終章
第4章
始まりは小さなことだった。
とある来訪者によって齎された化学式に目をつけ、当時学士として最高の栄誉を持っていた織延 南西と言う男がいた。
彼は名誉を求める気質があり、だからこそ彼は多大な権力を二十代の内に手に入れた。
その男が手に入れた化学式とは、有体に言えば人の次なる可能性を誘発するものだった。
だが彼はそれを学会に発表するのではなく、もっと大きな権力を得るために使おうと考えた。
彼の権威が確立するために助力を行使してくれた者たちに、今度は金銭的助力を求めてそれに見合う見返りを約束した。
――化学式の解明によるその真意を提供する。
金銭的助力を出してくれた者たちは初めのうちは彼が妄信してしまったのだと考え、大した助力もしなかった。
しかしそれも時が経つごとに劇的に変化した。
時間が経つにつれ、彼の研究結果は良質なものとなり。次第に資金援助も参加者も増えてきた。
だがその問題点として、モルモット――実験台となる生物の枯渇である。初めはネズミ、次は犬や猫、そして猿。この化学式によって作られた薬物の投与実験は人間以外の生物全てに行い、全て満足のいく結果だった。
だがそれでも、その研究の到達点には人間がいる。だからこそ、人道に反したとしてもそこに踏み込む必要があった。
「私は、母親に売られたんだよ」
悠木羽は淋しそうに、だが後悔もない語調で語る。
繭の素性までは知らないが、彼女もその被験者の一人だった。
彼女たちは被験者の中でも成功体として重宝され、独自の研究チームが作られた。
そのチームの一人が、日上の母の谷田貝 近衛。オリノベに来る前は小さな研究室で細胞学を研究していたのだが、彼女が見つけた新型の原核細胞の発表に目をつけた南西が呼び寄せたのだ。
そして当時、そのチームには設立者の織延 南西の子息の黎寺がいた。彼の博識は父の南西から強く受け継がれ、彼も二十歳になる頃にはその研究に遅れを取らないまでの実力を持っていた。だが彼は権力に溺れたりせず、父と比較すれば至極真っ当な精神の持ち主だった。
そんな二人が新しく入れられた専属チームは難航しながらも着実に研究成果を出し、それに伴い悠木羽と繭の身体は傷つけられていった。
近衛と黎寺の二人以外の研究チームのメンバーにとっては以前からの研究の延長に過ぎないが、二人にとっては目の前の現実は許容しがたいものだった。
初めは血液検査などで済んでいたものが次第に悪質なものへと変わりだした頃、二人は南西にこれ以上の締結を求めたが受理されず、日は無常に進んでいった。
悠木羽は繭とは違い、当時は未だ七歳に過ぎない子供だったのだ。身体は特性上死ぬことがないが、精神がどうにもならないほど傷ついていた。
そんな彼女を監察用のガラス越しに見ていた近衛は、終に単一で行動を起こしてしまった。
「その薬物――後のエンドの生成方法をネットに流して、そこで行われていたことを情報を生業とするあらゆる場所に伝えたんだ」
それが発覚した当時、権力者たちは急いで情報を掌握する事に尽力を注ぎ、とりあえずは世間に知られることはなくなった。だが、ネットに流された生成方法はどうしても抑えることは出来ず、それを期に実験は凍結されたが各地でエンドに関係すると思われる事件が発生しだした。
それを地方の警察やマスコミに知られるわけにはいかず、関係者に抑えさせるのが真っ当だと考えた権力者たちは―
「私たちを使うことを思いついた」
並大抵の人間にはエンドの服用者には勝てない。だから、関係者でありながら彼らに匹敵する力を持っている悠木羽の様な被験者達に駆除を行わせようとした。
目には目を、化物には化物を―
だけど、ただで働くことはなく、被験者たちは情報を抑えることと服用者を駆除することを前提に自由を約束された。
これが、近衛が考えた計画なのかはわからない。彼女がここまで深く先を読んでいたのかもわからず、彼女は口封じのために帰らぬ物とされた。
「援助をした人物の中には警察の上にいる人物もいる。だから、私たちはエンドの被害と見られる事件がある毎に地方に飛ばされるんだよ」
「……もしかして俺の親父は―」
「彼女の関係者として監視されている」
毎日の予定を制限され、常に誰かに見られ続けるという生活。
「君の父が発狂してもおかしくないよ。常に監視され続けるというのは中々堪える」
「―経験談か?」
日付が変わった頃、二人は事務所の中にいた。
いつもならこの場所には必ずといってもいいほど、この事務所の所長がいたはずだった。
だが今ここにいるのは日上と悠木羽の二人。
悠木羽はこの部屋唯一の窓の前で外の様子を眺めながら、日上は自分のデスクに腰を預けている。
「―で、繭さんを連れ去ったのは話に出てきた織延 黎寺って男なのか」
「…………うん、多分」
「多分って……もうちょっとハッキリしてくれ」
「うるさい」
「その織延 黎寺がなんで繭を連れて行ったんだ?」
「………………」
「わからないのか」
目を瞑って沈黙した悠木羽を見て日上はそう結論付けたが―
「いや、そういうわけじゃないんだが……言うとなんだが恥ずかしいな」
顔を赤らめて言おうか言うまいか考える悠木羽。
「だから状況を出来るだけ早く知りたいんだからもうちょっとさばさばと―」
「―愛だ」
「………………」
「な、はずかしいだろう」
空気を入れ替えるために悠木羽は、この部屋の温度調節のために常に閉められていた窓を半年振りに開ける。開けた窓から風が入り込んで、彼女の赤い髪を僅かながら揺らす。
「私と繭、そして研究チームの人たちの仲が良かったのは言っただろう。繭と彼は恋人関係にあったんだよ―」
「あの人の恋人って……どんなんだよ―」
「がりがりに痩せて、研究のしすぎでよく倒れていた」
「だめじゃん」
「それで、たぶん誰よりも彼女を大切にしてる人だよ。今までなにやってたのかわかんないけど、迎えに来たって事は準備ができたってことだろうし―」
「準備?」
いつも繭が寝転んでいたソファに視線を向けていた日上が悠木羽へと視線を移す。
「……私たちに独自の研究チームが作られたのは、私と繭はお互い不完全だから―」
先ほどから外の風景ばかり見ていた悠木羽だが、ようやく後ろを振り返って日上と向き合う形になった。
「私は不死で、繭は不老でしかない」
悠木羽が言うには、繭はエンドの原型となった薬物の投与の日から身体の老朽化がなくなり、以来あの姿のまま変わらず生きているらしい。
もしそうだとしたら、人類史上最高の発見だろうが―
「老いることがない代わりに限りなく死にやすい。この部屋が常に温度を保っていたのはそれが理由だ」
過ぎたる能力を得ることになれば、それに見合う代償を払わなければならない。
繭がこの部屋から出なかったのは、ただ出ることが難しいだけだったのだ。外に出れば彼女に何らかの症状が出てしまい、死に至る可能性も出てくる。
「なら、準備ってのは―」
「私以外のサンプルが得られたんだろう。さっき私たちを襲ったあいつだよ。私と繭が研究所にいた頃、私たちの特性を他の生物に移す実験が行われたんだが、成果は何も出なかったんだ」
彼女たちの細胞を培養し、その特性を生み出す細胞を他の生物に埋め込み繁殖させるはずだったが―
「私たちの身体から隔離された細胞は即座に死滅する。…………おかしくないか? 私は腕が引きちぎられても適当にくっつけておけば次の日には繋がってるのに―」
どういう原理でそうなるかはわからないが、ともかく彼女たち以外の生物にこの特性を移すことは不可能だった。
「…………じゃあ、リンちゃんでも同じじゃないか? 彼女の不死もエンドでできたんなら―」
「……だろうな」
「―じゃあ」
「怖いんだよ」
繭はエンドの被験者であったというだけでその戦いに巻き込まれている。例え彼女が戦えないとわかっていても、関係者であればだれだって使う。事実、戦えないまでもサポートぐらいならば出来るが、事件に関わっている以上死の危険は付きまとう。
「黎寺は一刻も早く繭を死なず老いずの身体にしてあげたいんだよ。だから、少しでもいいから可能性があったら試したいんだ―」
「…………考えを急ぎすぎてるだろ」
「……ああ、まったくだ」
言い終わると、悠木羽は窓辺から離れて扉へと向かっていく。
「どこ行くんだよ」
「あの変態痴女を連れて帰ってくるよ」
まるでコンビニにでも行くかのように言い放つ悠木羽。
扉の前でコートを羽織り、ドアノブへと手をかけて―
「今回は付いてこないほうがいい」
背を向けたまま日上に忠告する。
「なんでだよ」
「あいつは……お前の友達はおそらくブローカーだ」
「…………かもな」
三十分前――
「よお、親友」
その金髪の青年は、リンの投擲によって開かれたビニールの裂け目から入ってきた。
初め、日上は彼が騒音を聞いて、興味本位で入ってきたものだとばかり考えていた。
「来てくれた……わたし…の……天使様」
そして直後、目を覚ましたリンの言葉で日上が疑問を持った。
まず彼と彼女が面識があったようだということに、そして彼のどこに天使としての面影があるのかと―。
悠木羽も彼とは面識がなくても、どのような人物かぐらいは知っていた。そしてこの場になぜ彼が出てくるのかを一瞬だけでも考えた。
それらが全て過ちだった。
まず、リンの知り合いというだけで親友といってもいくらか警戒しておくべきだった。狙い済ましたかのようなタイミングで入ってきたことも注視の条件に入れておくべきだった。
だが悠木羽も日上も、とりあえずの危機を抑えられたことで安心してしまっていた。だから二人の前に投げられた物に対する反応が遅れてしまった。
そして突如、加賀沢が投げ捨てた黒い物体から強烈な閃光が走った。
(なんて古典的な方法で―!!)
