一章
去年に書いた長編です。
処女作ですので色々問題点は浮上してくると思いますが、そこは見て見ぬフリをしながらもびしっと言ってください。
矛盾してますねこれ。
プロローグ
客観的に考えれば、今回この街で起きたことは私情の縺れでしかなかったのだと、答えを出せる。
一人の男と一人の女の間の私情の縺れ。
男は彼女を愛し、彼女も彼を愛していた。
だが、彼らのお互いが持つ愛の概念が違っていたためにこの物語は始まった。
男は永遠を望み、女は最後を望んでいた。
その思想の差異が街に変化を呼び、やがて人々にまで伝染していった。
そうして、最後には女のエゴが勝利して、この街には後腐れのようなものは無くなった。
―そうだ。これは昼に放送している違和感が漂うドラマと同じだ。
最後には二人仲良く天国へ行きましたという、ご都合主義万歳の三流ドラマだった。
第一章
瀬切第二高校の一室での出来事。
「だからさ、必要なのはエロスだと思うのよ」
「へえ~、そう―」
授業が終わって昼休みとなり、いつもここでとある事業をしている日上は気ダルそうに隣にいる親友の加賀沢 真の自論を聞き流す。
「あの数学教師に必要なのはエロス!! そう、それこそが男子学生たちに勉学への興味を引き立たせ、学績アップのための秘策だと思わないか!? ていうかぶっちゃけ、この学校の教師を20代の女性教師に統一するべきだ!! 全員ミニスカの下にストッキングを着用し大人の魅力というべきものを最大限に生かしつつ稀にチラリポロリもありの秘密の授業がありーの『え? いけませんよ先生! 俺とあなたは教師と学生の関係で―』『その前に、あなたは男で、私は女よ。ここまで見せたんだから責任とってくれるよね?』『はい、もちろんです! うっほほ~い』……ということがあってもおかしくはないだろう!!」
髪を教師受けし難い金色に染め、普段の生活からは想像できないスポーツマンの体格である彼の親友は自分の世界に浸りつつも語る。
「……はい、まいど。う~ん、この子のは人気だからね、セットなら二割引きで売るよ。……はいまいど」
一方、その金髪親友から話しかけられた、隣に座っている優等生調の少年は自らの事業に専念する。これが彼の小遣い稼ぎだからだ。三駅隣の実家からの送金は学費と生活費のみ、それ以外はこうして自分で稼ぐしかないのだ。だから無断で借りているこの音楽室で盗撮写真を売りさばいていたりする。
「お~い、俺の発言を真剣と書きマジと読んで無視しない」
「……それを言うなら本気と書いてマジと読むだろ?」
写真を買いに来たお客にお釣りを渡しながら隣の間違いを指摘する。
加賀沢はこの学校に来て2年の間、このペースを一切崩さずに走り続けている。よく体力が保つな、というのが日上の感想だ。
そして、その彼の言動に高校に入学してから一日も欠かさずに冷たいツッコミを入れるのが彼、谷田貝 日上である。不統一に切られた髪に、黒縁の細長メガネをかけた、顔だけ好青年の少年である。
「ついでに言うと、体育教師はブルマを着用!!」
「なぜお前のために体育教師が今じゃブルセラショップやコスプレ関係の店でしか買えないような着衣を探さなくちゃいけないんだ」
「保険の先生と校医はナース服!!―」
「今は看護士って言って、お前の望むピンク色のナース服を着ている看護婦は撲滅されたぞ」
「そして―」
加賀沢が右手の握りこぶしに力を込め、
「理系の先生はミニスカの上に白衣だああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
その右手を頭上高くへと振り上げた。まるでそれは男子高校生を率いてノット青春という地獄を脱出するモーゼのように。
「二行も使って叫ぶことじゃないよな、うん。……ああ、無視していいよ。こいつ馬鹿だから」
先ほどから写真の売買に勤しんでいる日上の隣で、右腕を天に向けながら顔だけをこちらに向けて話しかけてくる加賀沢。
「馬鹿って言うなよ、今買っていったの一年だぞ。変な噂が流れたらどうする」
「安心しろ、とっくに流れてる……俺とセットでな」
「……どんな感じで?」
「百人にアンケートして、この学校で関わってはいけない人物一位と二位」
「どっちが一位だ? もしも俺だったらそのランキングをした学生をミンチにしてくる」
「おめでとう、百人切りができるチャンスだよ。……おや、ここには始めてかい? こいつは気にしなくていいよ。最も関わってはいけない人物だから」
日上は今音楽室に入ってきた新しい顧客の相手に乗り出した。
「予算はどのくらいだい? ……ふむ、その金額ならいい子がいるよ。……ん? この子が良いのかい? でも、この予算じゃ少し足りないね。……わかった、初回サービスで三割引してあげるよ。これなら予算内だ。……いやいや、礼には及ばないよ。今後ともご贔屓に―」
新たな客との接客に手ごたえがあったのか、ご満悦で帰ってくる日上。
「馬鹿なやつ。そもそもの原価が値の千分の一ぐらいなのに、得した気になって帰っていきやがった。カモだねありゃ」
手に持った数枚の千円札を扇形にしてヒラヒラと自分を仰ぎながら、口元を吊り上げた歪んだ笑顔で加賀沢の隣に座る。
「そう言ってやんなよ。うちの学校の教師の監視が鋭いこの学校で、少しでも犯罪に走りたがる少年の気持ちも汲んでやりゃな。……ていうか、それを手に入れるまでの労働費が高いだろ。それぐらい貰わなきゃ商売にならん。俺が何のために女子更衣室のロッカーに潜り込んだと思ってる」
金髪という目立つ髪の色の親友が日上を宥めつつも、自分の功績を自慢げに話す。決して誇れるものではない。
「そうだよな、俺も普段ズル休みしている女子に変装して、女子の水泳の授業に潜り込んだんだしな―」
「お前、そんな方法で水着写真を手に入れたのか!?」
「知らなかった? 俺って女装しても違和感無いんだぜ」
日上は辺りを見回して、商売の妨げにならないように注意した後、この音楽室に彼ら二人以外誰もいないことを確認して親友に言い放つ。
「―ほら、試しに写真にとったやつがそこに置いてあるよ」
そう言って日上は値札と共に、床に統一的に置かれている写真の一枚を指差した。
ミニスカートを履いているのに体育座りをして、白い太ももがまぶしく、チラリと見える白い布がいじらしい、見た目女の子の写真だ。しかも、その女の子はとてもかわいい。ボーイッシュな美しさではなく、整った顔立ちにほんのりと頬が赤く、明るい笑顔が特徴的な女の子に見える。
「これが……おまえ?」
加賀沢はワナワナと手に取った写真を持って震えている。力が入って今にも写真を握りつぶしそうだ。
よく見れば日上の面影があるのだが、元が男にしておくには勿体無い顔立ちなので女装した姿には違和感がない。
「ああ、今日だけでも四枚は売れてな、『この女の子はどこのクラスだ』と聞いてきた馬鹿も一人いたな―」
「…………」
「はて、誰だったか……確か見知った顔だったのだが、何しろ朝のことだったので忘れてしまったよ。確か、○○沢だったはずだが……思い出せないな」
加賀沢は終に写真を握りつぶし、日上に襲い掛かる。
「てめええええええええええぇぇぇぇぇっ!!」
そう言って襲い掛かる寸前、彼のポケットから今握りつぶしたものと同じ写真がヒラリと落ちてきた。
(親友の顔がわからないお前が悪い―)
彼らは出会ってから数秒後には今の様な生活を続けていた。在る時は文化祭でパンチラ写真を競い合う大会を開いて追われ、在る時は修学旅行で女子の入浴を覗いて追われ、喜劇さながらの学生生活をいつも二人で送っていた。
ここ瀬切市は工業都市である。小さな商店街があるものの、全体の半分が工場で占められており、良く言っても空気がおいしいとは言い難い。だが、ここで生まれ育った日上にとってはこれらの工場から出る排気ガスこそが故郷の匂いなのである。工場からの騒音も、ここに住み慣れたものにとっては子守唄に近い。
その瀬切市に住む谷田貝 日上はいま俗名“工場通り”を歩いている。この町特有の道で、三キロもの平坦な直進の道の両脇に大小様々な工場が立ち並ぶ。車道には大型トラックが脇道駐車されているのが目立つが、警察もいちいち全部に違反切符を取ることもしないし、そもそもそんな事をしたら街中から村八分にされる……街なのに村って可笑しいか?
