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第二章

第二章 



工業都市、瀬切市から遠く離れた街で、少女は旅に出た。

理由は単純なもので、変化が欲しいからだった。

彼女は所謂短所がない人物であり、何事も問題なくこなす。努力はしたことがなく、学校の成績も勉強をしなくても主席をキープしていた。運動をろくにしなくてもクラブから勧誘されるレベルだった。化粧をしなくても綺麗で、男性の目を集中させることは多々あった。

だけど、彼女は満足することはない。彼女が求めているものは常識では手に入らないものなのだ。

それは魔法や超能力、種のないマジックが欲しかったのだ。現実から隔絶された世界に浸りたかった。

だから周りにいる人間に違和感を感じて嫌悪した。同じ話のネタで何度も何度も笑う集団や、鏡を見て男子に綺麗に見られようとするクラスメート。何より気味が悪いのは、イベント事になるとホルモンの変化でも起きているのだろうかとさえ思えるほど、ゾッとする青春行動―。

学園祭の準備で少しでも休憩すると、『ちゃんとしてよっ!!』といちいち言いに来る女子。―自分たちは買出しといってよくサボるくせに―。

そんな女子によく見られようとして儀善心を振りかざす男子。―そいつらが普段家でしている自己満足行為を見たら急激に冷める―。

そういう考えを持っていた彼女は周りの無意な存在を受け入れられなかった。

だが、そんな彼女も周りに合わせるということはする…………孤立するのが恐ろしかったからだ。どんなに嫌悪しても、自分も人間なのだから、一人が恐ろしいに決まっている。

だから面白くもないことで笑うフリを……泣くフリを……恋をするフリをしていた。彼らが自分に興味を持つように振舞っていた。

そんな彼女だが、先ほども言ったように変化を求めて街を出た。その切欠を与えたのはある都市伝説からだった。

『瀬切市には今、恐ろしい怪物がウヨウヨしているらしい』

デスクトップの画面に表示された、都市伝説に纏わる事件を書き込む掲示板に釘付けにされた。

これは彼女の日課だった。少しでも現実とは違うものに触れていたかったために、家ではパソコンの前に座り続ける。家族からの視線は痛いが、それでも追い求めたかったのだ。

そうして捜し求めた結果、その情報を手に入れた。

書き込みはすぐに消去されて、それを見ていた他の者たちも少しだけ疑問に思ったが、すぐに興味を無くして他の話題で盛り上がり始めた。

だが彼女は消去されたことによって、それの重要性を看過しきれなかった。

もしかしたら……そう考えて、その日の夜には家を出た。

後先考えず家を出た彼女は、家から持ち出したほんの少しのお金をすぐに使い切り、朝の公園で目を覚まして水道で喉を潤すという生活を続けた。秋が終わり、冬の始まりの時期だったので、飲み込む水が冷蔵庫の奥で氷を入れて冷やしていたジュースのように冷たかった。夜の寒さに耐えることが出来なくなり、コンビニで朝が来るまで時間をつぶして、昼の暖かい間に睡眠を取っていた。何日も何日も歩き続けて、文字通り足が棒になるまで歩き続けた。

携帯電話からの着信は友人以外一切なかった。彼女の家族は彼女を恐れていたからだ。普段は学校で猫を被っていたが、家の中でも続けるつもりはなかった。冷淡で貪欲さを醸し出す彼女の雰囲気を、両親や姉妹兄弟は受け入れられなかったのだ。さすがに捜索願は出しているだろうが、本心では戻ってきて欲しくないのかもしれない。

友達にだけ『心配ない』という短い文章を送って、極力携帯電話は開かなかった。

そうして家族からの連絡もないまま…………約一ヵ月後に彼女は物語の舞台へと参加した。



「私は卵のオジヤがいいな~……ヒガミンつくって~」

「…………」

クリスマスイヴ、午後の事務所の一室で、ソファーの上で額に濡れたタオルを乗せて横たわる繭からの要望を無視する日上―。

彼は今、親友と共に決死の覚悟で手に入れた盗撮写真の選別を行っていた。女子高生の下着姿や、更には生まれた時と同じ姿で写った写真が事務所の机に置かれていた。これを一切劣情を催したりせず、まるで機械のように一枚一枚丁寧に鑑識しているのが、この事務所で働く少年、谷田貝 日上である。

彼の通う瀬切第二高校は先週から冬休みに入っており、その間ほぼ毎日この場所に顔を出している。なぜかはわからないが制服で―。

しかし彼も一介の高校生で顔もそこそこ良い為、この日にデートの誘いを何人かの女子生徒に受けたが、二週間前から風邪を拗らせている繭のために全てを断ったためにここにいる。

「風邪をひいてる私のためにオジヤを作ってほしいな~~」

「………………」

「卵のオヤジがいいな~……ヒガミンつくって~」

「………………」

「折角寒いオヤジギャグをしたんだから、いい加減反応して欲しいな~~。泣いちゃうぞ私~」

「………………」

「……えっぐ、うえぇぇぇええええぇぇぇん―」

繭は声を上げて泣き出した。目から頬へと水滴が流れるのが見えたので本当に涙を流しているのだが、おそらく嘘泣きだろう。

それをチラリと横目で見て、演技だと判断した日上は尚も沈黙を続けて、学校で収穫した写真の選別を続ける。

(こっちの写真はよく撮れてるな……これはボツ……これもボツ―)

日上の反応を待っていた繭であったが、これでは埒が明かないと判断したのか、別の手段に出た。

「うええぇぇぇん! ヒガミンが女子高生の下着姿の写真を見ながら××××をしようとしてるー!!」

「変なことを言うな!! 何が楽しくて仮にも上司のあんたの前でそんなことしなくちゃいけないんだ!! 羞恥プレイか!?」

繭の問題発言を無視しきれなくなった日上は机の上に置かれている収穫物を置いて、奥の台所へと向かう。

「やたッ!」と小さく喜ぶ繭。

「どうして自分で作ろうとしないんだ―」

日上は文句を言いつつも、不承不承といった感じで上司の要望を聞き入れる。壁に掛けられたエプロンを手に取って、馴れた手つきで着ける。実は日上はこの事務所の台所はよく利用していて、仕事の終わりに食事を作って帰るのが日課だ。そのためか、二人と関わる半年前から今までの間に、料理の腕が数段上がったのである。