目が眩んだ悠木羽は状況を理解し、急いで傍にいた日上の服を掴んで、加賀沢が居た場所から十メートルほど離れた場所まで一足で飛ぶ。
状況を判断することが出来ない日上を後ろへやり、再び辺りを警戒する。
だが彼女の予想に反して攻撃の気配はなく、視界が回復する頃には加賀沢とリンの二人はいなくなっていた。
「だったら尚更だ。今回は関わるな」
「でも放っておいたらお前、あいつを殺すだろう」
「………………」
日上の言葉を無言で返す。それが肯定を意味していることが、常識を知らぬ日上にもわかる。
「やっちまうのかよ」
「否定はしない」
「そこはして欲しかった」
「向こうが邪魔をしてくればそうするだろうし、多分邪魔をしてくるだろう」
「……じゃあ、俺がその邪魔をしてくる加賀沢の邪魔をする」
デスクから離れて、悠木羽の傍による日上。
その目には反論させる気はないとでも言わんばかりの覇気が見受けられた。
「……結局付いてくるのか」
彼女もそれがわかったのか、深いため息を吐いて反応を待つ。
「当たり前だ。あいつが殺されるのも嫌だし、お前があいつを殺すのなんてもっと嫌だ」
「だからお前が殺すのか? それとも殺されてくれるのか? そうしてくれると確かに助かるよ、死人に口なしだもんな。文句を言うやつがいなくなればそもそもの解決になる」
悠木羽は視線を逸らして、嘲るかのような笑顔をする。
「……だからあいつを殺させないって。ツンデレんな」
「ツンデレてなんかいない」
恥ずかしげに彼を睨むが、それを物ともせずに日上は話を進めていく。
「お前は繭を追えばいい、俺があいつを止める」
「…………止めても聞かないな」
すると、彼女は諦めた様子で扉を開いて―
「付いてくるなら勝手にすればいい、親友を止めるなり死ぬなり好きにしろ」
後に日上が続いて出られるように、扉を開いたまま出て行った。
「―だからツンデレんなって」
開いていた扉を閉めて、彼も部屋を出た。
親友を助けるために、自分を変えた人物を今度は彼が変えるために―
「初めの邂逅はなかなか思い出深かったのを覚えているよ」
白衣に身をくるむ男――織延 黎寺は椅子に座っている繭に向けて話しかける。
そこに十数年の不在による誤差はなく、まるで先日も会ったような雰囲気を持っている。
「私が新しい個室に運ばれているとき、通路で倒れてるあなたを見つけたのよね―」
それを返す繭の言葉も緊張の欠片も見受けられず、昔を思い出すかのように目を瞑り、滑らかな語調だった。
「確かに君の記憶ではそうなのだろうけど、私はその時の記憶が無い故、もう少し後になるのだが―」
「あらそうなの? それって…………あぁ、あなたがその時のお礼を言いに来た時?」
「そうだ」
繭の言葉遣いは日上や悠木羽に向ける妖艶さを醸し出すものではなく、高貴な令嬢を彷彿させるものだった。
彼女はそれを意識的にしているわけではなかった。あくまで無意識に、過去を振り返ってそれに酔いしれているだけだった。
「あなた……何を間違えたのかカーネーションの花束持ってきたものね」
カーネーションの花言葉はあなたを熱愛するという意味だとその時に告げて、その痩せ細った顔が真っ赤になったのを繭は思い出し、微笑する。それは日上に向ける、まるで帝王の高笑いのような笑い方とは大きく違う、美しい笑い方だった。
「あれは……近衛さんがこれを渡して礼を言ってこいと言って―」
「それもあの時に聞いた。あの人の意地の悪さは私が良く知ってるもの」
彼女は今まで、この街に着てからというもの、日上の母の意地悪さを模倣していた。
その口調の変化に悠木羽も最初は疑問に思っていた様子だったが、今はそれを受け入れてくれている。
なぜなら、繭は繭なりに日上に償いをしようとしているからだ。
自分たちを助けるために事件を起こし、口封じのために殺されてしまった彼女の代わりをしようとしたのだ。
確かにそれを彼女に強いるのはお門違いだ。近衛が起こしたことは被験者たちのことだけを考えた行動であって、他の人たちからすれば迷惑千万だ。
だけど、彼女は結果として助けられて……今、外の世界で過ごす権利を与えられた。
だから彼女の真似をして息子に近づいた。自分たちを助けるために事件を起こした母に似ていると父に無慚な軽蔑をされ、そして単純に母を失った息子へ向ける同情を同封した償い。
だからこそ彼女は彼に無抵抗のまま、為されるがままに付いてきた。自分の手を引く彼の手に導かれるまま、この大病院の中へと入っていった。
黒川記念病院――工業が盛んな瀬切市において唯一の大病院である。
以前ここで井伊菅 広瀬が働いていたが、暴力事件を起こして退職させられている。
彼らは今、その黒川記念病院の最上階の一室、院長室に席を置いている。これは織延 黎寺がこの病院の院長という意味ではなく、ただ不法侵入しているだけのことである。
そして、彼らがなぜこの場所にいるか―
「この街を離れる前に……どうしてもここを壊したいと彼に頼まれてね。手伝ってもらった礼もある」
彼は携帯電話を使って院内にいる加賀沢へと連絡を取り、準備が済んだかどうかを尋ね、二言三言応答した後電話を切った。
「思ったより時間が掛かっているようだ。このままだと悠木羽くんが来てしまうね―」
「!?」
繭は驚いていた表情を見せ、それとは反対に涼しげな顔を見せている黎寺に問いかける。
「…………わかってたの?」
「ああ、君の身体に発信機が植め込まれているぐらい承知の上だよ。とにもかくにも、それを取り外さないと外国へ逃げ込んでも追われ続ける」
明るい青年の様な顔を彼女に向けた上で、当たり前のように答える。
「君たちが外の世界に出るために身体の諸所に発信機を植め込み、常にその位置情報を把握する。だが、君の身体は脆く壊れやすい。発信機の信号波がどのような影響を及ぼすかもわからず、だから君には一つだけ……それも臓器に一番遠い左手の薬指に埋め込まれている。……左薬指なんて、まるで婚約指輪だね」
自分の発信機の位置まで的確に答えられ、繭は放心する。
「一応あなた……全国指名手配中よね?」
「あぁ。いったい、私がいつ十六人も強姦したんだろうね? もう少し現実味をある情報操作をして欲しかったね」
先日――日上が父を尋ねた日、繭が点けたテレビに流れていたニュースに犯人の写真が映し出され、それは今繭の目の前にいる男と似通った姿だった。
それは、殺された日上の母――近衛と違い、未だに関係者から逃げ続ける黎寺を見つけるために権力者が取った策略。
現代の写真はないが、昔の、オリノベに在籍していた頃の写真を加工し、成長した姿を放送することによって、手がかりを掴もうとしていたのだ。事故死や、本当に何者かに殺害された女性を強姦された後があると情報を添えて―
だが十二年経った今でも、彼は見つかることなくこうして再び愛する女性の前に現れていた。
「あなたなら信憑性はあるわ」
「何!!?」
「十七股なんてそうは出来ないわよね」
「あ、あれは情報関係者が作ったでっち上げだよッ! 君ならわかってるんだろう!?」
「えぇ、あなたみたいな表六玉にそんな体力あるわけないじゃない」
そして、彼女はとても可笑しそうに笑った。日上に向ける帝王の笑いでもなく、彼女本来の笑いでもない、その中間に位置する無邪気さを持った笑顔を―