進めば進むほど、色々な工場が見えてくる。餅の製造工場、カーペット、等身大アニメフィギュアの製造工場もある。時折他の工場とは違い正面のシャッターが閉まり、窓ガラスも割られている廃工場もある。そういう場所は不良の溜まり場となり、日上の通り過ぎた建物にもちらほらと、そういった風貌の人物は見かける。
「この街は……変わらないよなー」
彼はこの町の暗部を知った。それが来訪者によってもたらされた物だとしても、それを見て何も変わらないと告げた。いや違う、今のはただの願望だった。このままこの町が、変わってもらわないで欲しいという……願望だ。
工場通りを抜けて、十分も歩いていると目的の建物が見えてきた。かつてはある工場の事務所として活用されていた三階建ての建物である。日上の記憶の中にはあの建物が存在しない時がない。それだけ古くから建っている。白い壁は長い間雨に打たれ続け、腐食し茶色く変色している。窓ガラスも近くの工場から風で運ばれてくる粉塵に塗れ、屋上の手摺りも折れて垂れ下がっている部分がある。
ここに人がいることすら疑うほど草臥れた建物である。
日上は正面の扉を開けて、もはや倉庫と化している一階を無視して二階へ向かう。事務所として使っているのは二階の一部屋のみ、三階はこの事務所に住んでいる二人の寝室となっている。
二階へと上がるために、足を踏みつけるごとにギシっと軋む音がする階段をゆっくりと上がっていく。この階段は手摺がなく、急な角度で作られているために、走って上がろうとすれば踏み違えて転げ落ちてしまう可能性が高いためだ。
日上は二階へとたどり着いて、目の前に続く三階への階段から左へと身体を向ける。ガラス枠もない木製の扉に、ピンで留められぶら下がっている小さな看板を読む。篠峰探偵事務所と、そこには書かれていた。だが、探偵と書いてはいるものの、今までの仕事で殺人事件を解決したり、誘拐事件を受け持ったりしたことはない。そもそも、どこから依頼が回って来るのかも日上にはわからなかった。
(―ていうか、ここに俺とあの二人以外の人間がいるのを見たことないな―)
そう心の中で呟いて、日上はその扉のノブに手を架けて回す。重心を前へと移動させ、開く。
とたんに扉の隙間から蒸し暑い空気が流れてきた。すでにうろ覚えである夏場の空気よりも温度が高く、日上が部屋の中に入ると顔をしかめるほどの暑さだ。この部屋は家主の意向で常時この温度なのだ―。
「やあ、おはようヒガミン―」
扉を開けて、窓ガラスを照らす太陽を背に彼女は彼に挨拶をした。
黒くしなやかな髪が腰まで垂れ下げられ、最高級の絹織物を連想させる。大人しそうな若い顔立ちにはホクロ等の不純物はなく整い、とても白い肌に、膨らむべき場所には適度な膨らみがある体つきは見事な曲線美を描いていた。この見た目だけならば十八歳前後のヤマトナデシコな女性こそ、谷田貝 日上という男子高校生を雇ったこの事務所の長である。
名は篠峰 繭、この部屋から一歩も出ない引篭もりの様な生活を営む女性。
性格に少し問題があるが、日上にとっては魅力的な女性の一人である。
「……おはようございます繭さん」
「ヒガミン? どうして手で目を覆っているんだ」と、笑いながら質問をする。
彼は彼女の姿を見た瞬間にこの状態へと転位した。なぜなら彼女は体つきが分かってしまうほど肌を露出しているからである。ぶっちゃけると、黒の下着以外何も着ていない。
「繭さんはどうして俺が来る度に下着姿なんだ……あと、ヒガミンてなんですか?」
「日上はどうして来る度に私が下着姿でいることを理解しないんだ?」
「できるかよ!!」
「まあまあ……とにもかくにも悠木羽を起こしてきてくれ」
「あいつもあいつでこんな時間まで寝てるのか……てか、ヒガミンて何?」
日上は繭に言われたとおりに三階に上がって、悠木羽を起こしに彼女の寝室へと入っていった。
「起きてるか、悠木羽っ」
その中には女の子らしいものは何もない。彼女のお気に入りのMDウォークマンと、ガラス張りのテーブルの上に載っている、彼女が常備しているコンバットナイフ以外特徴的なものは何もない。加えて壁がコンクリートなので、女性らしさを更に削っている。
いつもならば、この部屋に来て緊張することはないが―。
「お~~い、悠木羽っ…………」
寝室に入ってまっすぐベットが置いてある区画に進んだのだが、そこで本日二度目の至宝を見た。
繭に勝るとも劣らない美女が眠っていた。ただ、彼女と繭の違いは活動性であろうか。悠木羽は身体を鍛えているためか余分なものが付いていない。芸術品のようなスタイルだ。次いで、彼女の寝顔だ。いつもは軽蔑するような目で彼を見ているのだが、こうやって目を瞑っていると天使のような寝顔なので、普段とは違う印象を受けてしまうようである。ここまではいつも通りなのだ。この二つならばまだ彼の脳が弛緩するほど驚いたりはしない。…………薄々気づいていると思うが、彼女はとても淫らな格好で眠っているのだ。
ベットの上で横になっている悠木羽はタオル一枚を体に巻いて眠っていた。加えて、何度か寝返りを打ったためか見えてはいけない部分まで見えそうなのである。
「…………こ、これ……は―」
日上は困惑などとっくに通り過ぎ、極度に興奮していた。
鼻息がどんどん荒くなり、思考が単純化していた。
(もっと見たいもっとみたいもっとみたいもっとミタイモットみたいモットミタイ)
そうして、彼の理性が吹っ飛びそうになりかけていた時、
「……う……ぅん」
彼女が再び寝返りを打った。
「ひゃあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
思わぬ襲撃を受けて悲鳴を上げてしまう日上。
彼女の一撃で完全に吹き飛んでしまうところだった。だが、崖っぷちで何とか踏みとどまり、理性の暴走を止める。
今の寝返りで彼女の巻いているタオルの隠蔽が二割は縮まり、胸はすでに七割見えていて、太ももに至っては腰の辺りまで見えていた。
(うひゃああああああ、俺の問題児が問題起こしそうだぜ!!)…………なんとも下品な感想である。
そ~っと近づいてく日上、右足から左足、左足から右足への体重移動も極めて慎重に行う。もしこの古い建物の軋む音がして、起きてしまったら大変だからだ。
繭は雰囲気が恐ろしいからこんなことはできないが、彼女は日上と歳がひとつしか違わないのでこのような行動にも出られるのだ。
(―ていうか、繭さんの年齢しらねえんだよな)
悠木羽の足元まで無音でたどり着いた日上、彼のここからの行動は単純明快。その禁じられた聖域に踏み込み、禁断の果実を頂戴するのだ…………下品な表現申し訳ありません。
彼は更に身長にそのタオルに指を架け、そして……!?
(ふおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!)
心の中で気合を込めて、その指を―
「……なにしてんだこの馬鹿」
上に上げようとして、声のする方向に目を向ける日上。
唐突に目を覚ましてしまった悠木羽が彼を睨み付けている。そこには先ほどの寝顔になかった殺意があった。
数刻の間、お互いに無言で見つめあっていた。
そして事の重大性に気づいた日上はタオルから手を離す。直立し、敬礼姿勢へと入る。
「おはようございます!!」
「…………おはよう」
まだ眠気が残っている悠木羽は、まず上半身を起こす。タオルでの隠蔽もバッチリである。そして目を擦りながら被疑者に問いかける。
「……なにしてた」
「なにもしてません」
明らかに不自然な返事だった。声も裏返っていたし、彼女の“なにしてた”の“に”から答えていたのだ。
「……実はな、お前の『ひゃあああああああああああああああああああああああああ』からすでに起きていた」
「…………………………はい」
状況を早期に理解していた日上は目を瞑って、脳内で加賀沢と走って逃げたある日の件の走馬灯を見ていた。早すぎるだろうと鼻で笑ったが、笑った後納得した。
(今日が…………俺の命日か―)
次第にその走馬灯は彼の記憶の流れを遡って映し出していく。
(加賀沢、お前……掴まんなよ。……ごめんね母さん、俺は最後まで家族を好きになれなかったよ)
そうして心の中で遺言を述べた後、悠木羽からの理不尽な暴力に悲鳴を上げた。
「……いてぇ」
日上は工場通りを悠木羽と歩きながら、赤く腫れ上がった頬を擦っている。
「自業自得だ」
まったくもってその通りなので、反論できない日上。
隣で歩く悠木羽に先ほどから低姿勢でいるのだが、一向に機嫌を直してくれないようである。
彼女の服装は先程の様にタオル一枚というわけではない。今は青のジーンズ、白のセーターの上に黒い革ジャンを羽織っている。
横目で彼女を見る。感想はやはり綺麗だとしか言いようがなかった。
櫛でも手でも整えることない髪は乱雑で、だがそこに活発性が見受けられ美しく、日上は見とれてしまう。
「欲情するなら繭にしておけ、あいつはド淫乱だからすぐに誘いに乗ってくれるぞ―」
彼女に見惚れていたことに気がつき、あわてて首を振って感情を押し殺す。
「あの人はなあ…………手を出したら泥沼に引き込まれそうで怖いんだよ」
「沼は沼でも底なし沼に引きずり込まれるような感じだろうな―」
「……余計いやだよ」
悠木羽を起こした後、繭の元に戻った日上と悠木羽は彼女からA4サイズの紙が数枚入れられた封筒を渡された。
『今回の標的は井伊菅 広瀬。コンビニの監視カメラからブローカーと接触した可能性がある。服用していた場合は保護、そうでない場合は物の回収…………もちろん、手遅れならば処分だ」
最後の言葉には彼女独特の恐怖があった。何を考えているのかわからない、目に見えない殺人鬼に襲われる様な感覚だった。普段の言動なら何気なく付き合えはするが、あの時の彼女だけは相手にしたくないと彼は常日頃考えていた。
繭から渡された封筒に目を通し、まずは彼の勤め先である二つ隣の駅にある大病院に向かった。
日上も悠木羽も免許をもちろん持っていないので、電車で向かう。
電車に乗っている間、彼は隣に座った悠木羽と部屋の模様替えについて話した。いくらなんでも飾りがなくて殺風景だというのが日上の意見、無駄なものを置いて片付けるのが面倒なのが悠木羽の反論。更に反論し、女の子なんだからもうちょっとお洒落しようとしろ―。それに反論が飛ぶ、面倒だと―。彼の最後の反対意見、なんでもかんでも面倒だと言うな!! 彼女の最後の反論……もとい意見、―お前と話すのも面倒だ―。それから日上はずっと俯いていて、時折鼻を啜る音が客車を満たした。
目的の駅に着いて、乗車の前より気落ちしていた日上と、彼を見て一々ため息をつく悠木羽は駅員から目的の病院への道筋を教えてもらう。
「……覗いたこと、そんなに怒ってんの?」
「…………」
道を歩きながら悠木羽に質問をするが、もはや反応すらなくなり日上は半泣きの状態で彼女と並んで歩いていた。
時折、彼女は笑いをこらえきれず口元が緩んでいることを、彼は最後まで気がつくことがなかった。
黒川記念病院、井伊菅 広瀬の勤務先である。彼は高名な外科医だそうで、若くして教授になりエリートコースを直進中の先生だったのだが、言動に奇妙な点があり、今年の春に暴力事件を起こし、医師免許剥奪とまではいかなかったらしいが、それでもそれ相応の罰として謹慎を受けた人物だそうだ。
「―患者の取り合いで暴力事件って……いくらなんでもやりすぎだろう」
日上は率直な意見を言った。
今彼はロビーで留守番である。もし井伊菅が逃げたときの保険として、ここに残されたのである。
悠木羽は受付の女性に連れられて、何も言わずに奥へと行ってしまった。
ここ黒川記念病院は質の高い設備と医師が売りで、そのためか平日の昼過ぎであっても患者が途絶えることがない。―と言っても、ほとんどが軽い風邪や健康診断に来た者に過ぎないのだが―。
実は日上は去年までこの病院をよく訪れていたのだ。それは彼が病を患っていたわけではなく、ある女の子の見舞いのためだ。
その子が少しでも笑ってくれるように、親友の加賀沢と共にこの病院の常連となっていた。
(あいつは……もう引きずってないよな)
そうして、半年前の親友の姿を思い出す。思い出した後、今の彼の姿と比較して、大丈夫だと考えてその問題を打ち切る。
次に日上は井伊菅の写真を手に取った。三十代と聞いていたが、見た目的には二十代と言う方がしっくりくる童顔である。髪を中央から分けて大きく額を出している。
(これだけ顔が良くて医者って言うんなら、さぞオモテなさるんだろうな)
少し嫉妬を交えて感想を語る。彼の顔も悪くはないのだが、女顔に近いのが悩みの種なのである。
そうして写真をジィっと睨んでいると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴り出した。
ここが病院だということを思い出した日上は、画面に映し出された名前に目を通して通話ボタンを押した後、周りの刺すような視線に身を削りながら外に出た。
