第四章 女王候補と聖なる印 その一
エルファーナを忘れてずっと捜し求めていた方の情報を得ようと駆け回ったということがあって以来、リゼは極力エルファーナを連れて歩いた。
けれど、幼いエルファーナを連れて行くには不釣り合いな場所もあって、そういうときは決まって噴水のところでエルファーナを待たせるのだ。
『いいですか、エルファーナ。知らない人にはついて行ってはいけませんよ』
『決してここから離れないように』
『天気が悪くなったらすぐに屋根のある所に行きなさい。濡れた風邪を引いたら大変ですからね』
過保護なリゼは必ず念を押すことを忘れない。そして後ろ髪を引かれるように目当ての場所に赴いていくのだ。
そんなリゼの後ろ姿を見えなくなるまで凝視しながら、エルファーナは言われたとおり噴水の縁に腰を下ろしてリゼの帰りを待つのだ。
様々な露店がひしめき合う広場は、今日もにぎわっていた。
リゼのような端麗な吟遊詩人が遠方に伝わる悲恋を切なげな調子で謡ったり、曲芸師たちが技を競い合っていたりと見せ物には事欠かなかった。
「さあ! お集まりの紳士淑女の皆々様、これからとびっきりの奇跡をお見せしよう!」
堂々とした太い声が、喧噪の中を走っていく。
力強い物言いに、興を引かれたかのように彼の周りに次々と人が集まっていく。 エルファーナもわき起こってくる好奇心に耐えられず、人垣のほうに足を進めた。
周りはみんな大きな人たちばかりで、小柄なエルファーナはもみくちゃにされてしまう。痛くて、ふらふらになりながら、やっと顔を出して踏み出すと、そこは特等席だった。
目の前には大柄な男性が、声を張り上げて客を呼び込んでいた。浅黒い肌に、精悍な面差し。服装は少し変わっていて、腰に巻いた長い布の下に麻のズボンをはいていた。
一目でほかの地方の者だとわかる出で立ちに、集まった客の関心は上がった。
その横には、薄いヴェールをまとった美しい少女が立っている。闇を溶かしたような漆黒の髪に藍色のくっきりとした瞳が神秘的で、だれもが少女に魅入っていた。
少女は、多くの視線にさらされても眉一つ動かさなかった。
大きな目は、ただ静かに前を見つめていた。
じぃと少女を見つめていたエルファーナは、彼女の額に不思議な印があるのに気づいた。赤く不思議な模様。刺青だろうか。
「聖なる娘だわ!」
だれかが少女を指さして叫んだ。
「ハルーナ通りで奇跡を見たわ!」
「わしは十日前に見たぞ。まさかまだおってくれたとは……」
感慨深げに老人が呟いた。おぉ、と手を合わせ、少女に向かって深く頭を垂れた。
幾人かの者たちは、すでに少女のことを知っているようであった。
仕切っている男性は、嬉しそうに破顔した。
「ご存じの方もいらっしゃるとおり、ここにおります娘は、神々の寵愛を受け、神秘の力を宿す者。さあ、お集まりの中に、怪我を負った方はいらっしゃいませんか。聖なる力を持つ娘がたちどころに癒してみせましょう」
そらんじた男性は、豪語した。
その堂々とした姿に、からかい混じりの野次も飛んだりしたが、おおかたは半信半疑でだれか名乗り出るのを待っている状態であった。
「あぁ、聖なるお方、どうか御手に触れることをお許しください」
少女を知っているという者たちは、そんな微妙な空気を気にせずその場にひれ伏して慈悲を請うた。
熱狂的な信者のような態度に、しらけていた周囲もちょっと関心を取り戻したようだった。
そんな中。
「おうっ、やってみせろや! オレさまのこの傷が治せるってぇのか?」
喧嘩をふっかけるような調子で人の波を割って男が一人名乗り出た。彼は肘に添え木をあてて包帯を巻いていた。
ならず者のレヴァンだ、と恐ろしげに呟く声が次々とあがる。
悪評高いレヴァンが現れたことによって、活気づきそうだった空気は一気におどおどとしたものにかわってしまった。