「ッぷ……あははははははははッ」
それを見て黎寺も笑い出す。彼女が笑っているから自分も嬉しくなってわらう。そんな単純で馬鹿な理由で―
「君は……この街に来て、あの人の息子と関わって少しばかり変わったようだね。少し妬けるよ」
「……うん、でも私よりもあの子の……悠木羽のほうが変わったわ。とても人らしく、女の子らしい心を持つようになった」
黎寺の中には観察用強化ガラス越しの―。繭は外に出てからパートナーとしている彼女の姿。だがその双方の記憶を合わせても、彼女は獣のようにしか見えなかった。
人にいたぶられ続け、信じることを忘れた女の子。
それを変えたのが日上なのだ。本人とその被害者は気づいていないが、彼らは影響を与え合っている。日上が親友である加賀沢と出会い変わり、親友に変えられた日上が彼女を変えた。
「人は……ね、変われるの。その人が傍にいれば―」
先ほどとは打って変わり、繭は真剣な表情になって黎寺を見つめる。
彼女を訝しげに見る黎寺。まるで螺子の狂った人形が何度も何度も同じ動作をした時を見たような目だった。
悠木羽と日上は同時に黒川記念病院に入っていった。
外には宿直の医者や看護婦、入院していた患者やベッドに寝たまま運ばれているものもいた。日上は状況を理解できなかったが、悠木羽はこれが黎寺の仕業だと、なんでもないかの様に言い放ち未だ院内から出てくる人たちを避けながら二人は中へと入っていった。
一階は人で溢れていたが、二階へと上がるとその群集はパチリと途絶えた。
床には枕や衣服、松葉杖などが落ちていたがそれよりも二人の興味を引くものが院内を漂っていた。
「このにおい……ガソリンか?」
逸早く臭いの正体に気が付いた悠木羽は廊下に撒かれていた液体に指で触れた。
「ガソリンって……どうして―」
日上は辺りを見回し、廊下の先――電灯が消えて暗闇が続く先までガソリンの跡が続いてるのが見えた。
彼は今までも危険な状況に飛び込むことは多々あったが、今回はその経験が働くことはなかった。今までの相手は元は人間であっても行動は単純で先が読める戦いだった。だが今回は人間であり、生まれながらの化物であり、親友だった。
「………………」
気を静めるために日上は外に見える工場が放つ光が点在する風景を一瞥して大きく息を吐いた。元の生活に戻れるか、親友と元の関係に戻れるか、それが難行だと理解していても失うことは出来ず―
「上がるぞ」
無理に自分の感情を抑え、パートナーに先を促し足を進めた。
この建物は十二階まで作られており一階から四階までを受付として、五階から十一階までを病室として使われ、十二階は院長室や会議室などの業務用となっている。
悠木羽の携帯電話のGPSが示す繭の信号はこの病院内を指すだけで、どの階にいるまではわからない。だから彼らは一階ずつ調べることになった。
三階、四階は同じ光景が広がっていた。まるで台風が過ぎ去った後のように備品薬品が散らばり、だがその中で逃げ遅れている人間はいないようでどこまでも無人だった。だが廊下には階下と同じようにガソリンが撒き散らかされており、同時に零れ落ちた薬品との臭いが合わさって独特な異臭を放っていた。
GPSで確認しながら病院内を散策し、七階に差し掛かったところで悠木羽の後ろを歩いていた日上の耳に不気味な音が聞こえた。バシャバシャと水を撒くような音がその階の奥から聞こえたのだ。
それを悠木羽も聞こえたのか、二人は顔を見合わせて無言で頷き合い音が聞こえた方向へと足を運んだ。
そこにいたのは、二人にとってこれからも忘れられない人物であった。
「あッ、悠木羽さんにヒガミンさん」
「……リンちゃん」
日上は自嘲気味に笑い、悠木羽は彼女の後姿が見えた時点でコート内からナイフを取り出していた。
リンは先ほどとは服装が変わっており、今はスパッツの上に白のミニスカートとパーカーを着ている。相も変わらずスポーティーな服装であった。
二人の視線の先――リンの手にはポリタンクが握られており、彼女はこちらに気が付くまでそれの中身を撒いていた。
「嫌な相手に会っちゃったなぁ……」
「まったく同感だ」
やる気のない愚痴に悠木羽も同意したところで、日上は確信してしまった。もしかしたら加賀沢が今回の件には関係ないかもしれないという淡い甘えは簡単に壊されてしまった。
「あぁ~……リンちゃん。加賀沢呼んできてくれない?」
「ダメっ」
日上の言葉が終わると同時にそれを否定して、続けてこう語る。
「彼は私のもの……だから残りの人生を彼の記憶で埋めたいの」
「なッ!!」
彼女の言葉に妙に甲高い声で反応した悠木羽を日上は不思議そうに見たが、別段気にすることでもないようだったので先を進めた。
「私のものって……あいつも大層な奴に好かれたな」
「それはあなたもでしょう? 私はあなたの横にいる彼女の真似をッ―」
そうして、今度は彼女の言葉が終わる前に彼の横にいた悠木羽がリンを殴り飛ばしていた。
「…………日上」
「はい」
「お前は何も聞いてない。オーライ?」
「オーライってのは死語だと思うけど、オーライ」
「あいつは私が口封じ……もとい、相手をするから友達を助けるなり何なり好きにしろ」
悠木羽は鬼気迫るような視線で日上を一瞥した後、リンが飛ばされた暗闇へと走っていった。
取り残された日上はしばらくの間二人が消えていった暗闇の方へ目を向けて立ち尽くしていたが―
『お前えええええええぇぇッッ!! もうすこしでバレる所だっただろうがッ!!』
『あははははははははッ!! いつまでツンデれてるんですか!! これじゃあ振られた私があまりに惨めでしょう? 早くやっちゃえばいいでしょうにッ!!』
『ツンデれてねええッ!! ていうか、私はあいつの前では余裕のあるお姉さんタイプでいるんだよ!! もういい! ここでころしてやるぅああああああああッ!!』
『あははッ! 自分の過去の恥ずかしい名言を後になって恥ずかしがって……可愛い!!』
『シイイィィネエエエエエエ!!!!!』
二トントラックがぶつかった様な轟音に混じって聞こえてきた、聞くに耐えない駄話が聞こえて奇妙な安心感を感じた日上は上階へと上がっていこうと考えた。
階段を上る間も二人が起こす地響きが絶えなかったが、それは逆に未だどちらも生きているという証明でもあった。
院内が破壊されていく様を見て放心する外の患者や医者たちを日上は窓越しから見下ろしたが、別段興味を持つものではなかった。
それよりも、今目の前にいる人物のほうが問題だった。
「よお、親友」
日上が一人で九階へと上がり、その階の一室に何気なく足を運んだ先に加賀沢はいた。
「いや、何気なくなんかじゃないか―」
その場所は半年前の日上と加賀沢の、二人にとって最も強い感情が生まれた場所でもあった。
「あん時は二人で無茶苦茶泣いたよな。親友」
「バカ言え、泣いてたのはお前だけだ。俺は泣こうにも、ここに来たときにお前が狂い泣き過ぎてて引いたんだよ」
「ハッ、言ってろ」
他の病室よりも一際大きな部屋の中に、更に他の病室よりも大きなベッドと豪勢な医療装置が置かれている部屋だった。壁は真っ白で、院内を満たしているガソリンの不快な臭いも入ってきていないようにここは神聖さを持っている。