「なんだ、なんか用か加賀沢」
電話を掛けてきたのは親友である加賀沢であった。
『…………』
「なんだよ、なんか答えろよ」
様子がおかしかった。いつもの彼ならば電話に出た瞬間に耳を劈くばかりの怒声を吐くはずなのだ。
だが今受話器の向こうにいる親友は何も喋ることなく、ただこちらの反応に警戒しているかの様であった。
『…………なあ、日上』
「……なんだ」
日上も今彼の置かれている状況が理解できないにしても、深刻な状況であることは理解できていた。だから、彼が話を始めるのを待っていた。それも、親友だからこそわかるものである。そうして数刻沈黙して、電話の相手は意を決したのか話を始めた。
『……お前と歩いていたのはお前の彼女か?」
「………………はあ?」
質問を質問で返したかのような反応を見せてしまったが、それだけ日上にとっては予想外な話題だったのだろう。
『お前が今、病院の中に美女と入っていくのを見て不審に思って…………まさか……もうできちゃったとか!?』
「俺も電柱の影からこちらを覗く不審な人物を見つけたよ。……あれはバイト先の同僚だ」
病院の駐車場入り口の近くにある電柱から目立ちやすい金色の髪が見えていた。
『あんだと!? お前のバイト先にはあんな美人がいるのか? ウラヤマシイ…………』
「―ついでに言うと、あれと同レベルの和風美人もいるぞ」
『お前の仕事場はハーレムかよ!?』
(―二人しかいないって……)
日上は心の中でつぶやく。
彼がこの場所にいることで、先ほど考えていたことが頭を過ぎったが、無視して違う話題を振る。
「そういえば、お前は何でこんなところにいるんだ」
『なんでお前にばかり出会いがあるんだ……―ん、ちょっちこっちに用事があってね。親からスーパーの特売品買ってくるように言われたんだ』
「ふ~ん…………ん? ……まあいっか」
少し疑問があったが、気のせいだと判断してスルーした。
『―ところで、あの美人には男はいるのか』
「いないと思うけど……」
『どうしてそう判断できる?』
―それもそうだ。彼は悠木羽のことを深くは知らない。彼女が語ろうとしないのだが、それを性格上追求しようとしない日上にも責任はある。心の中でいるかもしれないと考えて胸が苦しくなったが、それ以上考えてはいけないと思い打ち切った。だから、確証はないが理由の一端に成りえそうな事実を話す。
「だって、あんな暴力女―」
「……誰が暴力女だ?」
(ぅおおう!?)
咄嗟に携帯電話を閉じて、振り返って後ろにいる悠木羽に対して身構えた。おそらく用事が済んで帰ってきたのであろう。
「―お、なんだ闘るか? 暴力は大好きだぞ」
悠木羽は面白がりながら日上に対してファイティングポーズを取った。こうして彼女が身構えると、とても迫力が増す。それを知っていた日上だからこそ、先ほどの悠木羽の寝顔には冥福しがたい物があったのだろう。
冷静に場を対処しようと動く日上。
「―いやいやいや、別にお前と殺しあうつもりはないから……てか、ただの虐殺風景になるだけだろう」
「―なんだつまらない」
本当につまらなさそうに呟いた。まるで、お菓子を御預けにされた子供のような反応だ。
構えを解いた後、彼女は日上に病院内で聞いてきた情報を報告した。
「井伊菅はここ三週間の間、無断欠勤を続けているらしい」
「無断欠勤?」
「―ああ、家に訪問しても留守だったそうで、捜索願を出しているらしい」
「じゃあ、どこにいるかわかんないじゃないか」
「……それがそうでもない、看護士の女性がここから四キロほど西に行った場所にある工場に井伊菅が入っていくのを見たらしい」
その話を信じて、日上と悠木羽は看護士が彼を見たという場所へと足を進めた。
「―あれ?」
十分も歩いて、先ほどの加賀沢の言葉への疑問が再び過ぎる。
「この辺りに……スーパーなんてないよな」
二つ駅が違うといっても、ここは工業が盛んな瀬切市なのだ。この病院以外にはほとんどが工場で埋め尽くされ、残る建造物は少数の住宅のみである。
「あいつの言ってたスーパーってどこにあるんだ?」
目的の工場はすぐに見つかった。悠木羽が看護士から聞いてきた様子と一致している。
その風貌は薄汚れていて、この街では珍しくもない廃工場である。窓が割られ、不良たちのスプレーアートにて芸術作品と化していた。
「なぜいきなりナイフを取り出す?」
日上は胸ポケットから愛用のコンバットナイフを取り出す悠木羽を見て言った。
「もしかしたらの場合のため―」
なぜ自分が問われているのかわからないと言った感じで答えを返す。
「ダメ! 前もそんなこと言って、間違えて一般人に襲い掛かっただろうが!! どれだけ血に飢えてんだよお前は!?」
そう言われて、渋々といった様子でナイフを仕舞う悠木羽。
彼女がナイフを仕舞うのを確認して、彼は工場の正面シャッターを上に持ち上げた。
途端、鼻を刺すような臭いが彼らを覆った。
「―っつ! なんだこの臭い」
学校の科学室よりも不快な臭いが漂う工場内だと、彼は感想を漏らした。
一方、悠木羽は別段気にした様子をしていなかった。
「お前……平気なのか?」
鼻を服の裾で押さえながら彼女に問いかける日上。
「…………嗅ぎ慣れたよ」
悠木羽はごく当たり前のように答えるだけだ。
中は酷いものだった。謎の数式が書かれている用紙が床に散らばり重なって山と成り、青や赤や黄色の色をした液体が綺麗に並べられていた。そして何より衝撃的なものは―
「な……なんだよこれ!?」
奥に置いてあった檻を不審に思った日上はそれに近づき、その中にあるものを確認した。
ハエが頭の上部を漂う、大量の犬の死体だった。先ほどからの異臭はこれだったのだ。
おかしいのはそれだけではない。彼らの身体の一部が一般人には理解できないものに変化している。肉が盛り上がり、そこから新たな腕が現れているものもいる。だが、あくまで理解できないのは一般人である。
「悠木羽……これって―」
「変異しているな。……実験台にされたんだろう」
至極あっさりと、彼らはそれが何なのか見抜いた。そもそもこれが、彼らが追うものなのだ。
麻薬の様に服用に伴い昏迷状態を引き起こし、酩酊・多幸感などをもたらす効果を持つ。そしてある一定以上を服用すると生物に変異をもたらす薬。エンディングと言う名の薬物。
