第一章 忌み子と呼ばれる少女 その一
冬将軍に支配される季節。
箔凰地方は、雪こそ降らないものの、冷たい空気が流れていた。中でも暁の領主が管理する村の一つベルッセでは、朝方ともなれば霜が降りるほどであった。
その日、珍しく青空が広がっていたが、昼も過ぎた頃から暗雲に覆われはじめた。冷たい雫が大地を濡らすまで、そう時間はかからなかった。
「ちょっと!」
激しい雨音を背に、少女が眦をつり上げて怒鳴った。
「なにちんたら運んでるのよっ。雨で濡れたら売り物にならないじゃない!」
「ごめ……、なさ、ぃ」
容赦ない罵倒を浴びせられたエルファーナ・アルビンスは、毛先からしたたり落ちる雫を拭いもせずに、外に干してあった布を家の中に運んだ。雨を吸った布は重く、見た目よりもずっと重労働であったが、急かされるまま外と家の中を往復する。
すべてをしまい込んだ頃には、エルファーナの服はぐっしょりと濡れそぼっていて、寒気を覚えるほどであった。こんな寒々しい仕事場でなく、奥の部屋にある暖炉で体を温められたらどんなに幸せだったろう。
「っこんなに濡らして……! また一から乾かさないといけないじゃない!」
エルファーナとそう年は変わらないのに、彼女よりずっと大人びた顔立ちの娘は、顔を歪めて怒りをあらわにした。
「……んのっ、役立たず! 村の厄介者! アンタっ、こんな簡単な仕事もできないの!?」
震えながら裏口に突っ立っていたエルファーナは、憎々しげに睨みつけられ、大きく肩を揺らした。そんな動作も癇に障ったのか、苛立ちをぶつけるように足を振り上げ、エルファーナの腹にめり込ませた。
「……ぅ」
やせ細った小枝のような体がぬかるんだ地面に勢いよく倒れた。大粒の雫が頭上から降り注ぐ。視界を邪魔する雫のせいで、うまく目も開けられなかった。
「だっさっ。バッカみたい。アンタには泥水の中がお似合いよ!」
泥だらけになった惨めなエルファーナを見て胸がすっとしたのか、少女は満足そうに顎をつんと上げた。
そのまま戸を閉めようとした少女に、目を必死に拭ったエルファーナが慌てて身を起こしてすがった。
「ぁ……、ま、待って……! おねが……、食べ物を少しわけて。手伝ったらくれるって……っ」
刹那、顔色を変えた少女は、エルファーナが部屋に足を踏み入れるのを拒んだ。
「触らないでっ。穢らわしい。だいたい、満足に仕事一つできないくせに報酬をもらおうって? ふざけないでよ! 世の中そんなに甘くないのよ」
「そ、な……」
慈愛のかけらもない冷たい言葉に、絶望が胸の内に広がっていく。
もう何日も食べていないのだ。木の実や果実も今の季節はなっておらず、どうしてもこの時期は村の人たちに頼らなければならなかった。それでも木の皮をはいで飢えをしのいだが、育ち盛りの彼女には足りなかった。
冬将軍の訪れとともに村の人たちの手を借りなければならないのは、周知の事実。
仕事や手伝いをする代わりに、食べ物等を少しもらう。これまでだってそう過ごしてきたし、村の人たちは嫌々であっても報酬として少しだけ食物を恵んでくれたのだ。なのに、彼女はそれを真っ向から否定した。
「――ヒーリア、いったい何の騒ぎ? 雨音よりも大きな声を出して、品のない」
「あ、お母様」
不機嫌そうな声に、ヒーリアと呼ばれた少女が声音をかえて、奥の部屋から現れた母親にすり寄った。
「聞いて、お母様。あたしがせっかく作り上げた生地を台無しにしたくせに、食べ物をよこせっていうのよ。さも当然のように! 信じられる?」
ヒーリアの言っていることは嘘だ。
確かに水に触れさせてはいけなかったが、染めてから日は経っている。少し時間は足りなかったが、またお日様の下で乾かせば、色落ちもしないだろうし、商品として市場で売れる。たとえ色落ちしていても、それが返って味となる場合もあるし、刺繍を加えれば見事なものになる。