ベッドの上に腰掛ける加賀沢はいつも学校で見せるように明るい純少年の笑顔だった。それが黄金のような髪色と合い重なって、一層彼を輝かせていた。
「未だに信じられねぇんだよ。あいつが死んだなんてさ―」
「………………そうか」
「ウソだ」
「ウソかよッ!! なんだ今の意味ないくだり!!」
「いやぁ、お前と殺伐とした雰囲気なんて想像できないだろ?」
「……まあ、な」
ボリボリと自分の頭を掻いて、日上は昔彼女が寝ていたベッドへと目を向ける。
「あの頃だったらあの子がここで口を押さえて小さく笑ってたよな」
「おッ、暗い話になった」
「そういう気分なんだ」
一歩、日上は加賀沢の元へと足を運ぶ。壁一面がガラスとなっているこの部屋は電灯も消えていて、唯一の光源はそこから差し込む月の光だけだった。
この部屋は彼――加賀沢 真の妹が半年前まで過ごしていた特別病室だ。この病院で最も高価で、最も安全性を心がけられている部屋で、最も孤立した部屋。
そんな中に彼の妹は長い間入れられていた。ここにいなくてはいけなくなった。
『先天性の心臓疾患でさ……ろくに外を歩いたことがないんだ』
それは日上の中で二番目に大切な思い出。一番は加賀沢と知り合いになった時。そしてこれはその次、日上が知り合いになった二人目の記憶だ。
『だから、高校まで引きこもってたお前なら通じる部分があるんじゃないかと思ってさ』
大きなお世話だ、と溜息混じりに親友に返す。
もしかしたら彼が自分といるのはそんな妹の境遇を気に病んでいるからではと考えたが、それなら尚更自分は彼女を知らなければと思い義務感を覚えた。
『まぁ、会ったら世間話でも言ってやりゃあいい。あいつ笑い上戸だからどんなに下らなくてもいい』
そうして日上はこの部屋まで連れてこられ、彼女にも出会った。
兄と同じ明るい笑顔を持つ少女、唯一違うところがあるとすれば上品さがあったことだ。まるで人形のような顔立ちで、茶色の混じったストレートの髪は状況の関係もあって深窓の令嬢を髣髴させた。
そんなベッドの上の人形と日上が会ったのが高校一年の春。
そして親友と自分にとって大切な者の一人だった彼女がいなくなったのが約1年前。高校三年の準備期間だという二年の春休みの始まり。心臓発作と当直の先生の対応の悪手によって命を落とし、加賀沢の家は莫大な慰謝料をもらった。
「井伊菅のことを覚えてるよな―」
加賀沢はベッドから降りて窓ガラスへと足を運び、外で入り口を固めている警官を見下ろしながら日上に問いかける。
「お前は会ったことがなかっただろうけど、あの人は妹の担当医師だったんだ」
その言葉に日上は驚きを覚えた。確かに彼がここの医師だったことは覚えているが、加賀沢と接点のある人物だとは考えていなかったのである。
「あの人はいい医者だったよ。妹の心臓移植のドナーを必死に探してくれてたんだ…………だけど―」
そこから加賀沢の言ったことに日上は大きな驚きを隠せなかった。
「―当時彼と同期だった医者が妹をワザと殺してそれを彼の所為にしたんだ」
「!?」
それは表ざたにはされていない情報。当事者と被害者、そしてそれを不利益だと判断して隠蔽した病院側の人間しか知らないこと。病院側も井伊菅が原因ではないことは知っていたが、彼はもうその頃には自信を喪失していた。
「それで彼は暴力沙汰を起こしたなんて根も葉もない嘘を流された。妹の死のショックで塞ぎ込んで使えなくなった彼を生贄にしたこの病院の意思―」
冷たく、冷静に、平静に、静かに、大人しく、人間らしく、彼は言葉を紡ぐ。
「それを知った俺は絶望した。それで何もかも壊したくなった…………つまらない理由だろう?」
ドラッグをばら撒いたことも、ガソリンをばら撒くことも、そんな理由。
「三文小説を通り過ぎて、読むだけで金をもらえる小説の内容だろう?」
「……だな」
一息、日上は溜息をつく。最近溜息ばかりをついているような気がしたが、事実だった。
「それで、俺がお前を止められたら……まぁ、少しはマシな小説になるだろう」
「…………できればな」
振り向いて、加賀沢はいつ間にか左手に持っていた注射器を日上に見せる。
日上はそれを見て、およそどのようなものか理解しても気を荒げることはなかった。
「井伊菅が自分に打ったものと同じものだ。お前らが彼を殺しに行ったとき、俺はこれをもらいに行ってたんだよ」
「なるほど、あの日ここに来たときお前が出くわしたのはセール品欲しさじゃなかったわけか」
「そういうことだ」
彼はその手に持っている注射器を右手に打ち、日上に小さく呟く。
「お前には妹の傍に居て欲しいんだ―」
目の前で変異していく親友を見て、日上はそろそろ死期が近いのかもと考える。
「どうしようもなく不幸で、それがぶつける相手がいた……それが彼を狂気に走らせた理由だ」
繭の手をとりながら、織延 黎寺は彼の助手であった男――加賀沢 真をそう説明する。
「ここを壊したい理由を私もよく理解できる。ここは薬品の臭みよりも人間の臭みのほうが濃い」
これまでの人生の中で彼が持ちえる経験から出る結論。ここは人間の嫌な部分がとても堅実に披露されている。
「自分たちの保身のために責めるべき存在を責めず、はした金を渡して謝罪の言葉を数回送るだけで何もかもうまくいくと思い込んだ者達に対する罰だよ、これは―」
それは彼の父、織延南西にも言えること。
「情報漏洩に至り、その責を問われあらゆる権力と自由を剥奪された父のように―」
そしてその情報を流されることによって不易を被る存在。
「後になって自分たちのしたことの重大さを理解して、それを処理することに工面しなければならなくなった者達のように―」
それは彼なりの常識。悪事を行ったものは罰が下り、苦行を進んだものたちは祝福されなければならない。
「だからこそ、君は救われなければならない。今度こそ、完璧な存在へと導かれる権利がある」
正義が勝ち、悪が負ける。まるで子供に語る夢物語を彼は猛進していた。
それを聞いた繭は何の感情も面には出さなかった。例えどれだけその一言に絶望していたとしても、それを彼に伝えるまでは泣かないでおきたかった。別に、彼の論理を否定するわけでも、それを美しいと思いうれしく思う自分もいた。
だが―
「完璧な存在―」
彼のその一言を反芻して、首を傾げて答えを待っている彼に自分の思いを伝える。
「私はあなたのことを愛してる」
それは彼も了承しているはずの当たり前の答え。そして彼が自分に向けている感情も自分と同じ色だと思い込んでいて、彼が居ないことでそれが疑問へとなったもの。
「もちろん、私も君を愛してる」
あぁ、そういうと思った。聞きたくなかった。それが彼女の答え。
「―違う」
小さく黎寺の返事を否定して、次の言葉を言おうとする。
「あなたはッ……あなたは私を芸術品として愛でてるだけよッ!!」
それは自分の元に居てくれず、自分の体質を完璧なものへと昇華させるためだけに時間を費やした者への評価。
自分の言いたいことだけ言い放ち、黎寺の停止の懇願も聞かずに繭は涙を流しながら院長室を走り出る。
黎寺もそれを追おうとしたが、近くから響くリンと悠木羽のものであろう戦いの振動を感知して一瞬立ち止まり、立ち止まったことに疑問を持った。
「私は今、繭よりもリンの保身を優先しようとした?」