エンディングはそれ自体は高純度の麻薬だが、中に混ぜられているものが問題なのである。
個人差があるが、これをある一定以上服用するにあたって、身体に変調を来たす。その変化の仕方は人それぞれであるが、少なくとも今まで日上が見てきた者達は人の原型を留めず、人間が他の生物に対して誇ることのできる知恵も失くした化物となる。
どういった経緯でこれが生まれ、この町に流れてきたのかは日上はわからない。繭や悠木羽は知っているようだが、彼に一向に教える様子はないのである。
だが、これの為に人生が変わってしまった人達を彼は見てきた。
「実験台って……今までこんなことなかったのに―」
「それをするような人物に売ったということだろう。……まったく、嫌な物見せられたな」
悠木羽は目を細めて、すでに息がない実験体になった犬を睨む。悲しくてこんな顔をしていることは、半年も付き合ってきた日上にもわかった。
「そう言ってやらないでくれ……彼らは革新の礎になってくれたんだ。感謝しているよ―」
その声にいち早く反応した悠木羽は胸ポケットからナイフを取り出し、声が聞こえた方向に向かって構える。
少し遅れて、日上もそちらを睨む。
「―やあ、君たちは…………だれかな?」
写真とはいくらか風貌が違うが、彼らの追っていた名医と呼ばれた男は目の前に現れた。
写真は半年前の暴力事件を起こした際に取り上げられた物で、それからどうしてこの様な姿になったのかはわからない。
髪には白い色が半分を占めて、頬が痩せ、目は虚ろで、日上達を見ているのか彼らの後ろにある何かを見ているのかわからない。
「どうやってここに来た? 話から判断すると……君たちはこれの関係者かい」と言って、左手に持っていた透明のナイロン袋に入っている青色の錠剤を右手に取り出した。今まで日上たちが網膜に焼きつくほど見てきた代物だ。
それを面白そうに手の上で転がしながら、彼は日上達にギリギリ聞こえるような声量で呟く。
「……僕を殺しに来たのかな」
そう言う彼の目に日上は不快感を感じる。繭とは違う、底が深すぎて見えない恐ろしさではない。浅い底を見ることができないほどに、濁っている。
「場合によっては…………それを一度でも使ったか?」
日上が彼の雰囲気に気圧されている間に、悠木羽は質問に答えて更に質問を返す。
そんな彼女の目も恐ろしいが、彼女が味方であることでそれが良いように働いて、井伊菅の言い知れぬ恐怖から日上は抜け出すことができた。
「これは使ってないよ…………だけど、違うものは使った」
日上たちに向けていた視線を外し、後ろを向いて壁に手を突いて歩き出し、奥へと進んでいく。
二人もその後に続いて奥へと進んでいく。その間も、悠木羽は構えを崩すことがなかった。ひとまず落ち着けと日上が忠告しても、今回は彼女も引かなかった。それだけ、井伊菅の放つ空気は恐ろしかった。支えがなければ歩くことができない体、少し力を込めるだけで折れそうな腕も、全てが恐ろしかった。
「―僕がここで何をしていたか……わかる?」
後ろから付いて来ている音が聞こえていたのだろう。振り返ることなく、ゆっくりと奥へ徒歩を進めつつ井伊菅が語り掛けてくる。
「実験だろう。クライスラーの品種改良と言ったところか―」
その質問に答えたのは悠木羽だった。
「……半分正解だ。私はここで完成させようとしていたんだよ」
やがて、コンピューターが置いてある一角へとたどり着いた。そのコンピューターからコードが出ていて、横に置いているフラスコ型の装置と繋がっていた。日上が見ても、それが何なのかはわからなかった。
「僕はこの薬に出会った時……感銘を受けたよ。人を異質の存在へと革新させるための礎。……だが、僕にはこれが本当の姿をしていないような気がして仕方がなかった。そう……これはまだ完成されたものではなかったんだ」
彼の話を聞いて、悠木羽が一瞬眉を歪ませた。どうやら彼の言葉が不快であったようである。
「僕はそれに気づいてからこの場所で密かに研究を重ねた。どうすれば完成なのか……どうすればそうなるのか。そして、その鍵を二十六匹目でようやく見つけた」
おそらく、先ほど檻の中で無残な姿で死んでいた犬のことを言っているのだろう。
左手を額に当てて、苦悩しているかのような素振りを見せる。
「この薬に必要なものは知恵だよ。……変異の際の知能の著しい低下が問題だったんだ。だから僕はそれを抑える方法を考えた」
「気づくのにえらく時間が掛かったんだな」
日上が率直な意見を言う。
「ああ、だがそこからは早かった。……気づいたのはつい三日ほど前の話だよ」
それから彼はこう言った。―そして終わったのはつい先ほどのことだ。―と。
「―は?」
日上はその話を聞いて、そんな間の抜けた言葉が出た。
「日上」
自分の名前を呼ばれたが、彼女が普段は『お前』としか呼ばないため、反応に時間が掛かった。
「な、何でしょうか」
「お前は今でも私を血に飢えていると言うか?」
「はぁ? 何をいきなり……」
彼女の話を聞くために顔を横にいた悠木羽に向けていた日上だが。
「…が……ぁが……ああ」
突如、井伊菅 広瀬が苦しみ始める。頭を抱え、眼球の左右それぞれが違う方向を向き続ける。次に右手を押さえて苦しみだす。
日上は異常な状態だと判断して、あわてて傍に駆け寄ろうとする。
「ちょっと、だいじょうぶ―」
「―近づくな日上!!」
彼女に手を握られ、その場で足を止めた。だが、それは正解だった。
なぜなら、このままあと一歩前へ踏み込んでいれば彼の身体は、井伊菅の肩から飛び出した刃で切断されていたであろうからだ。
「―えっ」
彼の目の前を骨を研いで作られた刃が横薙ぎで振るわれた。ビュンと風を切る音が聞こえ、横に置いてあったフラスコが見事に両断されて青色の液体が毀れ出す。
「……外したか。やっぱり慣れていないものは使うのが難しいな」
そういう井伊菅の右腕が少しずつだが変化していた。指から肘までの血管が浮き出て、爪が長く鋭く、皮膚は硬くなり色も黒くなる。肩からは触手のようなものが生えていて、その先は骨を研いだ刃が付随していた。
そんな異形の姿になった人物を見て驚愕している日上に悠木羽は呟いた。
「日上……これでもお前は血に飢えていると言ってナイフを仕舞わせるつもりか?」
日上が工場内を散策している一方、悠木羽は外で異型と化した井伊菅と交戦していた。
