その三
ルイーゼの暴挙が忘れられずふらふらと外をさまよっていたエルファーナは、激しい雨の中で立ちすくんだ。
「ルイーゼ様、どうしたんだろ……」
頬にそっと触れる。
雨に血は流され、傷跡も目立たなくなったが、心に負った傷は深かった。
憎しみが宿った視線は怖かったが、それ以上にルイーゼが泣いているように見えたのだ。エルファーナを嫌悪しながらも、憂えているような目が気になってしょうがなかった。
痛いほどの雨雫を浴びながら、悩ましい感情もすべてどっか行ってしまえばいいと思い突っ立っていると、強く手を引っ張られた。
「――――なにをしてる」
「ヴァリス……?」
長身のヴァリスが、こちらを冷めた目で見つめていた。
ヴァリスは無言で屋根のあるところに引っ張っていくと濡れそぼったエルファーナを見て眉を寄せた。
エルファーナは居心地悪そうに俯いた。
ヴァリスはため息を吐いて、通りかがった侍女に真新しい服と布を持ってこさせると、近くの一室にエルファーナを放り込んだ。雫が滴っていた髪と体を拭き新しい服に着替えたエルファーナは、ヴァリスにお礼を言った。
侍女は、エルファーナの部屋から持ってきてくれたようで、採寸がぴったりであった。
「廊下で眠っているかと思えば、雨の中でぼんやりと佇んでいたり……お前は本当に変わった奴だ」
濡れたものを侍女に持っていくよう指示を出したヴァリスは、呆れたように言った。
何かを言おうとしたエルファーナは、突然強い揺れを感じてよろめいた。それをヴァリスが抱き込み、支えた。
カタカタと家具がなり、棚が倒れた。
揺れはそう長くなかったが、エルファーナには永遠のように感じられた。
止まっても、まだ床が揺れているような心地がして、まっすぐ立てなかった。
「今のは、なあに?」
「地震だ」
答えるヴァリスの顔はどこか険しかった。
「じしん……」
扉の外は騒がしかった。
異常がないか確認をとる怒号が飛び交っていた。
「大陸の終焉のときが近づいているな」
「しゅうえん……?」
「まもなく大陸は死に絶えるということだ」
「どうして?」
「女王不在の今、自然災害を食い止める術はないからな」
「で、でもっ」
エルファーナはヴァリスを見上げた。
「ルイーゼ様がいるもん。ルイーゼ様、今ね、最終試験の最中なのよ。それが終われば……」
「無知は恥か否か」
「……?」
エルファーナは首を傾げた。
ヴァリスはじっとエルファーナを見下ろした。
「知りたいか? 知って後悔するとわかっていても」
ヴァリスが何を言いたいのかわからなかったが、エルファーナは頷いていた。
ヴァリスは、外套をエルファーナにかぶせると、そっと抱き上げた。
「心惑わす暗闇よ――――我らを誘え」
ヴァリスが呟いた次の瞬間、エルファーナたちは宮殿の外にいた。
驚いたエルファーナであったが、それ以上に目を見張ったのは目の前の現状であった。
――――人の波。
数え切れないほどの人間が大挙して門に押しかけていた。
「な、に……?」
子供がぎゃーぎゃー泣いている。親とはぐれたのだろうか。
年寄りやか弱い者たちは押しつぶされて呻いていた。だれも助けようとはしない。いや、自分しか目に入らないようであった。
「大陸中の人間が西雅の都に移り住もうとしている」
見覚えのある高い門。
ここは、最初の門なのだろう。
何十人という兵士が重装備で、侵入を阻んでいる。
強風や豪雨に負けず、それでも群衆は門を揺らしていた。
「いれてくれ、死んじまう!」
「あぁ、神よ――――お助け下さい」
「うちの子が病気なんです、どうかお慈悲をっ」
男が、女が叫ぶ。
声をからしながら。
それを離れたところから呆然と見つめていたエルファーナは、なにがどうなっているのかついていけなかった。
「数日前からこの有様だ。西雅の都は女王の力が残っているせいか、災害に無縁だったが、ほかでは豪雨によって河川が氾濫し、いくつもの村が水没したという。長く続く雨に土砂が崩れ埋まった家もあるそうだ。病疫は蔓延し、大陸は死に絶えている。西雅の都で安穏とした生活を送ってきたお前は知らなかっただろう。大陸が崩壊していることを」
