その五
「エルファーナ、急だけれど旅の支度をしてください」
蒼く美しい海を見渡せる宿に戻ったエルファーナは、リゼにそう言われて目を輝かせた。
「今度はどこに行くの?」
「女王陛下のお膝元、西雅の都ですよ。とても賑やかな都で、きっとあなたも気に入るでしょう」
「ルイーゼも一緒?」
「エルファーナ、ルイーゼ様と」
「ルイーゼ、様……?」
エルファーナはこてんと首を傾げた。
その可愛らしい動作に、くすっと笑ったリゼだったが、すぐに笑みを消した。
「エルファーナ、このエリ=ハド大陸を統治していた方が、女王陛下なのは教えましたね。五十八代目の女王陛下――雪幻の女王が崩御なさったのは、今から十八年も前のことです。あまりにも突然の訃報に、大陸中に激震が走りました。雪幻の女王が即位なさってからまだ三年しか経っていなかったからです。あまりにも短い任期に、次の女王候補も探し出せていませんでした。本来なら、女王が存命中に次の女王を任命し、役目を引き継ぐのが習わしでしたが、早すぎる死をだれが予測できたでしょう。次代の女王を候補生の中から見定めることができるのは、当代の女王しかおりません。それが、後の悲劇となったのでしょう」
リゼは憂鬱そうに視線を床に落とした。
「残された八聖騎士は、女王候補を探し回りました」
「リ…レ……?」
「リ・レイハスですよ。女王をお守りする八人の騎士のことです。女王陛下と同じように神の御力が与えられ、女王と共に大陸の平穏をお支えしているのです」
「騎士様……。お姫様を救うの?」
寓話に出てくる騎士のことを言っているのだろう。
浮かない表情だったリゼは、とんちんかんな応えに吹き出した。くすくすと笑ったリゼは、不思議そうな顔をしているエルファーナを膝の上に乗せた。
「八聖騎士は、普通の騎士とは違います」
リゼはそう言うと小さく唱えた。すると、氷の結晶がエルファーナの頭上に降り注いだ。目を丸くしているエルファーナに、「私は八聖騎士の一人なのです」と告げた。
「藍玉の騎士リゼ。それが私の通り名です。私が神から授かった力は、氷の力です。……気味が悪いですか?」
「どうして? すっごく綺麗……。透明でひんやりしてる。冬将軍が居座ってる時期の湖の水と同じくらい冷たい。でも、掌に触れるとふわって消えてしまうの。とっても素敵っ。これが神様の贈り物? すごいっすごいっ。とっても素敵な力ね」
うっとりと宙を下りてくる結晶を眺めていたエルファーナは、興奮気味にリゼを見上げた。蜜色の双眸は、宝石のように輝き、リゼに対する賞賛が宿っていた。
邪気のない純粋で素直な言葉は、リゼの心にも染み渡ったようで、リゼは安堵の息を吐くとエルファーナを正面から抱きしめた。
「リゼ……?」
「少し、このままで……」
エルファーナのような反応をする者は少ない。ほとんどの者が人とは違う力に畏怖を抱き、距離を置くようになるのだ。
だからこそ、八聖騎士は、証となる石を握って生まれ出でたときから西雅の都にある宮殿で暮らすのだ。
親は、一生不自由しないお金と引き替えに我が子を宮殿に預け、子供は親の顔を知らないまま騎士としての教育を受けるのだ。
女王にお仕えするのに恥じない教育を朝から晩まで。それは決して楽な生活ではなかっただろう。
だが、神の力を授かった八聖騎士は、普通の者たちの間で暮らすには難がありすぎた。
親が八聖騎士であることを隠していたために、力を制御できず育った子供が狂気にかられて人を殺してしまったり、生まれ育った故郷を消し去ってしまったということはざらにあったのだ。
親元から離すのは、ひとえに被害を最小限に食い止める配慮もあったのだ。だが、親も子もそれを知らされず、永遠の別れを強要されるのだ。
八聖騎士が事実を知るようになるのは力を制御できる頃だろう。
リゼは、両親の身分が高かったせいか幼少時は両親のもとで育った。特例ではあったが、当時の女王が許したのだ。若い頃、授かった赤子を死産という形で亡くしてしまった女王は、母親の我が子と離れがたいという気持ちをよく理解していたのだろう。