生地作りに長けている者ならば、その辺の事情など理解しているはず。
けれど、それを承知のはずの母親は、娘の言葉に薄く笑みを引いた。
「まあ、大変。仕事の怠慢の件ついては、村長に報告しないといけないわね。まったく、子供だからと大目にみていれば悪いクセばかり一人前に覚えて……。ヒーリアが知らせてくれなかったら、わたくしたちは間違いを犯すところだったわ。――エルファーナ。怠けていたのだから、報酬はもちろんなしよ。生地を作り直すよう命じないだけ感謝なさい。さ、可愛い子、暖炉のそばに行きましょ。ここは冷えるわ。おまえが風邪を引いてしまったら大変よ」
娘とよく似た高慢そうな顔立ちの母親は、雨に打たれて呆然としているエルファーナを汚物でも見るような目で一瞥すると、戸を勢いよく閉めた。
楽しげな母子の声が遠くなっていく。
エルファーナの沈んだ心に呼応するかのように、雨音はますます強くなった。
朝から働いたというのに、なにも与えられなかったことがさすがに辛く、そこから動けずにいた。頬を伝うのが涙なのか、それとも雨の雫だったのか、彼女自身にもわからなかった。
それから、どれくらい時間が経っただろう。寒さで指先の感覚もなくなってきた頃、ようやく自分の家に戻った。といっても家と呼ぶにはあまりにも小さく、簡素な建物だ。
早くに両親を亡くしたエルファーナに頼れる者もおらず、七歳までは村長が世話をしてくれていたが、身の回りのことを一人でできるようになると追い出されてしまった。村に留まることだけはなんとか許されたが、村の人たちは関わりを持つことを拒否し、彼女は多くの時間を独りで過ごすしかなかった。
「神さま、わたし、どうしたら…いいいの……?」
村の人たちが建ててくれた家は、ほかの家と比べてとても雑な造りで、冬場などすきま風で凍えてしまいそうなほど寒かった。石造りではあるが、窓は小窓一つで、むしろ馬小屋のほうが広々としていて整った環境をしているかもしれない。
いつものように天地を創造された神に祈りを捧げたエルファーナは、いつになく弱気な心を覗かせた。すでに体力は限界であった。
疲れと飢餓で床に倒れ込むと、濡れた衣服もそのままに寒さで震えた。
「おかぁさん……おとぉ、さん……」
かちかちと歯を鳴らしながら今は亡き母と父を想った。
涙が次から次に溢れてくる。寒くて、苦しくて……。
両親の元に逝けたらどんなによいだろうか、と甘い考えが脳裏をよぎる。それは決して望んではいけない死への誘惑。だが、十三となったばかりの彼女には、生きることが辛かった。
しばらく経ってからのろのろと起き上がると、ボロきれのような服を脱ぎ、寝間着として使っている厚手の服に袖を通した。小柄なエルファーナにはずいぶんと大きな衣服であったが、寒さをしのぐにはありがたい。
彼女が着ているものは、すべて村の人たちからのお下がりであった。ぼろぼろになってつきはぎが目立つものばかりで、わざとそういうものを与えられたのは一目瞭然。
だがこの時期、寒さに震える彼女にとっては、服と呼ぶのもおこがましいものでも重宝した。寒い日は体に巻き付けることができるし、破れたところをあてがう布にもできるからだ。
エルファーナは、空腹を紛らわすために瓶に入った水をすくって飲んだ。冷え切った水は、喉も凍りつかせるかのようだ。
暖をとろうにも、集めた木の枝は外。雨に濡れて使い物にならないだろう。
真っ暗な部屋の中でひとり寒さと飢えに戦いながら夜を明かした。
ぼんやりと石壁を見つめていたエルファーナは、外が明るくなったことに気づいた。いつの間にか雨は止んでいたのだ。青白い顔で小窓から注がれる日差しの側に這い寄った。
「あったかい……」
光りに満ちたそこはまるで母に抱かれているような錯覚を起こさせる。
暖かさにうっとりと目を閉じて、眠りの世界へと落ちていった。明日こそは、何かが変わることを夢見ながら。