金のりんごは空の上
黒い都会を見下ろす北の高台に、金門と呼ばれる長い階段を上ってゆけば、もうひとつの都市がある。行って戻ってきた者はないという。当然誰も寄りつかない。
樫谷は階段を中ほどまで来たところで下界を振り返った。早朝の街は霧深く、いまだ眠りに沈んでいる。高層ビルの林の死んでいる足元では、だがたしかに人の気配がある。うずくまる彼らの吐いた白い息は霧に消えて見えない。どこかでなにかがゴミを漁っている音がする。
鉱山の麓の街にはかつて金を求めて人が集った。飽和状態に陥ったとき、夢を叶え損ねた人々が次に夢見たのが高台の上の新天地だ。そういうわけでこの階段にはかくいう名がついたのだった。欄干は一分のむらもなく、鮮やかな紅に塗られている。
金門橋を上りきる頃には霧も晴れ、薄い水色が手の届きそうに迫っていた。
「おや、旅人さん」
振り返ると、剪定鋏を持った男がこの時間から汗を流している。階段と同じ色のスカーフを首に巻いていた。
「よくいらっしゃいました。どうぞゆっくりしていってください」
スカーフの男は笑う。細めた目は樫谷の方を向いているようで、一体どこを見ているのか判然としない。彼が守るのはりんご園だった。まるで要塞のように崖のぐるりに植わっている。脳を刺激する甘い香りが辺り一面に漂っていた。白い花をつけた木は春の粉雪をかぶったようだ。すでに実をつけ葉の色を濃くしているのもある。
「小人になったような気分だな」
そう樫谷はひとりごちて、
「花と実が同時に……?」
尋ねると、スカーフの男は細い目をさらに細くした。
「きれいでしょう。改良したのです。この景色は私の人生のすべてですよ」
白い花と朱い実が彩る朝の森は合わせ鏡を覗いたように延々延々と続いている。ペンキで塗ったような朱色はどうも熟れすぎているようだった。
「あなたはいつからこの街に?」
スカーフの男はにんまりした表情を変えないまま、何度もうなずいた。
「ええ……みなさんそう聞きます……けれど数える必要などありません。同じことの繰り返しです。園を守り、腹が減れば食い、疲れれば休みます。夜が来てまた朝が訪れても、生活が変わることはありません。ここにいれば、時間を数えるなんて無意味なことだと、じきにあなたも気づきますよ」
「それはいい。ちょうど自分の年齢を数えるのにも飽きてきたところです」
「ええ」農園の男はまた小刻みに首を振る。「ええ、そうでしょう。ですが私は長いことこの畑から動いていないような気がします。以前は街の喫茶店までコーヒーでも飲みに足を延ばすこともありましたが、最近はとんと……」
樫谷はりんご園を後にした。坂道を下っていくとやがてぱっと視界が開けた。
円形都市が脈打っている。
灰色の壁のマンションが八つ、円周上に建っている。その内側で五つのオフィスビルがひと回り小さい円を描く。オフィスビルと分かるのは、広い窓から中が透けて見えるからだ。そのさらに内側、この都市の心臓の位置には、噴水池とそれを囲む緑がこんもりとしている。そこから東西南北にアスファルトの道路が伸びる。東西南の道路の端は階段になっており、樫谷の立つりんご園の入り口まで続いている。北の道路の端では巨大な城が建設中だ。マンションとオフィスビルの間のドーナツ型の空間には、工場が、商業施設が、大学が、コンサートホールが詰まっている。朝の光と風を浴びて、都市はむくむくと起き上がりそうに見えた。
商業施設は吹き抜けになっていて、天井はガラス張りだ。人の足音や話し声が反響する。外では風が街路樹を揺らしているのに、樫谷の体は内側まで火照っている。すべての店が営業中だった。あるいは店を閉めることなどないのかもしれない。
一角にランプの明かりが弱々しい喫茶店を見つけ、中に入った。
「アイスコーヒーが飲みたいんだが」
喫茶店のマスターは先の農園の男と同年配らしかった。
店内にはもうひと組客がいた。中年の女が二人、少女趣味の揃いのワンピースを着ている。白いレースの散りばめられたアップルグリーンは、胸から腹にかけてだいぶゆったりした作りだ。テーブルの上ではティーポットやケーキの皿が溢れかえる。ショートケーキ、ガトーショコラ、フルーツタルト、マカロンタワー、モンブラン、スコーン、アップルパイ、手元においたカップからはアールグレイがにおい立つ。
