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女王伝  作者: 桜ノ宮
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   その二

 港町ヴェリッテは、箔凰地方でも温暖な地域だ。

 漁業で生計を立てているだけあってこの町の住民はそれなりに裕福な者が多く、船着き場を兼ねた露台(ろだい)つきの家々が海沿いに並ぶ。

 赤褐色の屋根が印象的な家々は、ひび割れが目立つものの、清潔感が漂っていた。

 磨き上げられた窓硝子に、白に黄色を混ぜたような色合いの壁が、港町にぴったりなさわやかな雰囲気を作り出し、生ぬるい潮風が吹き抜けていった。

 天災による被害はまだあまり受けていないようで、六日前までいたバディハスより賑やかであった。


 ベルッセと違って外套もいらない。本当に冬将軍の季節なのだろうかと疑いたくなるような暖かさに、エルファーナは目を丸くしたものだ。

 女王が存命の頃は、温暖なヴェリッテにもときおり雪が降り、その時期に渡ってくる魚もあったそうだが、今となっては海水温が上昇してしまって冬名物の魚は幻となってしまったらしい。ここ数年、夏の公子の季節ともなれば、あまりの熱さに魚も死に絶え、海面は魚の死体で埋め尽くされるという。

 もちろんそのときに被る被害は、かなりの額にのぼる。そういうわけで、夏の公子の訪れとともに、もっと涼しい海域に船を出したり、農作業に精を出したりと工夫しているようであった。

 ヴェリッテを束ねているのは、豪商の一族として名高いハベール家で、こんな大都市にしては貴族ではなく平民が支配しているせいか、権力を笠に着る貴族は少ない。だからこそ住まう民もみな威勢よく、朗らかなのだろう。


 晴れ渡った空の下で、エルファーナは中央広場の噴水のふちに腰掛けて、ぼんやりと行き交う人たちを眺めていた。

 最初は楽しげににこにこしていたエルファーナだったが、だんだん一人なのを思い出して蜜色の綺麗な瞳が悲しみに沈んでいった。

 勉強を教えてくれるはずだったリゼは、突然宿を飛び出していったのだ。

 その物音に気づいたエルファーナが書斎を出て慌てて追いかけたが、リゼの姿はどこにもなかった。

 リゼにはリゼのやることがあって、エルファーナが邪魔をしてはいけないのはわかっていたが、とても寂しくて、悲しくて、気づいたら人通りの多い広場に来ていた。

 ざわざわとした明るい雰囲気は、傷心気味の心を癒してくれたし、目にも楽しかったが、その中にぽつんと自分ひとりだけ取り残された気がして苦しくなってきた。

 村にいたときのことを思い出したのだ。

 話しかけても無視される日々。

 まるでそこにエルファーナという人物がいないかのように扱われ、一方的な暴言と暴力の毎日であった。

 会話を許されるのは、仕事を下さいと頼みに行くときだけだ。

 だからエルファーナの友達は森に住む小動物や小鳥だけだった。会話こそ成り立たないが、そばに温もりがあるだけで心の平穏が保たれる気がしたのだ。


「どうしたの? おチビちゃん」

「……?」


 突然目の前に綺麗な顔がぽんと現れてエルファーナはびっくりした。


「君みたいな小さな子が所在なさげに座ってたら、悪いお兄さんたちに(かどわ)かされちゃうよ? こうみえてヴェリッテは犯罪が多いんだし」


 ちょっと怒ったようにエルファーナを見つめた彼は、不思議そうな顔をしているエルファーナに気づいて、大げさに肩をすくめた。


「観光客だろ? ヴェリッテのことなんにもわかってないね……ってまあ、僕もそんなに詳しくないけどさ」


 からりと笑った少年は、


「僕はハルス。特別にハルスって呼び捨てでいいよ。よろしく、おチビちゃん」


そう言って真っ白で綺麗な手を差し出した。


「……」


 どうすればいいのかわからなくてエルファーナは困ったように彼と手を交互に見た。伸ばされた手になんの意味があるのか理解できなかったのだ。


「握手。せっかく知り合えたんだしね」


 戸惑うエルファーナをよそに、そう言って彼はやや強引にエルファーナの右手をぶんぶんと握った。というよりは振り回した。


「あ…っと、ごめん。怪我してる?」


 手に巻かれた包帯に気づいたのだろう。

エルファーナはあかぎれだらけの汚い指先と少年の爪まで綺麗に整った指先を見比べて、反射的に手を引っ込めた。

彼の美しい手が自分の汚れた手に触れているのがとっても申し訳なく思ったのだ。


「痛かった?」

「ちが……っ」


 ぶんぶんと首を振る。

 包帯の下には、指先よりももっと醜い火傷の傷跡が残っている。

だれかが言っていた。この傷は、村長がつけたものだと。生まれたばかりであったエルファーナの右の手の甲をひっかき棒で焼いたらしい。

 もちろんエルファーナは記憶になかったが、それを聞いたとき、幾晩も眠れなかった。村長が自分の祖父であることを知っていたからだ。実の祖父から受けた虐待は、心に深い傷として残っていた。