結果を言うならば、戦いは一方的であった。
悠木羽は防戦に回り、井伊菅は持前の肩から飛び出た刃で彼女に反撃の隙を与えないでいた。
彼女はうまく立ち回りながら、相手の攻撃を直撃にしないようにしてはいるが限界はある。所々に井伊菅に切られた小さな傷があり、無理に避けようとして擦り剥いた傷もある。
先程の様に彼女が只の人間だと相手が誤認して、油断でもしない限り懐に飛び込むチャンスはなかった。
悠木羽の武器はナイフのみ。元は工場だということで辺りに何かしら武器となるものがあるかもしれないと見込んだ悠木羽だったが、その期待は外れて、使えそうなものは捨てられたタイヤや欠けた木材のような、井伊菅の刃を防ぐことができる物ぐらいだった。しかしそれも一度や二度で使い物にならなくなっていく―。
「……やっかいだな」
今まで彼女が相手にしてきた異型の化け物達は全てが知能を失い、代わりに強靭な肉体の様な特殊な力を手に入れていた。
だが、井伊菅はそれを失くすことなく彼らと同じ力を手に入れている。
悠木羽は先ほどからフェイントを交えての接敵を試み、それが仇と成り危険な状況に追い込まれ。うまく隠れながら回り込んでも、感付かれて引かざるをえない、といった場合を繰り返していた。
(……人を治すのが性分のくせに大したものだ―)
彼女ならば井伊菅の攻撃を防ぐことぐらいならできる。だがそれは距離が開いていたらの話。
彼女の見立てでは五mの距離まで近づけば反応に送れて身体を両断される。
しかし、その距離を耐えれば彼女の射程圏内にもなる。
(一瞬で心臓を貫けば、こっちの勝ちだ―)
だから彼女は先ほどから井伊菅の攻撃の隙を見ていた。
相手の刃を振るう攻撃にはパターンがあった。一直線に刃を突き刺しにきて、一度左右に振り回した後にひとまず本体の元に戻る。
彼女がこの周回の刃を振るってくるタイミングや速度まで頭に染み込むまで防ぎ続けた甲斐があった。
「―どうしたんだい? 逃げてばかりじゃツマラナイから相手をしてくれよ」
井伊菅の挑発を境に彼女は行動に移った。今までは物陰に隠れつつ敵の行動を見ていただけだったが、今は彼の正面七メートルほどの距離に立っていた。
今まで直接的な戦闘を回避していた悠木羽が目の前に現れて、井伊菅は不敵な笑みを抑えることなく、両の手を広げて彼女を迎える様にこう言った。
「……いらっしゃい」
悠木羽が彼の目を見ると、それはひどく充血していて真っ赤になっていた。おそらく、普段からそれほど眠っていなかったのだろう。もしくは一睡もしていないのかもしれない、彼が病院から姿を消したころから。
「どうやって薬に接触した」
彼に人並みの知能があることで、彼女には彼がどうやってこの薬を手に入れたのかを調べる必要があった。
「……旧友に譲ってもらってね、それを調べてみたら興味がわいてきた」
「旧友……ブローカーと知り合いなのか?」
「……ああ、かつて私は彼を救ってあげることが出来なかったというのに、私はこれを手に入れて彼に救ってもらってしまった。この借りは返さないといけないな―」
「……名前は」
「教えることはできないよ。そんなことをすれば彼に迷惑がかかるだろう。…………私はもう…それだけはしたくないんだよ」
と言って、彼はほんの少しだけ人間の悲しい目に戻った。先ほどのように、弱者を甚振る事になんの疑問を持たなかった目に数刻光が宿った。
そんな彼の充血した目から、彼女はその真意を知った。彼は何があってもクライスラーを売るブローカーを見捨てることはないのだ。彼らの間に何があったのかは知らないが、裏切ることのできない過去があったことは確かなのだ。
「…………わかった」
彼女は小さく言い放ち、右手に持っていたナイフに力を込める。これで最後だと、自分に言い聞かせてそれを果たせるようにするために―。
「終わらせる」と、呟いて前へ走る。
それに合わせて井伊菅も右肩から骨を研ぎ澄ませた刃を振るう。
まずは直線の突きが来た。それは彼女の胸部に標準を合わせた攻撃だった。これを避けるために彼女は大きく横に跳んだ。地面に落ちた砂を強く踏みつける感触を彼女は感じ取った。
それを避けた束の間に、刃は再び彼女に襲い掛かった。
右から左へ横なぎに振るう、今度は首を狙っての軌道。もし刹那の間にも気を緩めていれば、それを避けることの出来ぬであろう速度だ。
それを右手に持つナイフに当てて、軌道を反らして避ける。刃がぶつかり合い、彼女の手にその振動が伝わる。
―そして最後の攻撃が来た。通り過ぎた刃が振り返って、再び彼女に近づく。掌に痺れが残っていて、防げば耐えることができずに致命傷を負うと彼女は判断した。だから、それを回避するために彼女はあえて軌道に交わるかたちで左腕を前に出した。
「―ぐぅっ!!」
左の掌と肘の間に刃が食い込み、血が流れる。出血で飛び散る液体が宙に浮いたのを悠木羽が捉え、腕を見る。
タイヤすら両断できるほどの切断能力を持つ刃が彼女の腕の骨に食い込んでいた。
一度目の横薙ぎをナイフで防がれ、追撃するために一度静止した為に彼女の腕を断つほどの加速がなかったためだ。どれだけ刃毀れしないほど丈夫な骨であっても、質量までは変わらないため、速度を上げなければ大した切断能力はない。
だがそれでも、彼女の肉を断ち骨に食い込むほどの力があった。
そして彼女は腕に食い込んでいる刃から井伊菅の肩に伸びている中間部分を、左腕に残る力で捕まえた。
「これで……逃がさない」
そのまま彼女は足を井伊菅の立つ方向へと踏み出した。一歩目を踏み出した右足と、それを返すかのような左足の爆発的な二度の跳躍によって一瞬で距離が詰まる。
彼女は笑ってしまっていた。これではまるで悪役ではないかと心の中で考えたが、取るに足らない事だと思考を打ち切り、自分の思い通りになったことに歓喜を得る。
そして、彼女のナイフは井伊菅の心臓を貫いた。
「そん……な…………うそ……だ」
井伊菅の胸の中で抱きつき縋るかのように密着して、身体の中心にナイフを突き刺した悠木羽は彼の息も絶え絶えの言葉を聞いた。
「……死にたく…………ない……よ」
彼女は目を細めて彼の小さな言葉を聞いていた。その顔には勝利を確信した時の笑顔はもう無い。体温が急に下がる感覚を得て、彼女の心も落ち着いた。これで終わったのだと、そう思った。