「……っ」
エルファーナは両手で口元を覆った。右の甲がじんじんと痛む。
優しい人たちに囲まれて、幸せすぎて、ほかのことなど考えもしなかった。あの宮殿がエルファーナの領域で、どうなっているのかなんて思いもしなかった。
「――――神様、どうして、」
人の道が続いている。
黒い点は、四方から流れていた。
倒れている人たち。
腐っている死体。
ぼろぼろになって、泥だらけで、それでも西雅の都を目指す人たちの群れ。
「ど…して、入れてあげないの? なんで、なんで……」
「かわいそうか? 憐れか? けれど、あれだけの者たちを受け入れれば、西雅ですら持たないだろう。浮浪者たちをどこに囲う? 受け入れる体制も整っていないのに、安易に招き入れれば、人であふれかえった都には未来はない。路上には死体が転がり、食料は不足し、……確実に犯罪の温床となるだろう。人が密集すれば、諍いも絶えなくなるだろう。制止する手は足りず、不穏な空気だけが増えていく。やがて宮殿にも忍び寄る魔の手に、幾人の者たちが対応に応じることができる。あの者たちを受け入れた瞬間、西雅は西雅でなくなるだろう」
饒舌なヴァリス。
温かさなど欠片もない双眸は、雨に打たれながらも負けずに戦っている群衆に向けられていた。
部屋に引きこもっていると思われがちのヴァリスであったが、実はときおり外に出ていたのだ。空間を操ることのできるヴァリスは好きな時間帯に移動することができた。
「なぜお前に見せたと思う?」
ヴァリスは腕の中で縮こまるエルファーナを見下ろした。
外套にくるんでいても、容赦ない雫はエルファーナの顔をぬらしていた。自らも全身で雨を浴びながら、いつになく真剣な声音で尋ねた。
「わ、たし……?」
闇のように底の見えない黒水晶のような双眸を受け止めたエルファーナはぼんやりと問い返した。
「女王候補なのだろ。なにができるか考えるがいい」
「でも……」
「――――小媛の間は、特別な部屋だ。初代の女王が好んで使用していた部屋だそうだ。その部屋を女王候補でもなかったお前に、住まわせたということは、何かしら藍玉も感じるところがあったんだろう」
「わたし、力なんて……だって、今ルイーゼ様が……。女王様はルイーゼ様なのに……」
「俺はお前の女王姿が見たい」
ヴァリスは言った。
それは危うい言葉だ。
一歩間違えれば謀反と捉えられるだろう。
「……!」
「お前は変わった娘だ。一度だけの関わりと思っていたが、お前好きこのんで俺の元を訪れた。最初こそ空気のように接していたが、なぜだろうな。お前が気になってしょうがない。ほかの候補たちには感じなかった感情が、お前が女王であるといっている気がする。他人の痛みを知り、己の弱さを知り、他者への慈しみを知るお前ならば、女王に相応しい。俺が保証しよう」
「だめ…よ、そんなの……! だって、ルイーゼ様は……? みんなルイーゼ様だって……。わたし、ちっとも相応しくない。癒すこともできないのに……っ」
泣き叫ぶ声。
争う声。
罵る声。
みんな遠くに聞こえる。
「わたし、名ばかりの女王候補なの」
もし力が使えたら、あの憐れな者たちを真っ先に救っただろう。けれどどんなに祈っても叶わないのだ。
「なぜ、そう決めつける?」
「……」
「お前はまだ何もしていない」
なぜがその言葉が鋭い短剣のようにエルファーナの胸に突き刺さった。
エルファーナは黙り込んだ。
ふと、カナリスとの会話が思い出される。
そう、女官の命と女王候補の命、どちらに重みがあるというものだ。
エルファーナはなんと答えただろう。
「あきらめ、ない……」
エルファーナは、ぽつりと呟いた。
小さな声は、雨音にかき消されてしまったけれど、エルファーナの双眸には、不思議な色が宿っていた。