そうして乳母や両親のもとで育ったリゼだったが、ささいなことで感情が高ぶってしまい、藍玉の騎士としての力が解放されてしまった。周辺のものを凍りつかせてしまったのだ。幸いにも被害は、家具が氷で覆われるにとどまったが、それを見た城中の人間がリゼに恐怖を覚えるのに時間はかからなかった。
怒らせたら自分も家具のような運命をたどるのではないかという疑心暗鬼は、使用人だけでなく彼が愛する両親も抱いていた。
――化け物、と密やかな悪意はリゼの耳にも届いていた。
神から授かった力であるのに、殺傷能力があるとわかったとたん掌を返して煙たがるようになったのだ。
結局、その事件がもとでリゼは、両親から離れ宮殿で生活することとなったのだ。
宮殿で制御できるよう訓練し、藍玉の騎士の名を襲名したリゼは、女王候補を捜して大陸をさまよっていたが、力を使う機会がたびたびあった。そのときの人間の反応は、城の者たちと変わらなかったのだ。
八聖騎士と公言しなかったせいもあるが、普通とは異なる力を持った者に、市民の視線は怯えと畏敬の念しか宿っていなかった。
エルファーナのように褒め称える者などいなかったのだ。
「リゼ、気分悪いの……? お医者様連れてくる?」
エルファーナの心配そうな声に、ようやく身を離したリゼはゆるやかに首を振った。すでに氷の結晶は溶け消えていた。
リゼの顔を不安そうに見つめていたエルファーナだったが、顔色が悪くないのを見て取ると安堵の息を吐いた。
そして何かを考えるようにぎゅむっと眉を寄せると、パッと顔を輝かせて上機嫌に言った。
「リゼは騎士様で……騎士様だから、リゼが捜してたのは、女王様?」
「察しがいいですね。そうです。正しくは、女王候補ですが」
「じゃあ……じゃあ、もしかしてルイーゼ様が? 女王様?」
頭の回転がいいエルファーナに、上出来とばかりにリゼは微笑んだ。
「ぴったり! ルイーゼ様が女王様ぴったり!」
頬を染めたエルファーナは興奮気味に叫んだ。
エルファーナがこれまで見てきた女の人の中でルイーゼが一番美しく、たおやかで優雅だったのだ。
ルイーゼは、まるで寓話に出てくるお姫様そのもので、そんな人と会話をしたのかと思うと胸がドキドキしてくるのだ。
「騎士様のリゼがお姫様のルイーゼ様をお守りするのね。あのね、わたし、お姫様と騎士様が出てくる話が一番好き。女神様が出てくる四季のお話も好きだけど、それはちょっと悲しいの……」
吟遊詩人として大陸を渡っていたリゼは、その名に恥じないよう知識を身につけていた。竪琴を奏でながら、心地よい美声が空気を震わせながら各地に残る伝承を謡うのだ。
それを間近で、しかも無料で毎日のように朝晩と聴いているエルファーナは、すっかりリゼの謡いになれてしまい、ほかの吟遊詩人を聴くと物足りなくなってしまうのだ。話し方も竪琴の響きも声音ですら、リゼに敵う者はいないだろう。
この頃では、リゼの声に惹かれて扉の外に客がひしめいているほどであった。薄い扉から声が漏れているのだろう。大音声ではなかったが、美しい声というのは、喧噪をも通り抜けてしまうのだろう。
「夏の公子、ですか。五日前に謡ったんでしたね」
夏の公子を主人公とした語りは、まず彼がどれだけすばらしい人物であったかというところから始まる。
この世の栄華を手にする春の女神の寵愛を受け、世界は彼のものだった。
しかし彼は禁忌を犯してしまった。
女神の愛を受けながらほかの者に心を奪われてしまったのだ。
それが寂れた城に住んでいた秋の姫。
木漏れ日のような優しさと、たおやかな美しさを持つ春の女神ではなく、触れたら壊れてしまうような繊細ではかない容姿の秋の姫に恋をしてしまった夏の公子。
もちろん夏の公子を愛する女神はその禁忌を許しはしなかった。嫉妬に狂った春の女神は、慈愛深さも怒りの炎の中に捨て、秋の姫を憎悪したのだ。
春の女神の怒りを買った秋の姫は、女神の息の根にかかった者たちによって氷の城に住まう残虐な冬将軍のもとへ送られてしまう。
冬将軍が支配する地は、警備が硬く、他者の侵入を拒んでいた。彼の地に足を踏み入れて無事に生還した者はいないのだ。
