その三
「おやおや、どうしたんだい?」
密やかに言葉を交わしていた二人は、柔らかな声を受けてばっと振り返った。
「これは……翡翠の騎士様」
さすがに八聖騎士だけあって後ろに立っていても気配すらなかった。声をかけられるまで気づかなかったことに二人とも舌打ちしたい思いであったが、一瞬で飲み込み、拝礼した。
「なんだか騒がしいねぇ」
彼のにこやかな目の奥は、何一つ見逃さないような鋭さがある。
ごくりと生唾を飲み込んだリーシアは、冷や汗を流した。
「なんの、ことでございましょう」
「あんたたちと医師を捜して侍女が駆け回っていたそうだよ。これは、お姫さんになにか遭ったなと見当をつけたんだけれど、違っていたかな」
「わたくしたちの主は息災にございます」
「なるほど、よくできた女官だ」
納得するように頷いたカナリスは、ゆるく首を傾げた。
「けれどね、思い上がってはいけないよ。エルが女王候補の一人である以上、不用意な隠し立ては謀反とみなすから」
声音こそ柔らかであったが、ひんやりとした響きを乗せていた。きっと本当に処罰をする気なのだろう。
翡翠の騎士は言動がひょうひょうとしているせいか、軽く見られがちだが、有言実行を地でいくのだ。冗談と気を抜いたら痛い目を見るだろう。
それを知っているリーシアは、わずかに怯んだが、嘘は吐いていないと思い直し、カナリスに負けぬとも劣らない分厚い仮面を顔にはり付けた。
眼鏡の奥の目を細め、推し量るようにリーシアを見澄ましていたカナリスだったが、答えが自分なりにでたのか明るく言った。
「さてと、エルに会いにきたんだけれど、もちろん会わせてくれるだろう?」
リーシアがアルフィラに目配せをする。
医師はリーシアが引き留めるしかないだろう。
だからカナリスのほうは任せるという視線に、伝わったらしいアルフィラは微かに頷いた。
「では、翡翠の騎士。どうぞ中へ」
アルフィラがノックをしたあとに扉を開ける。
「エルファーナ様、翡翠の騎士がお見えです」
アルフィナの声に、必死にペンを動かしていたエルファーナはぱっと顔を上げた。
「カナリス!」
それからアルフィラに視線を移して小首を傾げた。
「イーズは?」
「急用ができまして……」
カナリスの探るような視線から目を背け、言葉尻を濁したアルフィラは、お茶の用意をするために少し下がった。
残されたカナリスは、エルファーナの背後にまわり、覗き込んだ。
「手紙でも書いているのかな」
「綴りのお勉強よ」
にっこり笑ったエルファーナをしげしげと見つめたカナリスは、
「具合は悪くない?」
そう尋ねた。
エルファーナは大きな目を不思議そうに瞬かせた。
「イーズと同じね。わたし、そんなに病気っぽい顔してる?」
「ふむ。よっぽど目が悪くなければ、頬をバラ色に染めて、蜜色の目をきらきらと輝かせているあんたを見て病気と考える者はいないだろうねぇ」
「よかった。わたしとっても元気なのに病人のような顔していたら、みんなが心配しちゃうもの」
「心配はかけたくないかい?」
「心配されるのは好き。だって、わたしが好きだから心配してくれるんでしょ? でもね、あんまり心配かけちゃ駄目なの。わたしに構い過ぎたらみんな好きなことできないもの。迷惑かけるのは嫌い」
「けれど君は女王候補だからねぇ。些細なことでも大げさにとらえるだろうさ。あんたになにか遭ったら女官の首一つでは足りないよ」
エルファーナはペンを置いてカナリスを見上げた。
「わたしの命のほうが重いの……? どうして? 生きとし生けるものはすべて平等だって聖書に書いてあったもん。人の命に重いも軽いもない」
「いい方をかえようか。もう一人の女王候補と女官の命ならば、どちらを優先する? 一人しか助けられない状況で、あんたならばどちらの命をとる? まあ、大陸の未来を担う女王候補と一介の女官の命など比べるべくもないだろうけれど」
どこか冷たい響きを乗せた問いかけに、エルファーナは黙り込んだ。
もちろん女王候補の命だろう。
ルイーゼが女王とならなければ、自然災害は更に猛威を振るい、数多の死者がでるであろう。
