その二
残されたエルファーナは、ただ首を傾げるばかりだったが、大人しくリゼが帰ってくるのを待った。目の前を通り過ぎていく人の波をぼんやりと眺めていると、目の前に影が落ちた。
「よぉ、嬢ちゃん、一人かい?」
エルファーナが顔を上げると、人の良さそうな顔をした青年が立っていた。茶色の癖のある髪に、少し丸い輪郭が柔らかな印象を与える。
「珍しい髪の色してるな」
青年のごつごつとした男らしい手がエルファーナの綺麗な銀色の髪に触れる。
「天鵞絨みてぇな髪だな。きらきらしてきれぇだ。手触りもいいし、嬢ちゃん、いいモンもってんな」
そんな風に褒められたのは初めてでエルファーナはにこにこした。みんなと違う髪の色は、いつも疎外感しか与えてくれなかったのだ。
「な、ちょっとあっこ行かねぇか?」
青年はちょっと視線を周囲に走らせると、声を潜めておもねるように言った。
「駄目。リゼがここにいてって」
「なぁ、ちょっとだけだって。連れがきたら戻ればいいだろ? ほら、あっこからだったらここがよく見えんだろ」
青年の甘い誘いに、エルファーナの心が揺れる。
迷っていると青年が強引にエルファーナの腕を掴んだ。
「あっこにいいモンがあるんだぜ。きっと嬢ちゃんの連れも気に入るぜ」
エルファーナの返事も待たずに無理やり歩き出した。エルファーナはびっくりして、足がもつれて転びそうになったが、青年は速度を緩めてくれなかった。
人通りの少ない角を曲がったところで青年は、エルファーナの体を抱き上げると口を手で塞いだ。
「いいかい、嬢ちゃん、静かにしてな」
青年の顔から笑顔が消えた。
エルファーナは何が起こったのかわからなくて瞬いた。
暴れもしないエルファーナに、にやっと嗤った青年は、馬車通りに停めてある荷馬車に向かおうとしたが、そこに人影を見つけてぎくりと足を止めた。
「よぉ、兄弟。なんだ、もう見つけたのか」
陰となっていた場所から悠々とした足取りでやって来たのは、青年の仲間であった。
「なんでぇ、おどかすな。」
取り締まりにきた役人か、港町の人間だと思ったのだろう。ぺっと唾を吐き捨てた青年は、あごひげが少しむさ苦しい男を睨みつけた。しかしすぐに、にやにやと下卑た笑みを口の端に乗せる。
「どうだ、いい髪の色だろ。ここらじゃお目にかかれねぇぜ。幼児趣味のお貴族様が高値で買い取ってくれるだろうよ」
「ふんっ、髪の色が珍しいったって顔は普通だろうが。もうちっと太らせねぇとな。壊れちまったら値打ちがさがっちまう。役人のクソどもに見つかんねぇうちにとっとと乗せち――…ぐ、ぅ」
エルファーナに手を伸ばそうとした男の体が傾いだ。どんっと大きな音を立てて石畳の上に倒れ込んだ彼の後ろに、小柄な少年が立っていた。
「なんでぇ!」
青年が警戒心をあらわに吠える。
「白昼に誘拐なんて、なんだか穏やかじゃないなぁ」
すっと、一歩踏み出せば、日陰で見えにくかった顔がさらされる。涼しげな衣装に、小綺麗な顔がまるで貴族の子息のような出で立ちだった。
及び腰だった青年は、相手が年端もいかぬ子供だと気づいて、無遠慮に眺めた。
エルファーナも青年と同じように突然現れた少年に目をやって、大きく瞬いた。 ハルスだったのだ。
「その子の知り合いなんだよね。大人しく返してくれたら命は奪わないけど」
ハルスはそう言って不敵に笑う。
しかし見た目がか弱くみえるせいか、青年は怯むどころか強気な態度に出た。仲間が倒れた理由まで深く考えなかったのだ。彼にとって大事なのは、目の前の利益だけだった。
「なかなかいい面してんじゃねぇか。こりゃ稚児趣味のジジイが大金積んででも欲しがりそうな面構えじゃねぇか」