だが、心の中でそう呟いた瞬間に左手首を井伊菅の異型と化した大型の右腕が掴んで持ち上げた。
「なっ―」
心臓を貫いて、彼女は安心しきっていた。しかしそれが命取りになった。
「……なんてね―」
井伊菅の目が再び生気を取り戻したかのように充血し始めた。彼は舌を口から大きく出して、こちらを挑発する行動をしていた。
悠木羽の対応は遅かった。彼がまだ動けたことに驚愕したこともあるが、彼の右腕の力が予想以上に強く、それに握られる激痛に脳が反応して声を上げたためだ。普段ならば痛みに耐えて即座に行動することができる悠木羽だが、やはり不意を突かれたためにそれもできず―。
彼女は左手に持っていた刃の一部を放してしまい。
彼女の左腕から脱出した井伊菅の唯一の武器は、今度は彼女の心臓を突き刺した。
そこから、悠木羽と異型と化した井伊菅の死闘が繰り広げられた。
悠木羽は日上の耳元で一言、『処分しろ』と呟いて、井伊菅に突撃した。
勿論、彼も無防備ではない。今や彼の一部となった尻尾のような刃を彼女に向けて一直線に突き出す。
常人には反応仕切れないほどの速度で―。
だが、「ああああぁぁぁ!!」彼女は雄たけびのような声を上げ、自分の愛用のナイフで彼の刃を大きく弾いて懐に飛び込んだ。
「なっ!?」驚愕している井伊菅の胸倉を掴んで、工場の上部にあった窓ガラスに向かって放り投げた。形としては、片手で背負い投げをするような形だ。
ガッシャーンと、ガラスが割れる音がして、井伊菅は外へと投げ出された。
「おい、ちょっと待て―」
という日上の制止の言葉も聞かないで、悠木羽は一瞬しゃがみ込んだと思ったら、足をバネのように伸ばし、コンクリートの床を蹴って一飛びでガラスが割れた窓から外に出た。
それは見事で、まるで空を飛んでいるようだった。
「……マジかよ……知ってはいたけど、驚くよな」
誰もいなくなったことで、工場内にある何らかの装置の音以外何も聞こえなくなった場所で独り言を呟く。
「……処分って、どうすんだよ」
いつも彼女は彼に後処理を任せようとする。そういった細かいことが苦手なようだ。
「とりあえず、散策すっか」
日上は工場内を歩き回った。外から金属同士がぶつかり合う音がよく聞こえるが無視する。
(あの中に入ったら病院送りじゃ済まなくなるからな)
工場を回ってる間、散らばっている書類にいくらか目を通す。
『怪奇! 河童はやはりいたのか!?』『ネッシーの確認情報!?』『恐怖、口裂け女!!』等の怪奇系ゴシップの雑誌もいくらか発見した。
何のためにこんなものを? と考えはしたが、それよりもある名が多くの書類に書かれていた事に気が付いた―。
「製薬会社オリノベの不審な爆発―」
日上は書類の中にあった新聞記事の一部をプリントしたものを読み上げる。
詳細は、オリノベという製薬会社から大きな爆発事件があったというもの。どうやら新聞の端に掲載されるレベルの事件らしく、文章は四行ほどしか書かれていなかった。
近くにあった違う書類に目を通す、どれもオリノベという名がついたものだった。
その中に、当時そこで働いていた人物のリストがあった。そして、「……?」その名を目で追っていく内に一人の名前に行き着いた。
「谷田貝…………近衛?」彼の知る名がそこにあった。
「母さんの名前がどうして?」
彼の母、谷田貝 近衛は彼が五歳の時、すなわち十二年前に亡くなっていた。
よく家族と仲良くしてくれと言われたのを彼は思い出していた。
ロクに家に帰ってくることはなく、彼の記憶の中にもほとんどいない存在だ。
(母さんは……この会社の社員だったのか?)
結論は後で調べるとして、彼はそこから数枚の書類を小さく折りたたみ、ポケットに入れて再び工場内を詮索する。
そうして、工場内を一周して結論が出た。
「―よし、燃やすか」
工場の外、井伊菅は仰向けに倒れている悠木羽の前で空を見上げていた。
彼女の身体から見える傷口から血が流れ出している。それを見た井伊菅は彼女に疑問の声を投げかけた。
「―どうして……ただの人間があんな力を持っている」
彼はそのことに疑問を持っていた。痩せ細り、体重も平均女性ほどしかないとはいえ、彼女は工場の外まで投げ飛ばしたのだ。ついで、その後も彼の刃の攻撃に耐え続け、終には心臓を貫いたのだ。
だが彼の心臓を貫いたものの、変異した右腕が心臓の代理を行ったおかげで死なずに済んだ。それが、彼女を死に追い遣る切欠になった。彼にも予想外の現象だったらしく、本来ならばここで倒れているのは自分だったのではと、今は考えている。
「……死体に問いても無駄ですね。後で調べるとして、中にいるもう一人の方を殺しに行くとしますか」
そう言って、彼は倒れ伏している彼女に背を向け工場へと身体を動かした。
彼女との戦いに気を捕られて気づかなかったが、先ほどから工場内でガラスが割れる音がしていた。
(? 中で何をしているんだ―)
彼は考えた。中で名を知らぬ、自分の実験を危険視している、彼女の仲間である男が何をしているのかを―。
(……まさか―!?)
自分の中で、彼にとって最悪の結果を想像したところで変化が訪れた。
大きな爆発音が聞こえて、工場が燃え出したのだ。
中には燃えやすい化学薬品があった。おそらく日上はそれを全て地面に叩きつけて割り、目処をつけて火を放ったのだ。
工場が燃え出したと理解したときにはすでに、少ない窓から黒い煙が工場から追い出されるように排出され、そこから僅かにオレンジ色の炎が見える。
すでに中で火をつけられていて、今爆発したのは残っていた薬品に引火したためであろう。
そこから今の状況を脱する対策を考え出すのに数刻の間呆然と立ち尽くした。
どうすれば研究資料を守れるのか、どうすれば自分に掛かった業火を払えばいいのか思慮をめぐらした。
―それが命取りになった。
思考の総てを費やして答えを求めていたため、背後からゆっくりと近づいていた気配に気づかなかったのだ。
彼がそれに気づいたのは、自らの武器であり、身体の一部である右腕に激痛を感じたときだった。
「……これが…お前の今の心臓なんだろう?」
そう言う声は男性のものではなく、工場から逃げ出した男が後ろから忍び寄って刺されたわけではないとだけ理解した。
(ならば……僕の後ろにいるのは誰だ? まだ仲間がいたのか?)