それは繭を追うよりも、彼女のためになるであろう披験体を守ろうと躊躇したことで気づいたこと。
「……ははッ、何だ……要するに私も父と同じで、自分のプライドをとる人間だったということか―」
額を押さえて、自分が軽蔑している存在を頭の中で思い出す。
彼と違う存在になりたいと考え、愛に生きてきたはずだったが、血の繋がりは思いのほか強かったのだと彼は考える。
――無意識でも自分は彼と酷似する部分があったのだ。
そう自覚し、今までと同じようにそれを否定することから彼は始めた。
すでに見えなくなるまで走り去った繭の跡を彼はなぞる様に走り出した。
リンは前回、悠木羽に大敗した。純粋な技術面と悠木羽の経験から得られた体質が大きく戦局を傾けていた。
それがおよそ一時間前の出来事。だから今、純粋に二人が戦えば悠木羽の勝利は約束されているのが道理である。悠木羽もそう考えていた。
だが闘いは彼女の予想に反して長引き、圧されていることはなくとも勝てない状況だった。
「ありえないだろう、一時間でこうも変わるか普通?」
「私を一般人と一緒にしないでください。先ほどとは違うんですよ」
リンは徒手空拳、悠木羽は愛用のナイフを使い、彼是十数分戦っていたがお互い負傷は同程度だった。
悠木羽が肩を切りつければリンは彼女の腹部を殴りつけ、どれだけ傷つけ傷つけられてもお互い瞬時に無傷となる。
「私は今まで喧嘩のやり方なんて知らなかったんです。それを先ほどの闘いで知っただけですよ」
「知ったって、一方的にやられてただけなのに―」
「ええ、それでもいいんです。要するに、方法さえ知れればなんだっていいんです。ババ抜きをするためにルールを覚えるようなものです」
互いに無傷であるが、時間が経てばその戦局にも差が見え始める。
悠木羽の持つナイフはすでにリンの血で使い物にならなくなり、空振って壁などに擦りつけたので要所が刃こぼれしていた。
悠木羽も素手での戦いは苦手ではないが、何より相手が悪い。相手はこっちと同程度の実力を持っていて、ついで向こうは素手での戦いを得意としている。
このまま続ければ負けは見えていた。そもそも、武器があっても終わるかどうかもわからない。
「どうします? 負けを認めて彼と一緒にここから出て行ってくれますか?」
「なんだ、逃がしてくれるのか」
「……まあ、先ほどは私も頭に血が上りすぎてたんですよ。貴方達が仲間になってくれない以上無関心を貫くのが一番です。私にはあの人が居ますから」
笑顔でそう答えるリン。その顔が自然に見えて、前回の様に気狂いするのは稀なのかもしれないと悠木羽は考えた。
「ありがたいが、日上は私が止めても聞かないだろう」
「ヒガミンさんが?」
「ああ。あいつはお前の愛しの人を取り戻そうと必死だからな。正直妬ける」
苦笑いしながら悠木羽は話す。
「そんなことはさせませんし出来ません」
「どうしてだ?」
「あの人も変わろうとしている」
「…………あぁ、あれを使うつもりなのか」
リンの言葉でおおよそだが見当がついた。
「もしそうなってしまえば彼は戻れなくなるし、ヒガミンさんも死んでしまう」
「…………させないさ」
手に持っていた使えなくなったナイフを投げ捨て、悠木羽は笑う。
「あいつは殺させない」
「お前がこの事件に関わってるって知って気が滅入ったよ」
井伊菅と同じように加賀沢の右腕は黒く豪質なものと成り、それが日上を白いタイル張りの床へと押さえつけていた。
押さえつけられている日上は苦悶の表情を出さず、無理に笑いながらも親友に皮肉を返す。
「俺は軽くトラウマになりそうだよ。知ってたか? トラウマってギリシャの言葉なんだぜ」
「知らなかった。さすがに引き篭もって勉強ばかりしていただけはあるな」
「一般教養の範囲内だろう」
「大学教授でも解けない難問を解いた時も同じ事を言ってたけど、お前の中にある一般教養の範囲は広すぎる」
「世界が俺のスピードについて来れてないだけだッ!!」
「…………お前はかっこいいジコチューだな」
ため息と苦笑を交えて、加賀沢は掴む右腕を日上の首へと移動させてそのまま持ち上げる。
「ぐふッ!」
「どうして妹がお前を好きだったか迷うまでも無いな。自閉的だった分、その反動から来るお前の奔放さに惹かれたんだろう」
「あの子俺の事好きだったの!?」
「…………気づけよバカッ」
少し力を入れるだけで絞め殺される状況であっても、日上は日常通りの話し方を変えなかった。混迷することも無く、プライドを捨てて懇願することも無かった。
加賀沢は彼が恐怖のあまり狂ったのだとも思わない。そもそも、それならこんな平坦な会話が続くことは無い。これは彼の恐ろしいまでの武器なのだ。どんな危機的状況でも自我を失わない。加賀沢がこの男を認めた唯一の武器。
「妹が死んだときも泣かなかったよな、お前」
「さっきも……言っただろ。お前が泣きすぎてッ……立つ瀬が無かっただけだッ!」
首を絞められる状態にある日上は次第に呼吸が荒くなる。少しでも身体が酸素を補給しようとしているのが、加賀沢の右腕は感知できた。
「普通なら、冷たい奴だと思って軽蔑するのが普通なんだけどな。それがお前なりの考えだってわかったら、逆に俺が恥ずかしくなったよ」
日上は彼の妹が死んだ後、何事も無かったように学校に現れては学生生活を満喫していた。それを見たとき、加賀沢は自分が妹に固執するのは彼女にとって迷惑なのではと考え、それをやめた。それを日上は自分の招いたことだとも知らずに親友を誇りに思った。
「お前のおかげで俺は吹っ切れることが出来たんだよ」
「ふッ……ざ…けん…な。吹っ切れて……ねえだろ」
「吹っ切れたよ。だからこそこんなことが出来るようになった。お前には感謝してる」
「…………こ…の……ッ」
反論しようとしたが出来なかった。気管を抑えられている為に呼吸がままならず、少しずつ視界が白く塗りつぶされていった。
「だから、この場所を見限ろうと考えた。一緒にあいつのいる場所まで行こう」
言葉の終わりと同時に加賀沢は更に首を締め上げようとする。日上の意識を落として、命までも奪おうとした。
「ッ!!」
だが彼の思惑とは違い、日上は今までだらりと下げていた両腕を使って締め上げようとする手を緩めようとする。
幾分か、気休め程度にしか手は緩まなかったが、日上はその一瞬の呼吸で精一杯の言葉を親友に告げようとする。
「だれ……が、誰が一緒にお前と地獄に行くかよッ!!」
「…………日上」
自分と百八十度違う、反対意見を話す親友を悲しみが満ちる眼で見つめるが、その親友はそんな彼の心情を無視して自分の心情を放つ。
「お前も行かせないッ! あの子には悪いけど、まだ彼女には一人でいてもらう!!」
「お前に俺の生死を問う権利があるのかよ」
「ねえよッ!! 俺だってこんな偽善行為、はっきり言って嫌だよッ!!」
「……だったら―」
「―だけど、あの子にはお前を問う権利があるッ! 俺はそれを代弁するだけだ!!」
「…………ハッ」
加賀沢は日上の意見を鼻で笑い、その価値観を無駄だと考える。
「じゃあ何かッ? 妹が俺には死んで欲しくないと言ってるとでも? お前はいつからシャーマンになったんだよッ!! 漫画の読みすぎで感化されたかッ!!?」
加賀沢の眼は先ほどの憂いを帯びたものと違い、純粋に日上の言葉に憤怒を覚えていた。