「私風邪だし~~~料理できない~~~」

ソファーの上で歌いながら自分のスキルの無さを自慢する繭。

「……少しは自分を磨こうとしないのか」

「し~な~い~」

彼女は日本女性の最高傑作と言えるほどの美しさとは裏腹に、限りなく親父くさい。料理はしないし、平日であってもよく昼寝をするし、珠に競馬をしていたりする。しかも下品な言動が多く、日上の反応を見るために彼の出勤前には決まって下着姿になる。

朝も看病に来た日上を下着姿で迎え入れたが、肌を露出させすぎたせいで風邪が悪化した事務所の長であった。

「…………はあああ~」

日上は大きくため息を吐いて、冷蔵庫から卵を取り出して調理を開始する。

彼がバイトとして働いている篠峰探偵事務所は三階建てのボロが付く建物である。

探偵と言っても名ばかりで、仕事は難解殺人事件を少年が解いたりするものでもなく、一言で言うと化物を駆除する仕事をしている。

瀬切市に繭と彼女の連れの悠木羽が来たのは約半年前。それまで、この街に住む日上にとっては平凡な毎日が当たり前だった。

だが彼女達からバイトの誘いを受けて、それをあっさり受理してしまったことで当たり前の日常が百八十度変わってしまった。

エンディング。それが彼女たちが追う物であり、それを売買しているブローカーこそが追うべき者である。

エンディングはそれ自体は高純度の薬物である。だが、それに内包されている何かが人を人ならざる者へと変化させるのだという。

それの正体を日上は知らない。悠木羽と繭の二人は知っているのだが、先ほどのようなふざけた態度とは違って本心を曝け出すことはなく、のらりくらりと焦点をずらされる様にはぐらかされるので、日上も二人から聞くのはあきらめたのである。

そうして、二人に促されながらも仕事を続けているうちに、自分の行動に満足していることに気が付いた。この街を脅かす化物を退治することに正義感を感じるのだ。

だが彼らは化物の形をしてはいるが、やはり人間だった存在なのだ。日上の中でその事実と自分の持っている感情がぶつかって葛藤することはよくあることだが、殺さなければ更なる被害が出ることは明白である。だから彼はこの事務所から離れることなく、半年を英雄ごっこに費やしてきたのである。

「―はい、できましたよ」

そう言って、両手に鍋を持って台所から日上が出てきた。

「待ってました!」

満面の笑みで日上を迎える繭。

彼女が食べれるように器とスプーンを用意した後、繭からの食べさせてコールを無視して日上は先ほどと同じ作業に入った。それを見て繭は頬をプクッと膨らませてケチと呟いたが日上は無視した。

「……大丈夫なんですかね」

十分ほど経った後、作業の手を止めて日上はふと呟いた。

「問題ないよ、風邪はだいぶ良くなった。これもヒガミンの愛のおかげだねっ!」

「それじゃなくてブローカーのことです。―あと俺の愛はそれの材料に入ってないです」

彼の作った卵入りオジヤを平らげた後、彼女は日上の質問に答えることにした。

「前回の井伊菅の件以来ブローカーの動きがないんだ。変異した人間の情報もない。もしかしたら、この街から手を引いたのかもね―」

なんでもないかのように話した繭に、日上は驚きを隠せないでいた。

「……繭さん、その状態で仕事してたんですか?」

「失敬な。私ほど仕事熱心な人物はいないぞ。風邪を引いても情報収集は欠かさずしているよ」

「……あなたに感心したのは今ので二度目ですよ」

「…………………………待って、一度目って何?」

「美人なこと」

「正直にありがと…………え、私ってそれだけしか長所なし? 他にもカリスマ性があるとか、街の人気者だとかあるでしょ?」

「この部屋から一歩も出ない人にカリスマ性があるとは思えないです。……あと街の人気者も同じく」

「が~~ん」

よほどショックだったのか、彼女は自分に掛けていた毛布を置いて床に四つん這いになった。

「…………あと、カリスマ性のある人間が常時下着姿なんてありえません……てか服着ろ」



日上が繭の看病をしている間、悠木羽は街の商店街をぶらり旅していた。クリスマスイヴということで、工業都市といえどもカップルが目立つようになる。他にも子供連れの家族などが居たには居たが、やはり視界の大半を埋めるのは一組になっている男女の群集だった。

通りの店は全て開いていて、イヴがもたらすボーナスを呼び込むのに必死になっている。ケーキ屋、宝石店、コンビニや普段は開いていない名も無き店まで赤と白の装飾をして客を呼び込もうとしている。

彼女はそういった景色を見るのは嫌いではない……むしろ好んでいるといって良いだろう。だが、先ほどから悠木羽が通るたびに声を掛けてくる軽薄そうな男性が問題なのだ。

悠木羽は顔立ちが良く、普段から身体を鍛えているためスタイルが良い。だからだろうか。先ほどから、イヴに相手がいなくてあぶられている男性から何度も声を掛けられる。いつもならばナンパされるなど滅多に無いが、生憎日が日なのでそうもいかない。真っ当な青年ならばイヴの夜は相手が欲しいのだ。

「…………くそ、これなら日上を連れてこればよかった」

五度目のナンパを撒いて、彼女は愚痴をこぼし出す。

日上が悠木羽の隣にいれば、カップルだと勘違いして声を掛けられることが無いのだが、今彼は繭に付きっきりである。悠木羽が半年彼と付き合ってわかったことは、彼が極度のお人好しだということだ。無償でこの街の人たちを助けようとしている。確かに、お金を渡してはいるが、それも微々たる物で命を賭けるには安すぎる。だから彼女は結論付けた、彼はお人好しだと―。


このままでは散歩も間々ならぬと考えた悠木羽は商店街から離れて、住宅街へと向かう。本当なら、気に入った品物があれば衝動買いするつもりだったが、周りからの視線が痛くて吐き気がするのでその予定は破棄した。

商店街を抜けると、彼女は当ても無く散歩を始めた。家々には光が灯っており、時折子供の賑やかな声が耳に入ってくる。外からでもわかる青や赤や黄色に光るクリスマスツリーの光が目に入る。

(こんな日に私は何をやっているのだろうか……)

心の中で自分の行動の無意味さを実感しながら、立ち止まることなく足を進める。冬の寒さで肌が痛くなるが、暖を求めて事務所に戻るのも億劫だった。ここから事務所までは距離があるからだ。体温を上げるために走ってみようかと考えたが、疲労が溜まるだけだと思い直して徒歩で進んでいく。