 だからこそ隠してしまう。

 リゼは知っているのかもしれない。この傷跡を。

 エルファーナが目覚めたとき、泥だらけだった布が綺麗になっていたからだ。

 汚い自分。

 醜い自分。

 もしかしてリゼはこんな自分と一緒にいるのが嫌になってしまったのだろうか。

 どんどん悪い方に考えしまって、エルファーナはきゅっと唇を引き結んだ。


「ねぇ、おチビちゃん。暇?」


 黙り込んでしまったエルファーナの態度をどうとったのか、明るい声で誘ってきた。


「僕さぁ、すっごく暇なんだよねぇ。僕の仕事ほかの奴にとられちゃって。まあ、どうでもよかったんだけどさ。どうせまた外れだろうし……」


 ほんの少し双眸を曇らせた少年は、次の瞬間パッと瞳を輝かせた。


「だから僕と一緒に遊ばない? ほんとは一人で行動するほうが楽だったんだけど、なんか君の目と髪の色が気に入っちゃった。特に目の色が僕と似てない? 君のほうが澄んでて甘みがあって美味しそうだけど」


 トパーズ色の綺麗な瞳。

 確かに色が自分と少し似ているかもしれない。

 ふわっとした猫っ毛の明るい茶色の髪に、薄い色の双眸が美しい。顔立ちも上品で、服装を整え、口を閉じていれば、貴族の令息で通るだろう。

 こんな綺麗な人が誘ってくれたのが信じられなくてエルファーナは首を傾げてしまう。


「わたし、と……?」


 邪心のない無垢な瞳にハルスの顔が映し出される。

 その(せい)(れい)な空気に触れたハルスは、少し驚いたように目を見開いたが、「そ。君がいいの」と至極嬉しそうに言った。


「わたし……」


 天にも昇る心地だった。

 まさか、リゼのほかにもこうして親しげに声をかけてくれる人物がいるなんて思いもしなかったのだ。リゼと出会ってから浮つくことばかりで、エルファーナの心臓は高鳴りっぱなしであった。


「あ、それとも連れと待ち合わせとか?」

「つれ……?」


 つれ、という言葉の意味がわからなかった。

 表情から読み取ったのか、ハルスは「んっと、連れっていうのは、ほら、一緒に来た家族とか」と言った。


「家族……」


 呟いたエルファーナの蜜色の双眸が悲しみに曇った。

 しゅんと元気をなくしてしまったエルファーナに、失言と悟ったハルスは、慌てて付け足した。


「ええっと、家族じゃないなら友達とか? それはないか。ん~、まさかすでに売られてちゃったり? もしかして、強制労働? うわぁ、それで逃げ出してきたとか? もしそうなら僕がなんとかしてあげるよ」


 なにやらハルスの頭の中では嫌な構図がどんどん膨らんでしまったらしく、がしっと折れそうなエルファーナの肩を掴んだ。


「あぁ、やっぱり! こんなに細いっ。あいつら人使い荒いくせに、食事なんか鳥のエサくらいしか与えないし。辛かったろ? 僕がついてるからね」

「ハルス……?」


 誤解しているハルスを落ち着けようと怖々と名を呼んだ。


「ん? あぁ、復讐なら任せて! 友達記念に、無料でやってあげるから」


 エルファーナはふるふると首を振った。


「わ、わたし、リゼと来たの。リゼ、とっても優しくていい人なの」


 エルファーナは必死に訴えた。


「リゼ……? リゼ……。ふうん、珍しい名前。まさかねぇ」


 ハルスはぶつぶつと呟くと、ま、いっかとエルファーナの肩から手を離した。


「そのリゼって奴は、君みたいないたいけな子供を放ってどこへ?」

「わかんない……。どっか行っちゃったの……」


 再び暗くなってしまったエルファーナの顔を覗き込んだハルスは、にっこりと天使のような笑みを浮かべた。


「なら、捜す? 僕も手伝うし。観光しながらリゼって奴捜せば? もし見つからなかったら、そんな無責任男なんか忘れちゃいな。あてがないんだったら僕が養ってあげるし」


 そううそぶくハルスに、エルファーナの沈んでいた心も軽くなってやっと顔に笑みが浮かんだ。


「どっか行きたいとこある? 相手が勝手な行動してるなら君も楽しまないと損だよ」

「あの、あのね……」


 実は、行きたいところがあったのだ。

 エルファーナの望みを聞いたハルスはちょっと嫌な顔をしたが、ま、誘ったのは僕だしね、と快く案内してくれた。

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