「お前がそんな下らない一般論を言うとは思わなかったよッ! 将来は道徳の先生にでもなるかッ!!?」
「勝手に暴走して与太ってんじゃねえぞ、このシスコンがッ!!」
感情に任せて締め上げる手を強めていた加賀沢だが、それでも彼の命も意識も絶つことはできなかった。
「お前があの子のいるとこ行っても、なんも話すネタねえだろうがッて言ってんだよ!!」
「…………」
その言葉に、加賀沢は目を見開き手を緩める。
「あの子が死んでからこの一年何してんだよテメェ」
妹が笑ってくれるように欠かさず病院に通っていた親友を彼は知っている。
「ドラッグ売って親友殺してきたなんて笑い話があるかよ」
いつも学校で互いに笑い者になって、問題事を語るのが大好きだった。
「あの子が俺のことが好きだ? 確かにそうかもしれねえが、あの子もお前に劣らずブラコンだったろうがッ」
風邪を引いて寝込んでるって知ったら、兄のことを心配して食事が咽喉を通らなくなった子がいた。
「ぁ……ぁ………」
加賀沢は泣いていた。三年近く付き合ってきたが、親友の泣き顔を見るのは初めてだなと、日上は心の中で自嘲気味に笑う。
「今のお前を知ったら泣くだろうな……なんて定型句みたいなの言いたくないけど、その通りだろう?」
「…………ハ…ル」
日上が最後に親友からその名前を聞いたのは、彼が病院にたどり着き、親友が泣きながらその名を叫んでいた一年前。
場所も、人数も、風景も同じだが、一年の歳月は彼を大きく変えていた。
「右腕を落とせええぇッ!! ゆきはぁぁぁッ!!」
最後の余力を使い、入り口に立つパートナーへと指示を出す日上。
「わかってる。イチイチ叫ぶな五月蝿い」
その声をすぐ後ろから聞いた加賀沢に抵抗する暇はなかった。
いや、そんな気も無かったのだろう。後ろを振り返ることも無く、ただ立ち尽くしていた。
ブチッという鈍器を使って繊維を引きちぎられるような音を感じて、加賀沢は意識を失う。
その時、消え行く意識の中で彼は、妹のハルを見た気がした。
「窓ガラスはねえよお前。しかもそのまんま」
悠木羽が持っていたのは院内の廊下にあった無傷の窓ガラスだった。どうすればそうなるのか、もち手がまるでそこにあったようにガラスがヒビも無く悠木羽の指を貫通していた。
「防弾ガラスだから割れ難いんだよ。それに意外性抜群だろう?」
「誰もそんなものを武器にしねえからな。ていうか、お前防弾ガラスを指で貫いたのか?」
「ああ」
「…………お前武器いらなくね?」
「……あッ―」
「今頃気づいたのか凶器女」
「そういえばパンチングマシーンをしたらミットを貫通して、スコアがゼロになったことがあった」
「お前もうゲーセン行くなッ!!」
右腕を無くして倒れている加賀沢を介抱しながら、日上と悠木羽は別れてからの状況の報告を行っていた。
不幸中の幸いか、外面こそ人間だが加賀沢はドラッグに犯されているので常人よりも治癒能力が高い。悠木羽のように再生こそ無いものの右腕の出血はすぐに止まり大事には至らなかった。
親友の安否を確認し、安心したのも束の間。
「ウソでしょ?」
ここにいる悠木羽以外の女の子の声が部屋に響いた。
丁度、加賀沢の応急処置が終わったと同時に、日上はリンと三度目の再会を果たした。
彼女を見た日上は悠木羽に摺り足でゆっくりと近づいていく。
「…………倒したんじゃなかったの?」
「に~げ~た~だ~け~」
リズム良く、オペラ調に告げる悠木羽。
「ふざけんなッ! あいつは俺に任せろみたいな事言ってただろう!!」
「ああ~~、無理無理。あいつ強い。チート臭い強さ」
「そんな投げやりな―」
悠木羽に小言の一つでも言ってやろうと考えたのも束の間―。
「その人からはなれろッ!! 俗物!!」
獣のスピードを超えた速さで日上に突撃してくるリン。
「―ッ!」
彼女の行動と共に悠木羽は何にも気づいていない日上に体当たりしてリンの攻撃を避ける。
「あッ―」
そんな日上と悠木羽が素っ頓狂な声を出したのはほぼ同時―。
猛追してきたリンが部屋の一面を覆う窓ガラスへと突撃し、そのまま下へと落ちていったのだ。
入り口で院内を観察していた警察官だろうか、まるで女性が出すような悲鳴が二人の耳に届いた。
数刻二人は躊躇したが、一緒に割れた窓ガラスから嫌々ながらも顔を出して真下へと視線を向ける。
体よく警察が彼女が落ちたであろう場所を照らしてくれたおかげで、二人は即座に結論を出せた。
「悠木羽―」
「なんだ?」
「チート臭いって同意する」
「……だろう?」
二人が見たのは無傷でこちらを睨むリンの姿だった。
二人と加賀沢、リンがいたのは九階で、常人ならばここから落ちれば即死は免れないし、身体の一部が損壊していてもおかしくない高さだ。だが彼女は二人が階下へと視線を移すまでに再生し、凛とした姿で立っていた。
「お前があいつを惹きつけろ。その間に加賀沢を安全な場所に移して繭さんを探し出す」
「嫌だ!! あんなバケモノ相手に出来るか!!」
「実力じゃあいつとそんな変わらないだろう!?」
「私は女の子だぞッ!?」
「俺は男だッ!! だからどうした!!」
あれやこれやと二人で言い争う間にもリンはまっすぐ院内へと向かい、脅威のスピードで向かってくる。
それを第六感で感じた日上はこの事件が終わってから言おうとしていたことをダシにすることにする。
「これが終わったら恋人になってやるから!!」
日上と悠木羽が逃げられぬよう、人間の域をはるかに超えたスピードで九階へと辿り着くリン。
ここに来るまで、一般人ではエレベーターを利用して最速が八分が精々だろうが―。彼女はその速度を最大限に生かし、階段を一跳びで上り、僅か二分足らずで辿り着く。
反対の階段、もしくは非常階段を利用して逃げているだろうと考えていたリンだが―。
「今度は逃げなかったんですね。悠木羽さん」
「ああ、恋人の頼みだ。無下には出来ないだろう」
『これが終わったら恋人になってやるから!!』
『……えッ!!? なんでそうなる!?』
『時間が無い!! 早く答えをッ!!』
『ぇ……ああ、うん』
『じゃあ後は任せた!!』
「―で、引き受けたと」
「笑いたければ笑え。乙女の恋が実ったんだから悔いは無い」
「……じゃあ、目を見て言ってください」
「………………」
「…………同情はしてあげますよ」
「……すっげえ泣きたい」
ガラスを持っている右手と反対の腕で目元をぬぐい、上を向いて涙を堪える悠木羽。そんな男でも選んでしまったんだから仕方が無いと心の中で納得する。
「ご結婚おめでとうございます。ですが退いて下さい」
「結婚するかはまだ決めてない」
「じゃあ、結婚おめでとうございますだろう。ですから退いて下さい」
「…………未来系」
「私は私の恋があるんです。ですから―」
「あんな乙女心を理解しようとしないバカでも結婚風景考えたらにやけただろうがああぁぁッ!!」
鬼気迫るような、未来を憂うような形相で襲い掛かる悠木羽。
「……お幸せそうで何よりです」
それを返すリンの目は、とても冷めついていた。
悠木羽とリンが今夜三度目の戦闘を始めたのを日上は院内を揺るがす振動から感知した。
本当は彼女だけに任せるというのも気が引けていたことは事実だが、現状彼女しか相手に出来ない存在なのだ。そう自分に言い聞かせて日上は非常階段から敷地外へと移動する。
