪くないな。あの女は損なったが、貴様はこの手で――」
「バーラス様、おやめください」
「うるさいっ」
止めようとした侍従は切って捨てられた。
エルファーナは目を見開いた。
大理石の床に真っ赤な血が流れていく。
血の滴る剣がゆっくりとエルファーナに向けられる。
「や……ぁ」
怖かった。
とても怖かった。
「エルファーナ!」
助けを求めて心の中で声を上げていたそのとき、エルファーナの一番好きな人の声が聞こえた。
「リ、ゼ……っ」
きっと、女官にエルファーナのことを聞いたのだろう。
必死に探し回ってくれたのかもしれない。
酷く取り乱した様子で駆け寄ってきたリゼは、エルファーナを見つけて安堵の笑みを浮かべたものの、一目で状況を見て取ると、嫌悪をのせた。
「バーラス殿……」
「はっ、どうせお前らもこいつとヤったんだろ? えぇ? 具合はよかったかよ? あの売女より?」
狂ったように哄笑するエリッツェ・バーラスに、リゼはぞっと背筋を粟立たせた。あの生真面目だった彼をなにがこうも変貌させてしまったのだろう、と。
しかし、エルファーナに対する侮蔑は、とうてい許せるものではなかった。
聞くに堪えない下拙な内容に、蒼い双眸を怒りに燃やした。
冷気を身にまとい、表情の失せた顔は、見る者の背筋を凍らせるほどの圧迫感があった。
冴え冴えとした、触れると切れるのではないかというほどの研ぎ澄まされた美貌は、もはや美しいというよりは、恐ろしいと表現するしかなかった。
「――――凍てついた大気よ、今、汝の力をここに示せ」
リゼがそう言い放った刹那、一人悦に入っていたエリッツェ・バーラスの体が足下から凍り付いていく。
「や、やめろっ」
「エルファーナに対する無礼は、死をもって償いなさい」
エルファーナを傷つけられ、リゼは憤っていた。
たとえ六大臣の一人といえ、許せる行為ではなかった。
「だ……めっ」
「エルファーナ」
赤くなった頬をリゼが術を使って冷やした。
「駄目、リゼ、殺さないで……」
「けれど……」
「だってね、あの人、ルイーゼ様を殺そうとしたって……」
「……!」
リゼの顔色が変わった。
術を止めたが、エリッツェ・バーラスの体はすでに下半身が凍り付いていた。
あまりの冷たさに顔色は青ざめていた。
しかし口は氷で覆われ、口も利けないようであった。凍傷になるだろうが、死にはしないだろう。
騒ぎの声を聞きつけてやってきた兵士に事情を説明し、あとを任したリゼは、エルファーナを小媛の間ではなく、至殿のほうへ連れて行こうとした。
「リゼ、どこに行くの……?」
「エルファーナ。非常事態なのです。第二の宮殿では、手薄ですし、表の門に近いので……」
「駄目……っ。あのね、あのね、わたし、嬉しくないわ。守られても嬉しくないのっ」
「エルファーナ……?」
「死んで欲しくない……。みんなが大切なの、大好きなのよ。おかしいもの。死んで欲しくないの……」
右の手の甲が痛い。
突き刺すような痛みに、アルファーナは手を押さえた。
「エルファーナ……? エルファーナ!」
痛い。
痛いっ。
痛いっ!。
立っていられないほどの痛みに、アルファーナの体がゆっくりと傾いだ。