第八章 ルイーゼの最終試験 その一
唸る風。
灰色がかった空には、ときおり金の光りが走る。
壁のない回廊から庭園を眺めていた男は、ここしばらく悪天候に眉を潜めた。
「こんにちは」
幼い声に、男は視線を動かした。そこには銀色の髪の少女がいた。
「娘さんの具合はどう?」
「覚えて…いてくれたのか」
男は目を見張った。
そして、膝を突き、「その節は失礼した。女王候補となられたのでしたな」口頭で無礼を詫びながら、拝した。顔色は悪いものの、所作は威風堂々としていて、貫禄があった。
「あのね、諦めないで。わたし、ルイーゼ様にお願いするわ。きっとルイーゼ様なら治してくれる。ほんとは、わたしが治してあげたいけど……ごめんね」
エルファーナの噂を知っているのか、男はゆるく首を振った。
「いえ、そのお言葉だけで」
男は少し遠い目で庭園に視線をやった。
「銀の女王候補殿、気持ちは有り難いのだが、漆黒の女王候補殿は、わしの娘を癒してくださらないだろう」
「どうして?」
無邪気な問いかけに男は苦笑した。
隠匿と汚濁にまみれた宮中で、少女の無垢な瞳は眩しかった。
ルイーゼを簡単に引き合いにだすところをみると、男のこともルイーゼとの関係もきっと、なにひとつとして耳に入っていないのだろう。
多くの情報を握ることが宮中の上に立つには得策と考えられているのに、女王候補であるエルファーナが無知なのは、どうしてかと男は訝しく思った。知りすぎて困ることはないだろう。
男が真実を述べるか迷うように口を開こうとしたそのとき、回廊が騒がしくなった。身を固くする男のもとに、兵士を連れたリゼが姿を現した。
リゼは、側にエルファーナがいるのを見て取ると、男に対する視線を鋭くさせた。
「朱玲次官――貴方に女王候補暗殺未遂の容疑がかかっております。ご同行願いますか」
いつもは穏和のリゼもこのときばかりは厳しい面持ちであった。
「わしが……?」
皮肉な笑みを口の端にのせた男は、
「漆黒の女王候補の戯言に惑わされたか! 八聖騎士とあろうお方が情けないっ」
烈火のごとく燃えさかる双眸を見開き、言葉尻を強めた。
怒りに身を震わせる男を落ち着き払った態度で対していたリゼは、冷静に言葉を紡いだ。
「昨日、犯人と思われる男を暗部隊の一人が捕らえましてね、秘密裏に拷問にかけていたのです」
「! なにも聞いておらぬぞっ」
本来なら、次官の認可も必要であっただろう。
事は、女王候補暗殺未遂という大罪なのだから。
公にとまではいかずとも、女王の補佐的地位にいる次官の耳に届かなかったのは、意図したこととみて相違ないだろう。
耳ざとい次官ですら気づかなかった事実に、ぎりっと悔しげに奥歯を噛んだ。
「先頃、実行犯がやっと自白しました。ドゥルガル・ディ・ハルハラフィストに雇われたと。貴方とその男が話している姿を見たと証言する侍女もおります。それでもまだしらを切りますか?」
「わ、わしではない!」
間髪入れず男は叫んだ。
その顔は怒りから絶望に染め変えられ、蒼白であった。
「なにかの間違いだっ。これは、わしを陥れる陰謀だ!」
もはや、朱玲次官としての威厳はなく、衝動のままわめき散らす姿は、切れ者とうたわれた片鱗もなかった。
リゼは兵士に目配せして暴れる朱玲次官を捕らえさせた。
「監獄へ」
そう短く命じると、離せぇ――っと怒鳴る声が遠くなっていく。
「エルファーナ、大事ありませんか? 申し訳ありません。見苦しいところをみせてしまいましたね」
身じろぎもできずに今の一幕を見ていたエルファーナは、頬に触れた温かい感触にやっと硬直を解いた。
「ど……して?」
その信じられないと言った声音に、リゼは困ったように視線を揺らした。
「あの者は、ルイーゼ様を毒殺しようと暗殺者を雇ったのです。まさか、朱玲次官がそこまでルイーゼ様を厭われていたとは思いも寄らなかったですが……」
「おじちゃん、悪い人じゃない!」
「エルファーナ……」
「おじちゃんね、とっても悲しんでたの。娘さんが死んじゃうんだって……。だからおじちゃんはそんなことしない」