正面の入り口を通らず、横の塀を越えて道路へと降り立つ。全て、加賀沢を背負いながらのことなので、遠回りして医者のいる正面入り口にたどり着いたときには彼の顔は青白くなっていた。
その場にいる医師たちにウソの事情を伝えて彼の治療を任せ、日上は院内へと戻ろうとする。
「……ちょっと君、顔色が悪いよ。診せたまえ」
加賀沢の治療に当たっている医師とは違う老体の人物が日上を引きとめようとしている。
無理に押しのける力も無く、日上は彼に為されるままに近くに会ったパイプ椅子に座らされる。
「もうすぐ院内へ警察が強行突破するらしい。心配せずともテロリスト達はすぐに捕まるよ」
「テロリスト?」
「あぁ、いや、他の者達が騒いでいたのでそう口走ってしまったが、あの中にガソリンを撒いている奴らだよ」
そのガソリンを撒き散らかしてた人物がすぐそこで寝ている俺の親友ですよ、とも言えず。彼は静かに彼の言葉を聞き入れる。
「優秀な人材を失ったばかりだというのに、こんな騒ぎを起こされては患者に問題が起きてしまう」
「………?」
「ああ、すまない。丁度一年前ぐらいだろうか。同期の不手際の責任を取らされた医者がいてね、本当に彼は優秀だったよ」
彼の言葉に、加賀沢の治療に当たっていた医師や、他の医師たちもこちらへと目を向ける。睨むように皆見ているが、彼は意にも介さず話を続ける。
「感受性の強い人でね。ある女の子の治療に付いていたんだが、その子の死を自分の所為だと思い込んでしまってね。まるで生きながら死んでいるようになってしまったんだよ」
それを井伊菅 広瀬のことだと日上はすぐに気づいた。加賀沢の言葉から知った真実だが、彼が自分の親友だというだけでそれの信憑性を彼は問答無用で信じた。
「……あそこで寝てるの、その女の子の兄貴ですよ」
今までその真実を知らなかった責任感だからだろうか。事後処理のつもりで彼はその医師に事実を打ち明ける。ドラッグのことを抜きにして、彼が院内にガソリンを撒いたこと、彼がこの病院を怨んでいることを。
「………………」
その老医は驚くことも無く、日上の言葉に耳を傾ける。もしかしたら信じてもらえていないのかもしれないと考えたが、それも杞憂だったようで、話を終えて数十秒後、彼は反応した。
「今になって罰が来たのか。当たり前だな」
「彼に謝ってください。それと―」
「事実を明るみに――と言うのは無理な話だ」
「!?―どうしてッ」
座っていたパイプ椅子を後ろへ倒す勢いで、彼に掴みかかる。
その一部始終を見ていた周りの医師や看護士たちが止めに入ろうとするが、彼はそれらを手で静止を促す。
「彼には個人的に謝ろう。だが、それは無理なんだ。少なくともそれを今したら、色々な人たちに被害を与えてしまう」
「被害を受けるって、所詮自分たちのことだろう!!」
「その家族も含めてだ」
「………………」
彼を無言で睨む日上だったが、彼の様子が変わる気配が無いことがわかり、院内へと向かっていこうとする。
「……必ず謝ってください。でないと、あいつが少しも報われない」
「…………ああ」
正面入り口に規律良く並ぶ武装警官の背中をよじ登り、その肩を蹴って日上は警官たちを飛び越えて院内へと入っていく。
それを見ていた者たちが感嘆の声を上げたが、その老医だけは静かに彼を見守っていた。
日上が院内に入るころ、悠木羽とリンの戦いは極致に至っていた。
二人は壁をけり、数分の間地面に着かずに空中でぶつかり合う戦いを行っていた。前回とは違い室内戦であるが故に成せる業だろうが、それでも今までの戦いを見てきた日上でも二人の戦いには驚きを隠せないだろう。速度、技術、反射、どれをとっても神の領域だ。
踏み台にされた壁やガラスが無残に壊され、傍目から視れば二つの何かが院内を壊しながら移動しているようにしか見えない。だが度々聞こえる衝突音がこれが戦闘であることをわからせた。
「――――」
悠木羽も自分にここまでの力があるとは思わず、僅かにだが強者の地位に酔いしれていた。触れるものが全て壊れてく――それに最初は恐怖したが、続けていくうちに悦を得られるようになった。『数人を殺せば殺人鬼だが、千を殺せば英雄、全てを殺せば神になる』 そんな言葉を日上が言っていたのを思い出し、バカにしたが存外その通りだなと心の中で呟いた。
「――アハッ」
彼女に付いているリンもまた、加賀沢のことを忘れるまでではないにせよ喜びを感じていた。望んだ世界を体現する自分を誇りに思い、少しでも続けていたいとさえ思いたくなった。彼は後になってから探せば良い――そう思わせるほどに戦闘狂になりつつあった。
悠木羽は砕けたガラスをナイフに見立ててリンに突き刺し、リンはあくまで素手での戦いに固執していた。
「…………もう少しッ」
小さく呟く悠木羽。目の前の戦いに聴覚を費やしていたリンはその言葉を聞き取れず、無視していた。
院内には未だガソリンの臭いが漂い、院内を飛び回った結果わかったことだがこれは階段にまで続いておらず、階毎に火をつけなければ全焼させることは出来ないでいた。
それを知った悠木羽は最後の手段を講じる。
「……ライター?」
彼女が懐から出した物に疑問を持つリン。
院内を走る間に、休憩室でそれを見つけた悠木羽はそれを持ち出していたのだ。それを使う場面があるとは彼女は思えなかったが―
「そもそも、ここがどうなろうが知ったことではないよな」
そう言って、壁を蹴りながら飛び回る間にそれを床に落とす。
「なッ!?」
リンは状況を理解したがすでに時は遅く、後ろから炎が二人を追うように迫り走ってくる。
咄嗟の判断でリンは距離を取ろうとする。別段火に焼けたとて支障は無いのだが、今までの人生の経験からそれを避ける行動をしてしまう。
二人の間を裂くように火が走り抜け、光のなかった廊下に光源が灯る。
炎の壁がリンの視界を遮り、悠木羽を見失わせた。
これを闇討ちと予測したリンはすぐさま左右を見渡すが―
「私の勝ちだ」
声が聞こえたのは正面、悠木羽は炎の中を走ってきた。
そして手に持っていたガラスのナイフの切先を彼女の胸に深く刺し込む。
差し込んだ傷口から多量の血が流れるが、一瞬で止まりリンの存命を決定付けた。
「これが…………どうしたって言うんですか」
自分の胸の中にいる悠木羽に声をかける。
「今まで私はどれだけお前を切ったか覚えているか?」
「…………さぁ?」
「私も覚えていない」
「…………」
「それだけ切ったんだ。出血はノルマを超えた」
「…………ぁ……れ―」
突如、リンの視界が揺らぐ。彼女も悠木羽と同じように肉体の限界が来ても戦える様になってはいたが、確実にリンの体は変調をきたしていた。
「私たちは不死だが、基本は人の体だ。疲労や苦痛に伴う肉体のシャットダウンは押さえられるようになるが、これは私も抑えられない」
それはエネルギーの枯渇。体を行き交う血液を作るための栄養源が無くなったのだ。前に井伊菅との戦いで、悠木羽は日上に負ぶってもらった時と同じ事を彼女に施したのだ。
「私…の……負けです……ね」
「私、完全勝利」
「次は負けません」
「そうしろ。お前もこれからの私の余興に入れてやる」
「ハハ―」