恐怖があった。自分の身体を保たせていた武器が被害を受け、自分がどうなるかという予側をするよりも、自分の後ろにいる人物が……先ほど戦っていた人物であることを―。
「―どうしてくれる。痛いし、血で服が汚れた上に余分に栄養を取らなければいけないじゃないか。……どうしてくれる」
後ろに立つ女性はそう言って、彼の右腕に突き刺した物をゆっくりと肩から指先へと払った。その速度は決して速くはないが、彼の腕を破竹のように裂いた。
腕が大きく裂けて、変異した腕からは赤い液体が流れるわけではなく、ただ切り開かれてブラブラとしているだけだった。
井伊菅は悲鳴を上げなかった。激痛があったが、それよりも自分の腕を裂いた人物が誰なのかを反芻していた。
呼吸をするのが苦しくなっていた。どうやら心配機能を代行していた部分に致命傷を受けたようだ。そして肩から伸びていた触手が力なく、無難だがさしずめ糸の切れた人形の様に垂れ堕ちたことで戦う力もなくなったことを確証した。
だからせめて最後に頭の中を泳ぎ回っている疑問を捕らえることにした。後ろを振り向いて、問題を自分の力で解くことなく答えを見て知ることにしたのだ。
「……理解はしたが、訳がわからない」
彼の見た答えの感想だろう。答えを知ったが、それを解くための公式がわからない。
後ろにいたのは彼の予想通りで、彼の式では予想できない女性、悠木羽だった。
彼の様に異型と化した右腕が心配機能を補った訳ではないはずだ。―ならばどうして生きているのか。
「お前は……すごいと思うよ―」
唐突に、彼女は語りだした。
「それを改良しようなんて人間は今までいなかった。それに関ってきた人間は皆怪物になって全て処分されている。だから……気の毒でもある」
何が、と彼は問い返した。
彼女もすでに勝敗が決したと考え、ナイフをコートの内側に仕舞って返ってきた質問に答える。
「……お前がこいつの本当の目的を知らないことがさ―」
彼女は優しく、上から下の者へと慈悲を送るかのような口調で教える。
「クライスラーの元になった薬は、不老不死を目的とした計画で生まれたものだったんだよ」
それを聞いて、井伊菅は息を呑んだ。そして彼は、優秀であるが故に即座に気づいた。
「まさか……君がその計画の完成品だとでも言うのか?」
それならば彼の中にある疑問が解消される。公式を理解して、答えを受け入れられる。
それがあったからこその傷の再生。それがあったこその敗北である。
納得して、これから覆われるであろう死という名の暗闇を出迎えることが出来る。
「いや―」
だが彼女はこう答える。
「半分正解だな。残念だが、私が持っているのは不死だけだよ。片割れは私たちの家でのんびりと昼寝でもしていることだろう」
日上が悠木羽と合流したのは井伊菅が息を引き取った後だった。
警察が来る前にここから離れようという悠木羽の提案を日上は呑み、放火した工場から五百メートルほど離れた歩道を歩いていた。
「……なんで俺がお前を背負わなくちゃいけないんだ?」
工場から離れながら悠木羽は繭に電話で詳細を報告し、日上の背に飛び乗って両手を首に回して身を預けていた。
彼女のこの状態では電車に乗ることも出来ない。だからかれこれ一時間弱こんな状態だ。
先ほどから彼女の胸の感触があるのだが、それよりも血が服に付いていることがよほど気に食わないのか日上は不機嫌である。
「おまえ、傷は塞がってるんだから普通に歩けるだろう。横着しようとするな」
自分の右肩に頭を乗っけている悠木羽にそう話しかける。
「……不死といっても、血を流し続ければ体調が不調になるに決まっているだろう。貧血を起こしている女性に歩いて病院に行けと言うほど冷たい人間なのかおまえは―」
「フラフラなのか」
「フラフラなのだ」
「……じゃあいい―」
結局日上が折れた。なんだかんだ言っても彼は知り合いには優しいのだ。生活力がない篠峰の二人のために事務所を掃除することは多々あることで―。理由があるのならば強要はしないのが彼の良いところである。
「おまえは……私が怖くないのか」
しばらくお互いに沈黙していたのだが、それを断ち切るように悠木羽が話を始めた。それは彼女が最近考えていたことだった。どうして彼は自分にそのことを追求しようとしないのか、それを聞きたかった。
「……寝起きのおまえは怖いよ」
「それはお前が悪い」
日上の頭を軽くはたく悠木羽。
叩かれた箇所を、痛くはないが軽く手で押さえる。
「……確かに、お前のあれを知ったときは驚いたけど……それだけで済んだよ」
彼は彼女と知り合って仕事を共にして早半年。否が応でも彼女の身体の秘密に気づく。彼女の異常な再生能力。栄養さえ取れば無くなった身体の一部も一日で回復する出鱈目な力。エンドで変異した人間ほどでないにしろ、常識を超えた身体能力―。
それを知っている彼が彼女に対して答えることはそれで全てである。
「……別にどっちでもいい」
彼女の顔がすぐ横にあるので、小声で彼はそう言った。
それを聞いた悠木羽は小さく、それでも彼女にとっては珍しく、笑った。それは昼間に見せたのとは違う、頬の力を抜いて安心した笑顔だった。
やはり血が通ってはいないのだろう。触れる頬が冷たいのを日上は感じた。
やがて工場通りにたどり着いた。ここから十数分も歩けば事務所に着く。今は全ての工場に光が灯っている。廃工場にも不良が溜まって焚き火をしているためだ。
両脇の光は暗い夜道を照らし、されどはるか彼方までは照らすことない。祝福しながらも、どこに続いているのかは教えてくれない、そんな感じである。
「……まあ、あるのは事務所だけど」
そんなわかりきったことを口ずさみ、日上は足を進めていく。おぶられている悠木羽は眠りについて、その寝顔で彼にほんの少しの安らぎを与えていた。
日上が悠木羽と繭に関ったのは金銭目的だった。彼は将来を決めないで、フリーターで残りの人生を過ごそうとしていた。だから、少しでも実りの良いこの仕事を選んだのだ。だが、彼はこれがどういう仕事か知っても尚、引き返そうとはしない。今からでも逃げることは出来るはずなのに―。
(やっぱり、満足してんだろうな。今の自分に……)
誰でも幼少時に根付いたことがあるであろう無意味な正義感。それが今の彼の胸のうちを埋めていた。大人になるにつれて英雄を幻想だと理解して、この世界には悪者しかいないとわかった。だからといって自分が英雄になれることは今迄なかった。だから今、この街に降りかかった厄災を払う英雄というスタンスに満たされている。
そんな自分が醜く思えたが、苦笑いの一つを代償にその考えを捨てた。
彼らはまたこの道を二人で歩いている。
早半年、何日も何日も―。仕事の度に―。人が人でなくなる度に―。
この道を共に歩く。
第一章 END