青年の口の端がにやっと持ち上がる。
舌なめずりしそうな好色な顔を前にして、ハルスの上品な顔が嫌悪感に少し歪んだ。目にもとまらぬ速さで跳躍したハルスは、手刀を青年の首にたたき込んだ。
「ぅ……」
青年の手が緩み、エルファーナの体が落ちそうになったが、一瞬早くハルスが抱き留めた。細い腕のどこにそんな力があるのかと訝しく思うほど楽々と抱き上げ、地面に下ろしたハルスはちょっと屈んで、ぼんやりとしているエルファーナの頭をコツンと軽く叩いた。
「おチビちゃん、知らない人について行ったら駄目だろ? まったく、僕が偶然通りかからなかったらどうなってたと思うの。デブな糞ジジィの慰みものになんかなりたくないでしょ?」
ハルスの言っていることがちょっと理解できなくてエルファーナは小首を傾げた。
「あぁ、もうっ。そんなにかわいくしてもだーめ。僕怒ってるんだからねっ」
「怒ってるの……? わたし、勝手にいなくなっちゃったから……?」
エルファーナはしゅんと項垂れた。
リゼに気を取られてハルスを置いてきてしまったのだ。それからずっと会えずに、エルファーナはずっと謝りたいと思っていた。リゼを待ちながらハルスをずっと噴水のところで探していたのだが、見つからなかったのだ。
「ん? あぁ、アレは別に怒ってないよ。ちょっとびっくりしたけど……、まあ会ったばっかの僕より保護者のほうが大事なのはわかったしね。悔しくてムカツクけど、許してあげる」
偉そうに許容したハルスは、少し眉を寄せて訊いた。
「また一人? 保護者は? ほら、金髪の。おチビちゃんを放っておくなんてどういう神経してるんだろうね。ほんと僕がとっちゃおうかな」
「リゼ……? リゼ……!」
どうしてハルスがリゼのことを知っているのか不思議に思ったが、リゼのことを思い出したエルファーナはちょっと慌てた。約束を破ってしまったからだ。そのまま駆け出そうとしたエルファーナは、振り返って不安そうにハルスを見上げた。
「また、会える?」
「そうだね、おチビちゃんがあの嫌みな保護者に引っ付いてればまた会えるよ」
くしゃりとエルファーナの髪をかき混ぜたハルスは、背を軽く押した。
心配そうに見送っていたハルスは、エルファーナの姿が見えなくなると肩の荷が
下りたとばかりに苦笑した。
「ぅ……ん」
そのとき、手刀をくらって気絶していた青年が意識を取り戻した。思ったより早いお目覚めに、青年のもとに近づいたハルスは、髪を掴んで顔を自分に向けさせた。
「人身売買なんていい度胸してるね。しかも身寄りのない子供ばかり。あのおチビちゃんのことがなければどうだってよかったんだけど、たまには僕もちゃんと仕事をしてみようかな」
目を開けた青年は、そこに天使ではなく悪魔の微笑を浮かべた美しい少年を見てひっと息を呑んだ。彼は視線をさまよわし、まだ気を失っている仲間を見つけるとざっと血の気を引かせた。
「さあて、洗いざらい吐いてもらおうかな。死んだほうがいいと思えるほど痛めつけたら、役人のもとに送り届けてあげるから安心してね。大丈夫、殺さないようにちゃんと加減するから。まずは、指を一本ずつ切り落としていこうかな」
「ひ…っ、ひぃぃぃぃぃぃ――――っ」
「これ以上の温情ってないよね。ほんと僕ってば優しい」
力を入れすぎたせいか、ぶちぶちと青年の髪が抜けた。
それを笑顔で捨てたハルスは、軽々と片腕で青年の体を持ち上げた。
さあ、楽しい時間の始まりだ。
「や、やめてくれぇぇぇぇ」
しばらくの間、青年の悲鳴は途切れなかった。
しかし、不思議なことに目の前の道を通るだれ一人としてその残虐な光景を目にした者はいないのであった。