たっぷりと間を置いたエルファーナは、カナリスをじっと見つめた。
何を考えているかわからない若葉色の双眸。
エルファーナは手を伸ばして彼の眼鏡をとった。
「エル……?」
「カナリスの瞳、好きよ。あのね、春の暖かい色だから。春を運んでくる色なのよ。とっても優しい色……カナリスのその薄い緑の色が地面からひょっこり顔を出す季節が一番好き。冬の間は寒くて…冷たくて、色がなんにもなったから、いつも春の女神の訪れを待ってた」
冬は一年の間で一番辛い季節だ。
森に行っても食材を手に入れることができず、村の人たちに頼るしかなかった。無視され、ときには酷い仕打ちに耐えながら、生きていくために仕事をくださいと頼む日々。
日が落ちるのは早く、真っ暗で狭い家で、一人ただ震えていた。
一日がとても長くて、神様にずっと祈ってた。
早く冬将軍が通り過ぎて、春の女神が目を覚ましますようにと。
若葉色は、エルファーナが心穏やかになれる日々の訪れを知らせる色。
村の人たちに頼ることなく、一人で生きていくことができる素敵で大切な色だ。
「カナリスはまるで春の女神様みたい。見つめられると、春の日差しに包まれている気がするの。でも、今の瞳は冬将軍様が乗り移ったみたい。冷たくて…悲しくなる」
眼鏡をぎゅっと抱きしめたエルファーナは双眸を翳らせた。
「あのね、命はね、神様が与えてくれたものなの。だからね、どっちも選べない。命は平等だから……権力があるとかお金を持ってるとか、そういった基準で決めつけちゃ駄目なの。わたしはどっちも助けたいもん。ルイーゼ様だってそう思ってるはずだわ。もしわたしだったら……わたしが女王候補ってだけでリーシアたちが死んじゃったらちっとも嬉しくない。わたし一人助かっても嬉しくない。でも、わたしが死んでリーシアたちが助かったら、それはそれでリーシアたちが悲しむでしょ。そんなの嫌。だからわたしね、二人とも助けたいの。無理でもやるの。道をさがすの。だって諦めたら道はそこで終わっちゃうもの」
リゼが外の世界を教えてくれたときから、エルファーナの未来は無限に広がっている。
狭い世界で、ずっと閉じこめられてきたエルファーナは、リゼのおかげで願いは叶うのだと知ったのだ。
神様にずっと祈っていた。
幸せになりますようにと。
笑いあって暮らせますようにと。
だれか、そばにいてくれますようにと――。
すべてを諦めていたエルファーナにとって、その小さなお願いが叶ったとき、諦めていては駄目なのだと悟った。
「あのね、リゼが聴かせてくれたの。物語をいっぱい。ご本だって読んだのよ。悲しいお話もあったけど、みんなね、諦めないのよ。騎士様は、お姫様を助けるために大きな竜と戦うの。死んじゃうかもしれないのに、お姫様のために戦うの。だからね、わたしも頑張るの。頑張ってね、みんなが助かる道をさがすの」
「……」
カナリスは瞠目しながらエルファーナの話を聞いていた。
そこに、アルフィラがやって来た。
二人の間に漂う微妙な雰囲気に気づいてか、アルフィラは訝しげな顔をしたが黙ってお茶の支度をした。
「あ…っ、わたしね、お茶いらないの。ごめんなさい。さっきね、いっぱい飲んじゃったの……。だからお腹いっぱいでもう入らない」
そこでエルファーナはきょろきょろと部屋を見回した。
「ルイーゼ様にもらったお菓子……どっかいっちゃった」
「あのお姫様から……?」
アルフィラが答えるよりも先に、黙り込んでいたカナリスが反応した。
「お花みたいに色がついててね、食べるとふわって口の中で消えちゃうの。とっても美味しかったのよ。カナリスにも食べてもらおうと思ったんだけど、きっとイーズが持ってちゃったのね。今度またもらったら、真っ先にカナリスにあげるわ。ほんとに美味しいのよ」
目を輝かせるエルファーナとは対照的にアルフィラの双眸が気まずげに揺れた。
伊達眼鏡であるカナリスは、その動揺を見逃さなかった。
「それは、食べてみたかったねぇ――とても、ね」
その瞬間アルフィラは悟った。
カナリスが最悪な形で露呈してしまったことを。