やがて、公園にたどり着いた。

そこには悠木羽が見たところ人がいない。砂場は昼間に子供が遊んだ跡であろう砂山がそのままになっていた。

そうして彼女は近くに在った自販機でホットのミルクティーを購入して、椅子に座ってミルクティーを飲み込んだ。久々の暖に心が洗われる感覚があったが、突如吹いた寒風がそれを台無しにした挙句、ミルクティーの温度を奪ったことに悠木羽は苛立った。

「……もういい、帰ろう。クリスマスイヴに散歩しようとしたのが間違いだった」

独り言を呟き、立ち上がって飲みかけのミルクティーを飲み干してゴミ籠に向かって放り捨てる。

だが、力を入れすぎて放ったために―

「あびゃ」

籠の向こう側の茂みに入ってしまった。

「…………」

放った体勢のまま硬直する悠木羽。投げた物が籠に入らなかったから放心しているわけではなく、ミルクティーが茂みに入ったと同時に、『あびゃ』という声が聞こえたことに驚いているのだ。

「……かくれんぼしたまま放っとかれたイジメラレッコでもいるのか?」

そんな彼女の浅はかな考察とは違い、出てきたのは中学生ほどの家出少女であった。


「…………で、連れて帰ってきたと―」

「うん」

その経緯を悠木羽から聞いた日上は腕を組みながら小さく唸って、

「……元いた場所に返してきなさい」

野良犬を拾ってきた息子を宥めるかのように命令する。彼はあくまでこの事務所のバイトに過ぎないのだが、半年もの間この場所の家事と呼べるものを全て行ってきたため、今ではこの場所の主でも問題ない。

「キチンと世話するから許して!!」

そんな日上に合わせるかのように、悠木羽も拾ってきた犬を置いてもらうため、許可を得ようとする子供の様に対応する。

「ちゃんと世話できないだろう!!」

「するもん!!」

「……日上が父親で、悠木羽が子供ということは…………私は母親役か」

二人が口論している横で、二人の間に入りたがろうとしている繭がいた。風邪が良くなってきて、今まで眠りについていた分、体力が有り余っているのだ。

「まあまあ、あなた。悠木羽もがんばってお世話すると言ってるんだし―」

「第一、お前がペットを飼うなんて反対だ!!」

「……私ペット扱いですか―」

三人から一歩離れた場所から日上の発言に小さく呟くように意見を出す少女。背丈は百五十前後、顔はかわいい部類に入るものである。服は所々破けたり、薄汚れていた。

「お父さんのバカ!!」

「まあまあ、もういいでしょう? 悠木羽も頑張ると言ってるんですし―」

「父に向かって馬鹿とは何だ!!」

「…………あれ? もしかして私、蚊帳の外?」

「お父さんのバカ!! バカ! バカ!」

「やっぱり無視されてる!? お願いだから私も混ぜて!!」

「みなさん?…………いつまで続けるんですか? ―これ」

その後、彼らが満足するまで少女は放って置かれた。日上と悠木羽が口論し、繭が無視されるというコントを見るのに飽きた彼女は黙ってシャワーを借りたが、別段怒られることはなかった。


「…………わかった、ちゃんと世話するんだな」

「……うん」

「ううう、最後まで無視された―」

少女がシャワーから出てきたと同時に、三人のコントは終了した。あれでも一応決着を着けたようで、とりあえず少女は事務所で過ごす権利を与えられたようである。

その後、日上が用意した夕食を食べている間に自己紹介を済ませた。繭、悠木羽、日上の順で―。

そして、「私の名前は…………リンです…………それだけです」

彼女は名前以外を教えることはなかった。出身も、年齢も、家族構成も、どうして公園にいたのかも教えることはなかった。

それは、彼女は全てを捨ててこの街に来たためである。今までの嘘の自分を捨てて、新たな自分とともにこの街で夢と暮らしていくために―。


食事が済んだ後、跡片付けを済ませた日上はエプロンを脱いで帰ろうとした。リンはすでに与えられた寝床で眠りに着いていた。どうやら長い間きちんとした場所で寝ていなかったらしく、食事が終わった後テーブルに突っ伏すように眠ってしまったのを日上が繭の寝室へ運んだ。繭は普段寝室を利用せず、睡眠も含めてこの部屋でほぼ二十四時間過ごしているので問題はない。

繭の状態もこれ以上悪化することはなさそうで、明日には全快していることだろう―そう判断して、日上は冬休みが始まる前から計画していたことを実行しようと考えた。

「―繭さん」

「ん、なに?」

掛けていたコートを羽織り、更にマフラーを首に巻いて、帰り支度が済んでから繭に話しかけた。

「明日一日休みをもらえませんか?」

「―別にかまわないけど……何か用事?」

「まあ、ちょっとプライベートなことで―」

「まさかデート!?」

「いいえ、本当なら今日誘われていたんですが、どこかの誰かの為に断る羽目になりました。―本当にプライベートなことですよ」

そう言い残して、日上は繭がいる部屋をあとにした。部屋から出ると冬の寒さが感じられるようになった。繭がいる部屋は常に暖房が稼動しており、あの生暖かい部屋で毎日を引き篭もって過ごしているのだ。夏の間は暖房をつけることがさすがになかったが、代わりに冷房や扇風機は一切活躍の場を見せることが出来なかった。繭はひどい寒がりなのだと言っていたが、それでも極端すぎた。

階段を下りて、倉庫となっている一階へと着く。ダンボールが辺りに山済みになっていて、電灯も無いものだから夜にこの場所を歩くのには注意しなければならない。この事務所に勤め始めた頃、日上はダンボールにぶつかって下敷きになって、一晩動けないままここで過ごしたことがある。朝になって悠木羽と繭が見つけてくれた時は二人が天使に見えたのだが、面白いという理由で更に二・三時間放っとかれたのだ。それを教訓として受け取った日上は、二度とあのようなことは無いように掌に収まるサイズの懐中電灯を持ち歩くことにした。

コートのポケットに入れていたそれを取り出して、出口へと進む。散らばり積まれているダンボールが一階を迷路のように構築していて、一階を一周する形でなければ出口にはたどり着けないのだ。例えるのならば、学生が文化祭で作ったお化け屋敷のようになっている。