巻き込まれたくないとばかりに周囲の人間が後ろに下がり、観客とエルファーナたちの間にはたっぷりとした間隔が空いてしまった。レヴァンの恐ろしさを知らないエルファーナは、そんな周りに気づかない様子で興味津々に眺めていた。
「オレぁな、二週間前に野郎と喧嘩して腕をぽっきりいっちまったんだ。簡単に治りゃしねぇぞ」
目つきが鋭い男は、目の奥をぎらつかせながら、あぁん?と朗々と語っていた男性にすごんでみせた。
眼力鋭い男に顔を近づけられた男性は、少し及び腰であったが、自信たっぷりに顎を上げた。
「ルイーゼ」
相方の声に、ルイーゼと呼ばれた少女は、怪我をしている男に近づいた。すらりとした細身の少女は、熟した実のような赤い唇に笑みを乗せ、上目遣いに男を見上げた。
藍色の目に見つめられて動揺しない男はいないだろう。
粋がっていた男は、魂を抜かれたように、ぼけぇっとした顔で少女を見下ろした。
少女は小さな口をゆっくりと開き、包帯が巻かれている場所に手をかざした。
「わたくしの主に願います。この者の傷を癒す力をお授け下さい。すべては御心のままに」
可憐な声であった。
小鳥がさえずっているかのような愛らしい声音に、だれもが口を閉ざして聞き入った。
少女のほっそりとした手が包帯の上をゆっくりと移動していく。
「――あなたの傷は癒えました。さあ、その邪魔な包帯を取ってご覧なさい」
すっと手を下ろした少女は、そう告げた。
しかし、男は少女をうさんくさそうに見るだけであった。
「旦那様、娘に恥をかかすおつもりですか。先ほどまでの男気はどこにやりました。さあさ、躊躇せずに邪魔なものなど取っ払ってしまいなさい。それとも、怖いですかな?」
男性は嫌みったらしく語尾をあげた。
カッと血の気を頭にのぼらせた男は、売り言葉に買い言葉とばかりに、怖いもんかっと吐き捨て、乱暴に包帯をとった。
まんまと男性の言葉に乗せられた男は、勢いで骨折した腕を動かした。本来なら、そんな激しい運動をすれば激痛が走るはずなのに、折れたはずの腕は添え木がなくともまっすぐ伸び、しっかりと曲がった。
してやったりとばかりに男性は、ほくそ笑んだ。
「痛く、ねぇ……!」
すげぇな、と素直に賞賛する男に、グルじゃねぇのかと野次が飛んだが、男が睨みつけるとその声はなくなった。
この幸運を目の当たりにした者たちは、次々に少女のもとへ押し迫った。
殺気めいた群衆の波に押されて、エルファーナの軽い体は外へと押し出されてしまった。
「邪魔よ!」
だれかに肩を押しやられて尻餅をついたエルファーナは、ぼんやりと熱狂的な人の渦を見つめていた。
「どうしました?」
用事を終えたらしいリゼが、呆然と座り込んでいるエルファーナを発見して血相を変えた。
「怪我は?」
大丈夫と首を振ったエルファーナは、リゼに手を貸してもらいながら起き上がった。尻餅をついたとき手をついたせいか、掌がすりむけていた。赤く血の滲んだ掌を見てリゼが眉を寄せた。
「医者に診てもらいましょう」
エルファーナはさっきの少女のことを思い出し、リゼを見上げた。
「あのね、傷を癒すことができるのは、悪魔じゃないの?」
リゼには言葉の真意が理解できなかったらしい。思案するように目を眇めた。
「悪魔、ですか?」
「みんなね、すごいって褒めてるの。傷を癒せるのは奇跡だって。神様に愛されてるって。悪魔の子じゃないの?」
エルファーナの言葉の意味を理解したらしいリゼが真剣な顔で顔を近づけた。
「エルファーナ、その奇跡を起こした方はどちらに?」
リゼの顔があまりにも怖くて、ちょっと後じさったエルファーナは、さっきよりも大きくなった人垣を指さした。
「ここから動いてはいけませんよ」
壁際にエルファーナを立たせたリゼは念を押し、歓声を上げる人垣に向かっていった。