「朝から豪勢なことで」
樫谷が声をかけると二人はころころと笑い声をあげた。
「これくらいで、大げさですわ。私たち、昨日の昼からお茶会をしておりますの」
「あら、一昨日の夜からよ」
「そう……? まぁいいわ、そんなこと忘れてしまったわ」
樫谷はアイスコーヒーの氷をからからと鳴らしながら、
「あなたがたは、いつからこの町に?」
途端に女たちはきょとんとした。
「さぁ……この街で結婚はしましたわ」
「大学も卒業したわねぇ」
樫谷はおどけた調子で額をたたいた。
「僕としたことが、女性に年齢を聞くもんじゃありませんね。たいへん失礼いたしました」
二人はやはりころころと笑った。ティーカップの表面が波紋を描き、ランプの弱い明かりが揺らいだ。
「あぁ、そういえば今日は大学の音楽部が演奏会を開きますのよ」
「ええ、そうだわ、私たちもそこを卒業しましたの」
大学は森を背にして広いキャンパスを展開する。煉瓦造りの時計台の足元が芝生になっていて、分厚い本を抱えた学生が行き交う。体中に草をつけながら教科書を読んでいる者もいれば、木の根を枕に昼寝をしている者もいる。とはいえ誰もが時間に追われていることに変わりはない。わずかな時間を惜しんで、皆この場で勉強したり仮眠をとったりするのだった。
木陰で青年が絵を描いている。樫谷は後ろを通りかかり、キャンバスに描き出された世界に魅入った。
「点描というやつか」
「うん、課題なんだ」
「ご苦労なことだ。けれど俺は抽象画の方が好きだよ」
「見るだけなら僕もそうだ。でもいいんだ」
青年は黙々と筆を動かす。ひとつとして同じ色のない点の集まりが、気づけばひとつの世界を作り出している。キャンバスの端の一部の点が白い人影をかたどる。周囲の光をひとり占めして、じっと見ていればそこだけが妙に焼きつくようだ。
エプロンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、彼はりんごをひとつ取り出した。右手に絵筆を、左手にりんごを持ち、指に絵の具をつけたまま齧りはじめる。ぱりっと小気味よい音がして、はじめて外気に触れるりんごの香気が樫谷の鼻先をかすめた。
彼は芯までぺろりと食べてしまった。それを見届けたように、時計台の鐘が鳴った。教室から学生がビーズのように流れ出てきてまた別の教室に消えていく。青年は自分の腕時計を一瞥し、絵を片づけはじめた。樫谷を振り返ることもなく色の後始末をつけていく。
「君は、演奏会へは?」
「ああ、行くよ。だけどあれは夜だ」
青年は目を擦りながら立ち上がった。隈の浮いた目にぎらぎらした光が宿る。キャンバスを脇に抱え、自らの体重の半分もありそうなトートバッグを肩にかついだ。
歩き去ろうとするところを呼び止め、樫谷は聞いた。
「君は大学に入る前はなにをしていたんだ?」
「忘れたなぁ。でも、前はアパートで絵を描いていたよ。あの子は元気にしているかなぁ。あれは大学に入る前だったような気がするけれど」
学生アパートは時計台の裏手、森に半分埋まる恰好で建っていた。樫谷は油のにおいの染みついた食堂から、木の枝を透かしてアパートの裏側を眺めている。ベランダに干された洗濯物は、窓が北向きのせいでこの時間すでに陽が当たらない。湿っぽい空気が食堂の開いた窓から入り込んで、樫谷の肌にまで届くようだった。アパートはしんと静まっている。住人は眠っているか、授業に出かけたかのどちらかだ。
樫谷はしばらく厨房の音に耳を傾けていたが、アパートの方でがらがらと窓が開いて、そちらに視線を移した。半裸の男がベランダでタバコを吸いながら、部屋の中の誰かと話をしている。
「りんご園を見に行きたいんだ。いい詩が書けそうでね。君も行くだろう?」
「ええ、もちろん」聞こえてきた声は雲のように頼りない。「すぐに用意するわ」
思いがけず白い少女が窓の外に顔を出した。
「だけど、演奏会に間に合うかしら?」
「間に合うよ。君は黙って僕についてくればいい」
少女の表情は男の吸うタバコの煙の向こうで見えない。スカートの裾が男の剥き出しの足の間でひるがえった。
くすくすという笑い声のあとに、少女の甘えたような声が聞こえてくる。
「その詩には、父親と子どもが出てくる?」
「父親と子ども?」