日上は少し突けば崩れそうで実は以外に頑強なダンボールの山の迷路を進んでいく。半年も通い続ければさすがに慣れるようで、迷うことなく迷路の半分を過ぎた。

すると、

「―待て、日上」

事務所として活用している二階に悠木羽がいなかったことに気が付き……そして、今声を掛けてきたのが彼女だと判断して返事を返した。

「……なんだよ、何か用か?」

悠木羽は山積みにされているダンボールの上に腰掛けて、彼を見下ろす位置にいた。懐中電灯で照らすと、彼女の最も特徴的な熔岩の様な赤色の髪を見て温かみを日上は感じる。保護色というものだろうか……それとも周りの暗闇が怖かったために、彼女が現れたことで安心したのか――。

彼女はどうやら食事が済んだ後から、ずっとこの場所で待っていたようで、寒さで肩が震えていて顔も少し赤くなっている。

「おまえ……………………来るの遅い」

ダンボールの山から飛び降りて日上の前に立った悠木羽から出た一言は自分勝手な意見だった。別段、今から二人でイヴを満喫しよう、という予定を組んでいたわけではない。遅いと言われても、彼がここで彼女に攻め立てる言われはないのだが――

「……ん、すまん」

半年も仕事を共にすると、彼女がどういった反応をするかを理解している彼は反感を買うような行動には出たくないのである。だから頭の中で今も回り続けている反論の言葉を飲み込んで消化する。

「―で、用件は? 早めに済ませてくれ。長い間繭さんの看病をしていた所為か疲れてるんだ」

そう言って肩を回す日上。実際体の節々が悲鳴を上げているかのように痛む。

そんな彼を一瞥して、悠木羽は言われたとおり率直に意見を述べる。

「……必要以上にエンディングに深入りするなッ―」

「!?」

今彼女が言った物が、この街を半年の間に大きく変貌させた物の正体である。

内容は服用に伴う高揚と変異。それは従来のドラッグにあるものを内在している新型の薬物で、個人差はあるが一定以上で身体を変質させる代物。

それを追って悠木羽と繭はこの街に来た。そして彼の人生を大きく変えた。

「井伊菅の研究所から持ってきた資料を寄越してもらおうか」

前回の事件の際、日上は研究資料の一部を拝借した。どういった方法でそれを知ったのかはわからないが、彼女は彼が真意に近づく何かを持っていると確信している。

言葉の後、悠木羽は日上に向かって手を出してくる。渡せということだろう。

「……嫌だね、取れるものなら取ってみろよ」

「…………………………」

彼女の目に殺意と呼んでもおかしくないものが映る。今まで彼はその目を何度も何度も見てきたが、それが自分に向かうことは一度もなかった。問題が生じて近いものを向けられることはあったが、それとは比べ物にならないほどの迫力があった。所詮女だと頭でわかっていても、日上の足が震えていた。

「おまえが…………お前たちが何も教えようとしないから、自分で調べるだけだ」

日上は声が震えなくて良かったと思った。もしも、そんなことになれば簡単に主導権を握られてしまうからだ。

「―近衛のことを調べるつもりか?」

「……やっぱ何か絡んでるのかよ」

自分の母親の実名を出されても、別段驚く様子を見せなかった。

資料に目を通して、母がどういった人物かは理解していた。オリノベという製薬会社をネットなどで調べても得られるものはなかったが、日上の母である近衛氏は別だ。調べれば調べるほど、どれほど凄い人物かがわかってきた。

「お前……母さんを知ってるのか?」

彼女が実母のことを名前で呼んだことで、純粋な疑問を投げかけた。

「…………少しだけ――」

「その少しを教えろよ」

「…………無理だ」

「どうして!?」

「繭に止められてるんだ」

そこで名前が出てきたことで、改めて日上は繭のことがわからなくなってきた。普段の生活から見ればただのプータロにしか見えないのだが、こういった事が起きる毎に彼女に対する見方が変わってくる。直視しては見れないからと、疑惑のフィルター越しに見なくてはいけなくなる。

(やっぱり一筋縄じゃいかないか)

頭の中でこの半年間反芻し続けた解釈を同じように述べる。

「繭は……いつか教えるつもりだ」

「いつかって……いつだよ。よぼよぼの爺さんになってからじゃ遅いぞ」

「そんなにも懸からない。この事件が終われば……教えると思う」

「どうしてそんなことがわかるんだよ」

「…………言えない」

「もういいよ」

最後はそう締めくくって、日上は事務所の出口に向かおうとする。これ以上問い詰めても、またいつもの様に何も収穫無しで流されるだけだと結論付けた。

「待て」

悠木羽を横切って、彼女に背を向けて少し歩いたところで彼女に声を掛けられる。

「…………なんだよ」

ぶっきらぼうに答える。もう悠木羽とは話したくはなかったが、無視するのも嫌だったので一応答える。

「…………これ」

そう言って、悠木羽はポケットに入っていた物をズィッと日上の胸に押し付けるように渡す。

日上は何も考えずそれを両手で受け取って、まずそれがなんなのかを考える。綺麗に包装された箱だ。

「……何これ?」

「プレゼント」

「…………はぁ?」

「……今日、イヴだし―」

それだけ言って、彼女は階段に向かって走っていってしまった。

残された日上は礼を言いそびれてしまったことを気にして一度事務所に戻って礼を述べたところ、悠木羽に殴られた挙句、繭に笑いものにされた。



翌日の午後が過ぎた頃、日上は電車に乗り込んだ。なぜかわからないが、また学生服を着たまま―。

年末の午後ということで、乗り込む電車には学生と思われる年齢の子供がちらほら居た。皆、年の最後だから羽目を外して遊ぶつもりだろう。時折見知った顔を見かけるが眠気が勝り、無視をして眠りにつく。

年末を遊びほうけて浮かれる者達と違い、憂鬱な気持ちで日上は実家へと向かっている。

母のことを聞こうと、父に会いに行くことにしたのだが、それが思ったよりも困難な課題なのだ。

彼の実家は日上が住むマンションの最寄り駅から六つ隣の駅の近くにある。電車で三十分も揺られていれば到着する距離だが、長い間訪問することは躊躇われた。日上は問題がないのだが、向こうが急な訪問を嫌うのだ。前もって連絡していなければ敷居を跨げない。別に高貴な家系でもなく、日上以外の親族の訪問も快く歓迎するのだが、日上は例外なのである。

理由もなく彼の父親は日上のことを嫌悪して、そして彼の長男、つまり日上の兄も日上のことを訝しい存在として捉えている。兄の場合は、父の影響を受けて日上のことを嫌うようになったのだが、今回はそんなことはどうでもいい。