すでに視界を白くしているリンは力なく笑い、崩れ落ちる。
「―よいしょっと」
それを受け止めた悠木羽は―
「ほいっと―」
彼女をぞんざいに窓の外へと放り捨てる。第三者がいれば悲鳴を上げるようなことを平気でやってのける。落ちた衝撃音は聞こえなかったが、外が騒がしくなったので警察に保護されたのだと悠木羽は判断する。
「背負っていくほどの余力はないんだ」
そう言って、彼女も限界を迎えたのだろう。糸が切れた人形の様に足元が崩れ、その場に倒れそうになる。
「だからって、背負わせんなよ。俺だってここまで全力疾走して疲れたんだ」
寸での所で、後ろから来た日上に支えられた。
彼の声を聞き、安心するように笑う悠木羽。
「恋人にあんなもの押し付けたんだ。少しぐらい苦労しろ」
「へいへい」
「なぁ、日上…………結婚しよう」
「……ここに来て死亡フラグッ!?」
「違う、本当にいつかしたいと思っただけだ」
「唐突過ぎるだろう」
「駄目か?」
「………………まぁ、考えとく」
「……そっか…………よかった」
「おい…………悠木羽?」
声をかけるが反応は戻ってこなかった。どうやら眠りに付いたようで、彼女の寝息が聞こえた。
「……………って、見惚れてる場合じゃねえッ!」
二人の周りに少しずつ火の手が上がる。あと数分もここにいればこの階は火の海になるであろう勢いだ。
日上はかつてと同じように彼女を背負うと、この階から離れようとする。
だが―
「ヒガミンッ!!」
聞きなれたあだ名を呼ぶ声が炎の先から聞こえた。
炎が遮る先、火の届いていない先に繭がいた。
「繭さんッ!」
だが、彼らの間には火が上がっている。距離にして約五メートル。日上には超えられないし、疲労で眠りに付いた悠木羽は論外だ。
「反対の階段から下の階へ行ってくださいッ。合流しましょうッ!」
日上は火の手がこの階しか上がっていないことに気が付き、火が届いていない階下へと行くように提案する。
だが―
「危ない繭さんッ!」
悠木羽とリンの戦い、及び放火の影響で疲弊した天井が崩れるのが見えた。崩れた拍子に噴いた風が炎の勢いを増し、日上は早急にこの階を降りなければならなくなった。
下の階の廊下を悠木羽を背負いながら走りぬけ、反対の階段を上がっていく。
彼女が死にやすい体であるとは聞いているが、それがどれほどまでのものかは彼にはわからない。もしかしたら切り傷の一つでも付いたら血が止まることなく出血死してしまうのではないかと、悪い風に考えてしまう。
だが彼の予想に反して、彼女は無事であった。崩れ落ちてきた瓦礫は彼女の足先十センチ前で途切れており、間一髪逃げられたのだと安堵した。
「繭さん……良かった」
「……………ヒガミン」
呼びかけて、数刻して繭は反応した。
「貴方が服を着てるのを始めて見ましたよ」
「……感動した?」
笑顔を見せる。
「一生そのままでいて欲しいですね」
「あっちの方が目の保養に良いでしょうに―」
「……それ本気で言ってますか」
「本気よ?」
「………………」
呆れて苦笑する日上。
「ともかくここから離れましょう。外の警察になんて言い訳するかも考えなくちゃいけませんね」
火は瓦礫に遮られてしばらくの間ならばここも安全だが、長居する意味も無いと考えて日上が繭にここから離れるよう促す。
「…………二人で行って、私はここに残るから―」
だがそれを返す彼女の言葉も、彼の予想に反していた。
「二人には、幸せになって欲しいわよね。黎寺」
日上と悠木羽の二人を見送り、繭は瓦礫の方へと声をかける。そこから男の手の甲が見え、それが彼女を崩れた天井から救い出した人物だった。
天井が崩れ落ちてくる瞬間、彼女は降りてきた黎寺に行き違いになるように引っ張られて彼が埋もれる光景を見た。
渋る日上を説得し、今生の別れも終えた。酸素が薄くなってきたのか、呼吸もし難くなっていた。
身体を瓦礫にもたれさせるように、黎寺の手がある横へと座り込む。
「私の人生最悪だったけど、貴方と出会ってトドメを刺された気分だわ」
「……それは悪いことをしたね」
「…………あれ、生きてたの?」
死んだものだと考えて話しかけていた繭は多少だが恥じらいを覚える。
だがそれでも彼の死は免れないだろう。瓦礫の中がどうなっているかわからないが、繭の手まで彼の血が流れてきていた。瓦礫の向こう側の火も近づきつつある。
「生きているさ。だが、足元辺りが燃え始めているのが見えるが痛みを感じない。痛覚を失ってる。しばらくしたら死ぬだろうな」
「…………そう」
「さっきの話だが、君の人生を私は半分も知らないのだが―。私と出会う前はそんなに不幸だったのかい?」
「―まあね」
彼女は口調を正すこともせず、日上と出会ってからの口調を続ける。
「具体的には?」
「…………私と悠木羽がなんで似通った性質を持ったか、疑問に思ったことは―?」
「……あるが―。それがどうした?」
「あの子と私は遺伝子が似通ってるから―」
「…………そういうことか―」
火が彼らを燃やしている間も、二人は彼女と繭の関係を話していた。
人買いに売られ続けていた人生の中で唯一の子供。そしてそれを織延に売り、金を得たが子供を忘れられず自分も被験者となることで彼女の傍にいようとしたこと。
「じゃあ……君は子持ちだったということか」
「ショック?」
「凄まじいショックだ。今までで一番の詐欺に会った」
「ご愁傷様」
「……事実を今まで知らなかったことを恥じるよ」
「近衛に頼んで履歴を消してもらったもの。成功体の私が誰かを調べるときに、他の科学者が驚いていた」
繭の身体が意思に反して動かなくなっていき、頭が朦朧としてくる。
「あの子はそれを―?」
「知らないわよ。これを知ってるのは私と近衛、それと今貴方が加わった」
下を見るとすでに下半身が燃えていた。それほどまで火が進んでいるのに瓦礫の中の声は疲れることを知らぬように単調と話を進める。
もしかしたらすでに自分は死んでいて、これは幻聴なのかもと繭は考えたが、それでも彼との会話をやめなかった。
「あの子にも言ってあげたかったけど、これ以上あの子に迷惑かける気にもならなかった」
「……四・五年待っていれば会えるさ。天国や地獄が在ればの話だが―」
「在っても……会えるかわからないわね」
「できるさ、君と彼女は天国にいける。私は地獄だろうが―」
瓦礫に埋もれていた手を握るが、その手には体温と呼べるものは無い。外気とは違い、まるで日陰にあるコンクリのように冷めていた。
「だからこそよ、私はあなたと一緒に地獄に落ちるもの―」
「…………それはまた、熱烈な言葉だ」
この言葉の酌みあいが幻であっても、それでも良いと繭は思った。
これから互いにあるかもわからない世界に旅たつとしても、今話している相手がすでに死んでいるかもしれなかったとしても、幸せだった。
最後、彼女の意識が途切れてしまう寸前、強く握り締める手が自分の手を握り返すのを確かに感じた。
「じゃあ、地獄では一緒にいよう」
第四章 END
どうでしたか?
本当はこの後エピローグを書こうとしましたが断念しました。
自分の文章力に唖然としたからです(駄目なほうです)
まぁ、処女作ダシということで封印していました。
これを面白いといってくださる方がいてくれれば嬉しいですね。
ではでは。