「わたし、りんご園と聞くといつもお父さんを思い出すの。顔も覚えていないのにね、大きい手に引かれてりんご園に続く階段を上っていった記憶があるの。街がとても小さく見えたわ」
「君のお父さんはたしか、城に働きに行ったきり戻らないんだったね」
「ええ、そうよ」
白い少女はひらりと部屋の中に帰った。
骨組みの中で成長を続ける姿こそ、その城の真の姿である気がする。天に突き上げる尖塔は、夕暮れに包まれ朱色に染まっている。その奥ではさらなる深みへと別の尖塔が建てられているところだ。どこかの石切り場から石材を運んでくる者、汗を流しながらそれを仕分ける者、細い足場に命を預けて懸命に手を動かす者、男たちの勢いは樫谷の見ている間ずっと変わらない。
「この城には一体誰が住むんですか?」
樫谷はちょうど木材を荷台から降ろし、額の汗を拭っている男を見つけて問いかけた。
「さあねぇ。誰も住まないんじゃないのかな」
作業服は汗と泥でくたびれている。額の汗はいくら拭っても治まらず、男の顔をつやつやと濡らしていた。彼が運んできたものはどうやらりんごの木のようだった。加工前の、曲がりくねってごつごつとした木材だ。
「誰も?」
「ええ、誰も」
樫谷は腹の底からこみあげてくる笑いを抑えられなかった。
「そんなところだろうと思ってはいましたがね。いつから建設中なんですか?」
「そんなのはどうでもいいことだ。それより、もうすぐ息子が生まれるんだ。俺はそのために働かなくちゃあいけないんだ」
男は静かに微笑んだ。首にかけたタオルで最後に顔の汗を拭き、ヘルメットをかぶり直す。
「そいつは、どうも、おめでとう。見舞わなくていいんですか?」
「これが終わったら病院に行くよ」
男は背を丸め、作業着を汗に濡らしながら空の荷車を引いて戻っていった。
病院はオフィス街の中にあった。樫谷はその白い四角い建物が見える公園でベンチに座っている。オフィスビルの明かりはいつまでたっても消えない。噴水の周りでは街灯の下に人が寄り集まっている。近くのコンサートホールで間もなく演奏会が開かれるというのに、誰も向かおうとしなかった。向かったのは奏者だけだ。チェロを携えた、皺ひとつないスーツの学生の集団が通りかかったのを最後に、その姿ももう見ない。
樫谷は隣のベンチの会話をなんとはなしに聞いている。
――この子もそろそろりんごが食べられるかしら。すり潰してやれば……。
――ああ。生まれたのがたしか前の演奏会の晩だったから、ちょうどいい頃だろう。
――あなた、行きましょうよ。
若い夫婦と赤ん坊が樫谷の前を通っていった。父親の腕の中の息子に母親が話しかける。
――さぁこれからりんご園に行きますよ。
樫谷は立ち上がり、親子とは反対に南の道路に向かった。暗くなっても街は変わらなかった。手に手を取り合って笑いあう女たち、本を脇に抱えた学生、人目を避けるように顔を寄せ合って歩くカップル、黙々と汗を流す男たち、彼らは朝のままの、あるいは昨日、さらには昨年のままの姿で街にいた。コンサートホールから漏れ聞こえる妙なる調べが円形都市を覆う。樫谷はそのサイクルから抜け出すように、りんご園へ続く階段を上った。
「おや、旅人さん」
スカーフの男は同じ場所に立っていた。
「ゆっくりできましたか? そろそろこのりんごが食いたくなってきたでしょう。あなたのために、ひとつ取っておいたのですよ」
スカーフの紅は変わらない。だがりんごは、確実にぶよぶよと腐っていた。内側に澱のように溜まった甘い汁が細胞と細胞の隙間から滲み出て、人の脂汗のように朱色の皮を覆っている。その実をもごうと伸ばした男の腕を、樫谷はつかんだ。
「いいや、もう帰ります。あなたもたまには下界へ降りてみたらいい。そうしてみて、やっぱりここがいいと思ったら、また戻ってくればいいだけのことです。どうせ明日もりんご園を守るだけなら、一日くらいさぼったっていいでしょう。一緒に行きますか?」
男はぐっと身を引き、樫谷の手を振りほどいた。
その瞬間、りんごが破裂した。
強いにおいを放つ果肉が降りかかった。樫谷はとっさに顔を覆う。生ぬるく湿った人肌のようなものが、腕に点々と、病気のように貼りついた。
樫谷は腕を木にこすりつけるようにして果肉を拭い、地に落ちたりんごの種を拾った。黒い都会への帰り道、それを胸のポケットに収めた。