昨夜、日上が今の住居であるマンションに戻った後、電話をして明日顔を出すと伝えた時の父の声も決して良いものではなかったのだ。

中学までそんな家族と過ごした日上は、終に我慢ができなくなって一人暮らしをすることを家族に報告した。もしかしたら止めてくれるかもしれないと、一縷の希望を持ってはいたが、結局無駄であり、笑って見送られることもなく家を出たのだが――

(兄貴にはあんなに優しいのになぁ……)

電車の中で家族との記憶を思い出して、良かった記憶がひとつも無かったことに溜息をついて感想を中断した頃に、電車が目的の駅に到着した。

彼の実家は瀬切市の隣町にあたり、周りを見ても工場が見えることはなく、代わりに住宅や自然公園などが建てられていて、子供が走る光景があまりに自然に見える場所だ。

駅の改札を出て、空気を吸い込むと新鮮な匂いが身体の中に入ってくるのだが、排気ガスに慣れてしまった日上にとっては逆に違和感があるものだった。まるで別世界のようで、今まで死人の世界にいた自分が、何かの間違いで現世に連れてこられた感覚である。瀬切市に住む人たちがこの街に住む人たちよりも劣っているわけではないのだが、そう形容するのが正しく思えるほどの差異がある。建物は白色のものが多く、おそらく新築が多いのだろうと思われる。対して瀬切市では新築の家は排気ガスによって、すぐに周りの建物と同じく錆が付いて変色する。風景を比較するだけでも、評価に大きく差ができるであろう。

実家に向かえば向かうほど、今から久しぶりに再会する父の顔を思い浮かべては気を悪くしていく。彼は白状すると、実家に戻りたくはない。それもそうだろう。何が楽しくて自分を嫌う人物のいる場所へ向かわなければならないのか。だが今回はそうするだけの理由をもって帰省を決意したのだ。母の詳細を知っているであろう父に話を聞かなくては気が治まらぬし、昨夜の悠木羽に公言した自分に申し訳が立たない。

そうして気持ちを落ち着かせた後、日上は実家のインターホンを押した。



一方、これは日上が実父から母の近衛のことを聞いている間に起きたことである。

「……私の前から消えろ」

悠木羽は愛用のナイフを手に持って目の前にいる人物に向けていた。その目には恐怖と不安、彼女に似つかわしくないものがあった。

そんな悠木羽を余所目に、悠木羽が昨日連れて帰ってきた少女リンは目を輝かせている。彼女が今まで見てきた常識を凌駕した存在を、彼女が待ち望んだ者を見たからだ。


「今日はヒガミンこないんだよぉ~」

「だったら昼真から下着姿でいようとするな―」

日上がいない事務所には生温い空気が流れていた。いつもどおり繭は下着姿でいるが、見せる人物がいなくて張り合いがないのか床を転がって机の足に頭をぶつけている。悠木羽は日上がいてもいなくても景色を見るだけなのだが、イマイチ気が抜けている様子で時折ため息をついている。

「…………一人淋しく夫の帰りを待つ妻の心境?」

「なんか言ったかド痴女?」

繭が悪気百パーセントを交えた笑顔で悠木羽に問いかけ、それを怒気百パーセントで悠木羽は反応する。

そんな悠木羽が怖かったのか、繭は彼女から視線を逸らして何事も無かったかのように呟く。

「…………はあぁぁ、ヒガミンがいないとホントに暇だ。イジメル相手がいなくて困る」

日上は気づいていないが、この二人はお互い話をしようとしない。そもそも日上と繭、日上と悠木羽の二人でしか世間話をすることがない。日上がいることでこの事務所に笑い話が開くのであって、この二人だけでは沈黙が起きるだけなのだ。

そうして悠木羽との会話を打ち切った繭は、時折パソコンの前に座り、少し目を通した後に再び寝転びだす。そんな怠惰時間を過ごしていた。

パソコンの電源を切り、今度はテレビでも見ようかと考えたのか。繭はソファに寝転がってリモコンを探し、仰向けに寝転ぶ自分の背中に妙な感触がありそれがリモコンだと気づいてそれを取り出してテレビをつける。

「………………」

電源が点いたテレビではニュースが流れていた。

『遂に十六人目の被害者が!! 全国をさ迷い歩く強姦殺人の顔!!?』

それを見た繭は彼女には珍しく顔を顰めていた。彼女は外界との交流を電子世界を経由する以外の方法は絶っており、そんな彼女が世間の一事件に僅かでも興味を持つことはまず無いと日上は考えているが、今の彼女は日上の中にいる繭という女性と違う反応をしている。

「十六人って…………やりすぎでしょう」


「あッ、夕飯どうしよう?」

夕方になって、繭が唐突にバイトが不在の際に発生する目先の問題を提示する。何しろ彼女は料理がまったく出来ないと広言しているほどだ。

一方、悠木羽は気だるそうに目線を繭に合わせた後、

「出前を頼めば良いじゃないか。別に驚くことでもないだろう」

何でもないかのように答える。日上が居ないからと言って彼女が料理をするわけでもないのだ。

「それがそうもいかない。ここがどういった街か忘れたのか?」

「? 瀬切市だろ………………ああ、周りに出前を頼める店が無いのか」

「そういうことだ。しかも最寄のコンビニまで歩いて十数分は掛かるぞ」

「…………今日一日ぐらい我慢――」

「しない。空腹で私が死んでもいいのか?」

「……………………仕方ない。荷物持ちにリンも連れて行くぞ。一宿一飯の礼を今返してもらおう」

そうして、悠木羽は彼女を連れて工場通りの先にあるコンビニへと向かった。上の繭の寝室で眠っていたリンは別段気が乗らぬ様子を見せることなく、言われたことに素直に肯いて荷物持ちを請負った。


夕日の薄いオレンジ色の光が街を覆う頃、二人は工場通りを歩いている。

悠木羽から喋る事はなかったが、リンは悠木羽に昨夜聞けなかったことを質問していた。

「……どうして助けてくれたんですか?」

リンは極めて声を抑えて話しかけた。どうしてかわからないが、彼女は悠木羽に対して低姿勢でいた。

「別に……面白そうだったから…………かな―」

そんなリンに対して悠木羽は興味なさげに答えるだけだった。彼女はあくまで気まぐれに彼女を受け入れたに過ぎない。悠木羽の行動は何もかも気まぐれによるものだ。

「だからあまり恩を感じたりするなよ……逆に迷惑だからな。今日の荷物持ちでチャラで良いだろう」

そう言って、その後はお互いにだんまりと沈黙して、工場通りを抜けた。

悠木羽は着いたコンビニで適当に三つの弁当と切らしていたインスタントコーヒーを買い。リンはその間ボーッとガラス越しに行きかう人間を観察しているように視線を動かしていた。