エルファーナの目はいつもよりずっと力強い。次官が犯人ではないと心の底から信じて疑わないようだった。
頑なな態度に、リゼのほうが驚いてしまった。
「なぜそこまで庇うのです? それほど親しいわけでもないでしょう」
「だって……」
エルファーナはほんの少しだけ目を潤ませた。
「人殺しになったら娘さんとっても悲しむわ。おじちゃん、娘さんのこととっても大事にしてるみたいだった。わたしね、羨ましかったの。父親の愛情とかって知らないから、父親に愛されるその子が……。わたしね、とっても素敵だなって思ったの。家族の愛ってとっても強いんだなって。想って想われて……わたし、だから…おじちゃんがそんな悪いことする人だって思えない」
「おやおや、甘い考えだねぇ」
突然割り込んできた声。
リゼがその人物を睨みつけた。
「カナリス!」
「だってそうだろう? そんな考えがまかり通るなら、犯罪者を捕まえることができなくなってしまうよ。いいかい、エル。いくら家族愛が強くたって、犯罪者は犯罪者。家族のために罪を犯す人間だっているんだから、そんな甘い考えは通用しないんだよ。――――リゼ、あんたもはっきりお言いよ。優しさだけ与えておいたんじゃ溺れちまうよ。世の中汚いことばかりなんだ。宮殿に住まわせておくなら、他人を疑うことを知らないと、羊の仮面を被った狼に食われちまうよ」
「信じるのはいけないこと?」
エルファーナは二人を静かに見つめた。
純粋な光りを宿す双眸は清らかだからこそ美しい。
どこまでも澄んだ蜜色の瞳に、なんともいえない顔をしている二人が映し出されていた。
「神様は信じなさいって。聖書には、信ずることこそ力となり、疑う心こそ悪となるってあったわ。信じて裏切られても、わたし、最初っから疑いたくない。それに、わたしだって罪を犯したわ。いけないことだってわかってても、生きていくためにパンを一つ盗んだの。働かないといけなかったのに、とってもお腹が空いてて……目の前にあったパンに手を伸ばしちゃったの。でも、罪悪感でいっぱいになって村長に言ったわ。鞭で何回も何回も叩かれた。わたし、悪いことだったって知ったわ。でも後悔はしなかった。だって食べなければ飢えて死んでたもの……。わたしだって悪い子だわ」
「けれどエルファーナは反省をしたのでしょ? ならば罪も浄化されるでしょう」
「したわ。いっぱいいっぱいした。神様に何度も謝ったの。罪を犯した人たちもそうじゃないの? きっと胸がチクチクするはずだわ。神様に嘘はつけないもん」
「そりゃ、エルのような子供だったら罪悪感に苛まれてるだろうねぇ。だけど、罪を罪とも思わない不届きな連中もいるんだよ。快楽を得るために人殺しをする輩だっている。そういう連中はね、犯罪に手を染めることに躊躇はないのさ。――おっと、外がずいぶんと騒がしくなってきたねぇ」
轟音にカナリスが眉を潜めた。
ほかの地方からいざしらず、西雅の都で天候が崩れるのは、ありえないことであった。
女王のお膝元ということもあり、天災による被害はまったく受けていなかったのだ。
開けた空には、稲光りが。青白い線は槍のように降り注いでいた。
ゴォーッン――ピッシャアッ
地鳴りのような雷が、空気を震わした。
灰色だった空は、更に濃くなって、昼間だというのに辺りは暗くなっていた。侍従や侍女が明かりをともしていく。
宮殿の周りだけ照らされたが、エルファーナは不安に苛まれた。ぐるぐるととぐろを巻くような空が怖くなって、リゼにしがみついた。
「神様が怒っているの?」
「そう、かもしれませんね。女王の不在を憂えていらっしゃるのでしょう」
エルファーナを抱き上げたリゼは、彼女の恐怖を払うかのように強く抱きしめた。
「ルイーゼ様、午後から試験をするんでしょ? その前にお会いしたら迷惑? わたしね、おじちゃんの娘さんの病を治してくださいって頼みたいの。お菓子のお礼もちゃんと言いたいし」
「それは……」
「いいじゃないの。会わせてやれば。エルだって女王候補なんだ。問題ないだろ」
言葉を濁したリゼの代わりにカナリスが答えた。底の見えない笑みを浮かべながら。