城の奥深く――氷の牢に閉じこめられた秋の姫と夏の公子が会うことは叶わなかった。
しかし勇猛で畏れ知らずの夏の公子は諦めなかった。
秋の姫を手に入れようと冬将軍相手に悪戦苦闘する夏の公子に、秋の姫を引き離せば自分のところに戻ってくると信じて疑わなかった春の女神は絶望し、ついに秋の姫を手にかけてしまったのだ。
真っ先に怒り狂ったのは、秋の姫の清らかな心に触れ、いつの間にか愛してしまった冬将軍であった。
氷が溶けるほどの激しい憤怒で春の女神に襲いかかった冬将軍は、自分の命と引き替えに愛おしい秋の姫の命を奪った春の女神を殺めてしまう。
復讐もできず、ただ一人冷たい城に残された夏の公子は、血に濡れた秋の姫を綺麗にするとその横で短剣を突き刺し自害した。
そうして冬の冷たい城の中で土に還ることなく、三人と女神の遺体は氷づけにされて今もどこかに眠っているという。
これが四季の伝説として今でも吟遊詩人に語り継がれているのだ。
「みんなちっとも幸せじゃないわ」
「大衆は、悲恋が好きなのですよ。吟遊詩人が語る話にはだいたい脚色してあるものばかりで、真実などほんの少ししか含まれていないのです。なにしろ、長い年月をかけて渡っている話ですからね、自分流に変えてしまってもだれもわからないでしょう」
「リゼならみんな幸せになるお話にするの?」
「エルファーナらどうしますか?」
「わたし……?」
問い返されてエルファーナはむぅっと唸った。
「みんな幸せになるお話がいいけど、どうすればいいかわからない。だって、夏の公子様と秋のお姫様が幸せになっても、女神様や将軍様は悲しいもの。……ぁ! 女神様と将軍様が恋に落ちればいいのよ」
名案だとばかりに嬉々として言ったエルファーナは続けた。
「だって、冷たい冬が過ぎれば春の女神様の季節になるでしょ? 怖い将軍様だって、女神様の暖かさを知ればきっと好きになるもの。氷が日差しで溶けるように、将軍様の冷え切った心もきっと女神様の優しさに包まれて溶けちゃうの。これだったらみんな幸せ」
「ではエルファーナが望む通りに変えてみましょう。晩に、新しい夏の公子をお聞かせしますよ」
「ほんと? 夜がとっても楽しみ。明日はルイーゼ様が一緒だからもっと楽しみよ」
甘えるようにリゼに抱きついたエルファーナは、きらきらと目を輝かせてリゼを上目遣いに見た。
「ルイーゼ様は女王様だもん」
「まだ決まったわけではありませんよ」
「どうして? ぴったりなのに」
「見た目ではありませんからね」
リゼは苦笑した。
「これまで幾人もの候補生が現れましたが、どの方も女王陛下とおなりになる資格がありませんでした」
「しかく……?」
「そうです。女王候補には、体のどこかにアザが現れます。ルイーゼ様には額にございました。それから生身の人間では持ち得ない不思議な力。女王候補の方は、みなさま神の御力を宿していらっしゃるのです」
「ルイーゼ様は、怪我を治したわ! あれは…、神様の力のおかげ……?」
エルファーナはおそるおそる問いかけた。
「えぇ、神が授けて下さったものです。先ほど見せた氷の結晶と同じです。私の場合は、水の精に力を借りて大気を凍らせることができるのです。ルイーゼ様の場合は、四大の精霊の力を借りて治癒の……エルファーナ?」
黙り込んでいたエルファーナは慌てて首を振った。
「ううん。なんでもない。そっか……悪魔のせいじゃなかったんだ」
「悪魔ですか。治癒能力は、最も悪魔が苦手とする部類でしょう。殺傷する力があるならまだしも、癒す力を悪魔が与えるはずありません」
「そっか……そっかぁ」
気分を落ち着けるかのようにそう呟いたエルファーナは、憂いを吹き飛ばすかのように満面の笑顔で言った。
「ルイーゼ様が女王様だといいね。そしたら天気もとってもよくなるし。あのね、そしたらね、お花がいっぱい咲いたお外でね、リゼと御飯食べるの。お外のお花畑がとっても綺麗で、ご飯もきっといつもよりずっと美味しいの」
可愛らしい願望に、リゼの目尻が下がった。