外を出るといつの間にか辺りは暗闇に覆われていて、昨日と同じく赤と白の装飾がより一層目立つような時間になった。

役目を終えた悠木羽は荷物をリンに持たせて事務所へと戻ろうとするが―

「あれぇ? 君、昨日の子だよね?」

悠木羽に向けられたその言葉に初め彼女は気が付かずに帰路へと向かおうとしていたが、悠木羽に話しかけた男は彼女の前へ立ちふさがるように前へ出て、俯いていた悠木羽の顔を覗き見たことで彼女は状況を理解した。

悠木羽は記憶力が優れているわけではなく、その男の顔など微塵も記憶になかったが、男の今の言葉から推理した結果だ。

(……昨日私に声を掛けてきた男の一人か―)

昨日悠木羽に声を掛けた男性は数が知れない。目の前にいる男の記憶だけを特別に記憶するほど、彼は特徴的な存在ではない。どこにでもいる、今のこの時間の快楽を求める青年だ。

「ねぇ、昨日は用事があったらしいけど、今日はいけるよね? 今から遊ばない?」

「なぁミノッチ! 見てみろよ、こっちの子もえらく可愛いぜ」

どうやら二人組のようで、目の前の男をミノッチと呼んだ男はリンのほうに絡んでいる。

「じゃあさ、彼女も一緒に遊ぼうよ。嫌なんて言わせないよ? 後から気づいたんだけど、昨日見逃して後悔したんだよ。従順だろ? だからさ、あ・そ・ぼ?」

悠木羽はリンのほうに視線を向けた。彼女は嫌がっている様子はなく、かと言って言われたとおりついて行くつもりも無いようで、まるで羽虫を疎ましいと感じるような顔をしている。そんな視線を向けられている男たちは彼女の視線などお構いなく話を進めていく。やれどこのカラオケ行くだの、それとも早速ホテル行くだの自分たちだけで話を進めているようだ。

そんな三人をそれぞれ一瞥した後、悠木羽はこの場を円満に収めるために彼らと話を始めようとした。

「あ~、すまないけど。きみたち―」

「どうして………………この街にもこんな下らない奴がいるんですか?」

うまく誘いを断ろうと思案していた悠木羽を無視して、リンが割り込むかのように言葉を放った。

それを聞いて、二人の男の視線は言葉の元であるリンへと向けられた。明らかに侮辱の言葉であったが、頭の回転が悪いのか未だ意味を理解していないようで、呆けた顔でリンを凝視していた。

「どうして…………こんな自分たちの性欲を処理することしか考えられない人達がここにも居るんですか? 私は今までも貴方たちと同じ人達を見てきました。だけど、ここには私の望む物があるはずでしょう!? 夢があると思ってここに来たのに……どうしてこんな…………面白味のない……」

そう言って、リンは顔を手で覆って地面に膝を付いてしまった。どうやら泣いているようで、啜る音が聞こえてきた。

悠木羽はリンの言葉の意味を理解しようとしていたが、どう考えてもわからず、それを後へと回して男たちの行動に視線を向けることにした。

「ねえ、俺バカにされてる?」

「お前だけじゃないよ、二人ともバカにされてんだと思うよ」

「じゃあ怒って良いよね?」

「ああ、怒って良いと思うよ。俺もムカついたし―」

そうして再び自分たちだけで会話を終了させ、リンを殴ろうとしているようでマズイと判断した悠木羽が二人を止めに入る。

「ちょっと待ってくれ彼女は―」

「うるせえ!! てめえ黙ってろ!!」

「ッぐ!!」

仲裁に入ろうとした悠木羽をミノッチではない男が跳ね飛ばす。その拍子にコンビニのゴミ籠に悠木羽が頭をぶつけたが、それに目を向けることなく二人は泣きじゃくるリンの前へと近づいていく。

「ちょっと、いくらなんでも今のは無いんじゃない?…………なんて言ったっけ?…………まあいいや。悪口はないんじゃない?」

男達が目の前まで近づいてきても彼女は泣き止むことなく、先ほどと同じように嗚咽を漏らしている。

そんな彼女を見て、反応がなかったことで無視されたと彼らは思い込んだのか、彼女に向ける視線に怒気を更に重ねた。

「ねえ、聞いてる? 俺たちがさ、話しかけてんだよ? 無視? 沈黙? 馬耳豆腐?……あれ、合ってたっけ?………………まあいいや。」

今度は自己完結で済ませて、言葉でなく行動で自分たちの憤怒を表現するつもりのようで、

「…………ねえ、これ、見える?」

ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、その刃を彼女に向けた。そもそも、リンは先ほどから手で顔を覆っているので彼の持っているナイフが見えるわけがないのだが、相も変わらず自分達だけで話を進めていこうとする。

「見えたよね? 怖いよね? だったらね? 誤ってほしいんだ?……あれ違うか?」

彼は尚も泣きじゃくるリンにナイフを向ける。常識をある程度持っている人ならば、リンの言動を訝しく思い彼女を無視してどこかへ行く等してこの場は収まるはずだが、如何せん彼はそうではない男性なので未だ混乱は続く。

「もういいだろう、そろそろ許してやってくれ…………というより、今すぐ消えてくれ」

それを収めたのは悠木羽だった。頭をぶつけた後、しばらく目の前が真っ白になったが、どうにか意識を取り戻して視線を三人に向けると、リンに刃物を向けている彼を見た彼女は立ち上がりながらそう言った。あくまで中傷の言葉を吐いたのはリンだが、それよりも男のくせに女の子に刃物を向けている彼に憤りを感じた。

「……ねえ…………君何やってんの? 血が出てるよ?」

そうして彼女は男が持っていた折りたたみ式ナイフを右手で握っていた。血がナイフの先に滴り、コンクリートの地面に水滴となって落ちるが、彼女は痛覚を感じていないかの様に尚も握る力を強める。男に肉が食い込む感触が伝わり彼は慌ててナイフを手放すが、それでも彼女は男を睨みながらナイフの刃を握り続ける。

これはあくまで彼らをここから離れさせるための威嚇行動だった。彼らに呆れながらも怒りを感じた彼女だが、それでも暴力で言うことを聞かせるのは躊躇われた。だから彼らにも分かりやすいように脅しを掛けたのだ。

そしてそれはどうやら悠木羽の思惑通りに働いてくれたようで、彼らは彼女に視線を外すことが出来ず、それでも身体は彼女から離れようとしているようですり足で少しずつ離れている。

「何?…………化け物?」

男の顔には明らかに恐怖が浮かんでいる。彼が今まで関わってきた女性には彼女のようにナイフを握り潰す者などいなかったからだ。悠木羽の握力で握りつぶされたナイフが彼女の血によって真っ赤に染められていた地面に落ちていく。泣き崩れていたリンすらも、その光景を見て驚いていたほどその光景は圧巻だった。

彼の反応を見た悠木羽は、今まで思っていたことを口にする。

「なあ……さっきから思っていたんだけど、お前って疑問系でしか話さないのか?」

その言葉が届いたのかわからないまま、二人の男は走り去って行った。


二人の男が走り去った後、悠木羽は右手の切り傷から刺さったナイフの欠片を一本一本丁寧に抜いていった。先にリンに話しかけようとしたが、右手の痛みが尋常なものではなかったのでそちらを優先して、彼らが見えなくなってから小さな呻き声を上げつつ右手にえぐり込まれた薄く鋭い鉄片を抜いていった。

「……ッつ! くそ、馬鹿なことをした。何も握り潰すまで力を入れなくてもよかったのに……」

最後の欠片を抜き終わり、血まみれの掌をズボンに擦り付けた。擦り付けた箇所に血がべっとりと付いてしまったが、日上が帰ってきてから洗い落としてもらえばいいだろうと考えて、血を拭った掌を再び見る。そこには切り傷などは一切見当たらず、傍から見れば手にこびり付いている血が彼女のものだとは思えない。だが今あったことは幻覚でもなければ夢でもない。これが彼女なのだ。不死であるが故に多少の傷ならば瞬時に血を塞ぎ、細胞と細胞の間の空間を埋めて再生する。深手を負ったとしても一分も放っておけば完治する。誰も彼女を殺すことができず、傷つけても無為と化す。そして殺し合いになれば人間の限界を超えた運動能力を併せ持ち、自らの損害も考えず猛進する。彼女はそうして、今までEDによって異型と化した人間相手に敗北せず生きてきた。

だがそれと同時に色々なものを失ってきた。

そして今度も失ったのだと、彼女は思った。

目の前でこちらを呆然と見ているリンを見返して、そう考えた。今までも友と呼べる存在は作ってきたが、誰も彼女のこの力を受け入れることは出来ない。目を逸らし、避けるように遠ざかっていく。或いは警察に通報され、余計な面倒をかけられたこともある。

だから今回もここまでだと、溜息を吐いてリンから背を向けた。ここで放っていくのは悪いと考えたが、だからといって一緒に事務所に戻れるはずがない。

地面に落としていた弁当の入ったレジ袋を手に取り、事務所へと戻ろうとした。

だが、リンは悠木羽の想像しなかった……そして経験したことがない行動に出た。

「…つけた―」

「?」

リンの言葉に振り向いた悠木羽は彼女の目を見たとき、ある気持ちが込みあがった。

「見つけた……私の夢―」

好奇と歓喜の混じった目、まるで子供が玩具を貰った時のような、純粋でしかない目が悠木羽を見つめた。

その後のことを悠木羽はよく覚えていない。彼女と何を話したか、何があって自分は一人で事務所に戻ってきたのか。

ただ、弁当を忘れてきた代わりに、自分が料理をする羽目になったことに悠木羽は心底後悔した。



日上が父と久しぶりの再会を果たしたのはもうすぐ日が落ちるかどうかの時間帯だった。本来ならば三時間ほど前に実家に着いていたはずなのだが、インターホンを押しても一向に反応が返ってこなかったため、近くのコンビニで時間を潰して一時間毎に訪問したところ、どうやら居留守をしていたようで、玄関から怪訝な顔で日上と出くわした兄がいた。

日上の兄は初めは躊躇していたが、諦めた様子で日上を実家へと入れた。

日上の家はこの辺りでも広い敷地を持つ住宅だった。最近リフォームしたとかで、更に増築したらしいレンガ造りの建物である。

どこからそんな金が出てくるんだと尋ねたが、兄はあくまで無言を通して日上を父のいる書斎へと招いた。

「なんだ……きたのか」

長い間会っていなくても、父は日上がここを出た日と同じ態度だった。不遜で、常にこちらを見下した態度。そして何より、日上に対する畏怖を必死になって隠そうとしている。どんな理由があって彼を恐れているかはわからないが、日上は物心ついた頃から父からそんな目を向けられていた。それが感染したかのように、今は外へと出かけた兄も日上に対して嫌な感情をぶつけてくる。父とは違い明確な理由が無いためか、兄は日上を恐れているわけではない。ただ父を真似て嫌悪しているようなものだと考えられる。

「来るって昨日電話しただろう」

「時間通りになっても来ないから、もう来ないものだと考えていたんだ」

「時間通りに来たさ。呼んでも反応がなかったから時間をずらして来ただけだ―」

「……おかしいな。インターホンが壊れていたのか?」

「………………リフォームしたばかりなのにな」

「本当だな」

明らかに嘘をついていた。日上はインターホンを鳴らした後、電話を掛けても反応が一向になかったのだ。居留守を使って無視しようと考えていたとしか思えなかった。

「…………なぁ」

「なんだ?」

「なんでそんなに俺が怖いんだ?」

日上は今まで何度も聞いてきた質問を伝える。

「…………怖がってなどいない」

対して彼の父は今までと同じ答えを返してくる。一言一句、この質問にはまったく同じ答えが返ってくる。机の上に乗せていた拳を強く握り締め、目を細めて自分の息子を睨みつけて言い放つ。

日上はここから先を追求したことはなかった。いつも、『あ、そう』の二言返事で父に対する疑問を諦める。別に父を恐れているわけではない。問い詰めていらない傷を負うのも気が知れたからだ。触らぬ神に祟り無し、世間から逸脱している事をある程度理解している日上でも、見て見ぬフリという世間一般の所業を行うことがある。

「まあいいや。……今日は母さんのことを聞きたかったんだ。俺に早く帰って欲しいのなら手短に説明してくれ」

それでも件の話に関しては引くつもりはなく、神に祟られようが悠木羽に殴られようが知らなければいけないと、自分の中で勝手に結論付けていた。

「電話で話しただろう。ただのイカレタ女だ」

そんな日上の心中を知ってか知らずか、彼の父は率直に答えた。仮にも妻であった故人を、まるで他人事の様に、一度会った友人の友人を紹介する様に話す。

「……どういった事をしてたのか聞きたいんだよ」

日上は井伊菅の集めた資料で大方のことを知っていた。ある製薬会社の研究員だったこと、その会社がおそらく今回のドラッグ――EDに関係していること。だが彼はそこに載っていた情報以上のものを手に入れることは出来なかった。日上は特別な情報網もなく、ネットなどもハッキングなんて神業ができるわけがない。種から根を張り巡らして情報を供給する方法を持ち合わせていない彼は直接的な行動に出た。母を知る人物に聞き出すという方法を―。

「篠峰の二人に関わったんだろう。だったらもう知っているものだと思っていたがな―」

「……知ってんのかよ」

「聞く限りではお前よりはな……母さんは、本当にイカレタ女だったよ」

「それはさっきも昨日も聞いたよ」

「……それに、お前も狂ってる」

「………………」

突然放たれた父の言葉に、日上は顔色を変えることはなかったが、代わりに視線に変化が生じた。それは敵意を帯びた目。今までは浅い記憶しかない母を本心から中傷されていたが、その先が自分に向けられたことがわかるや否や態度が変わった。

「唐突にそんなことを言われても困るんだけど―。確かにある程度常識から外れてるのは知ってるけど、あんたに直接言われるとイラつくな」

「お前の学校での素行の悪さならば知っている。そんなものまだ可愛いものだ」

「じゃあどういった理由で嫌われてんの俺……?」

「お前が母さんに……あの女に似ているからだ」

それを聞いて、日上は反応に困ってしまった。先ほどの高揚感が一気に冷めて、目の前にいる男が自分を見ていないことに気が付いた。まるで自分の後ろにいる誰かを見ているという表現があるが、まさにその通り、父の焦点は定まらないまま目だけは日上に向けている。

「……ッはは、俺って母さんにそんな似てるの? 俺、そんなにあんたが嫌ってる女の記憶があまりないからわかんないんだけど―」

「お前は必ず俺に迷惑だけかけてあの女みたいに消えるんだ。そんなの二度とごめんだ……いったい俺がどれだけ気苦労をしていると思っているんだ。毎日毎日予定の通りに行動して、必要以上の交友も許されず……」

日上を無視して、父は自分だけで話を進めていく。

それは日上が聞きたかったことなのかはわからない。

そのために日上は少し声を張り上げながら父に向かって注意する。

「いったい母さんは何をしたんだよ!? それだけでいいから教えてくれ!!」

「…………あの女はな……化物どもを世に放ったんだよ!! お前が関わっている篠峰の二人のような化物どもに自由をくれてやるために、家族の平穏も考えずに馬鹿な行動をしたんだよ!!」

「!?」

「お前もどうせあいつと同じだ…………問題だけ残して、死ぬんだ。もうやめてくれ、もう二度と俺たちの前に現れないでくれ……頼むから―」

「………………」

その後、日上は黙って父の書斎から出て行った。扉を閉めて耳を澄ますと、すすり泣く声が扉越しに聞こえた。

(………………そんなに母さんに似てるのか俺?)

そんなことを考えながら日上は実家を後にした。

二度と帰らないことに哀愁を感じたが、駅に着く頃には忘れていた。

そして彼は自分の街へと帰ることにした。

生者の世界から死者の世界へと向かう。

あの街特有の景色、長い煙突が連なっている風景を見て安心感を感じたことで、ここが自分の居場所なのだと改めて理解した。



また自分は一人になった。

ようやく夢を掴んだと喜んでも、その夢に完全に拒絶されてしまった。

「……どうして…………?」

どうして自分は受け入れてもらえなかったのだろう? なにがいけなかった? 駄目なのはどうして?

「………………そっか―」

それは自分がその位置にいないからだ。天才は凡人の考えが理解できないように、彼女のような存在は自分には計り知れない苦悩があるんだ。それをわからず触れたから拒絶されたのだ。

「特別になりたい……」

街を歩きながら呟く、何度も何度も呟いては足を進めていく。

すでに街には夜が来て、光は街灯のみ。寒さのためか時間のためか、まるで誰とも擦れ違わない。

それが良いと考えた。異端者である自分はこの街に居てはいけなかったのだ。これ以上恥は掻きたくない。

この街から出て行くことを決めた。お金がなくて家に戻ることは出来ないが、ともかくこの場所から出て行きたかった。自分には夢は叶えられないという事実をこれ以上直視したくない。

そうして、まっすぐ当てもなく大通りを歩いていった。

「……特別になりたいか?」

「…………え?」

彼女の前に男が現れた。

男は白衣を身に纏い、細長い体躯が特徴的だった。

「……特別に成れるの?」

リンの擦れた声での問いを、彼は聞き逃さずに肯定する。

「……………………ああ」

僅かの躊躇いをしながらも、彼女にある透明の袋を手渡した。その中には青い錠剤が入っていた。

「これを一日一錠ずつ呑め。そうすれば君の望み通りになれる」

そう言って、後ろにいたもう一人の男に手招きをしてこちらへと呼び寄せる。

「……加賀沢君。こっちへ―」

そう呼ばれた男は紛れもなく加賀沢 真であった。

金色の髪が夜の中でも輝いており、まるでそれ自体が光彩を放つかのように―。

「………………はい」

返事をした加賀沢が白衣の男の前まで来ると、男はリンに彼を紹介した。

「薬がなくなったらこの男を捜したまえ。きっと楽にしてくれる」

男は伝えるべきことは全て伝えたとでもばかりに、白衣をはためかせてリンに背を向けて暗闇の中へと消えていった。

その後、リンはまるで加賀沢を食い入るように見つめ続けた。彼の姿を目に焼き付けるかのように瞬きもせずに見つめていた。

「あなたは……天使様?」

それを聞いた加賀沢は小さく舌を打って、こう返す。

「あいつが神に見えたなら、そう認識してもいい。だけど、絶対に俺をその名で呼ぶな……胸糞悪い」

加賀沢もまた、言いたいことだけ言って姿を眩ませた。

残された彼女は言われたとおり今日の一錠を口の中に放り込んだ。

「……あ………は…ハハハハハハハっ!!」

激痛を伴った初めての開放感に、悲鳴の代わりに声を上げて歓喜した。



end



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