婚約破棄の瞬間、全国民に“実況”されました~無能王子の公開処刑が始まったようです~
卒業記念舞踏会は、一年で最も華やかな夜だ。
煌めくシャンデリア、白いドレス、甘い音楽。
そのどれもが今夜だけは完璧に揃っている。
私——侯爵令嬢リリアーヌは、会場の隅で静かに立っていた。
目立たないようにしているのは長年の習慣で、今夜もそれは変わらない。
婚約者であるユリウス王太子殿下はというと、ずっと向こう側で聖女ミレイアと談笑中だ。
別に構わない。
婚約は政略であり、感情を混ぜ込むのは野暮というものだと、とっくに割り切っている。
それでも会場の端でひとりでいると、少々——いや、かなり惨めな気分になる。
社交界での私の評判は知っている。
華がない、固い、面白くない。
そういった陰口は筒抜けで耳に届いていた。
否定はしない。
自分でもそう思う。
だが、華がなくても、固くても、面白くなくても——仕事はちゃんとやってきた。
王家の財政管理、外交文書のチェック、地方の税制改善案の作成。
どれも婚約者として求められた仕事であり、ひとつひとつ丁寧にこなしてきた自負がある。
ただ、それを誰かに認めてもらった記憶は……正直、あまりない。
そんなことを考えながらシャンパングラスを傾けていた、そのときだ。
会場中心部が、ざわりと揺れた。
人の波が左右に割れ、ユリウス殿下がこちらへ向かってくる。
隣には聖女ミレイア、その後ろには側近が数名。
妙な行列だと思った。
舞踏会の最中に、わざわざ私のところへ来る理由がない。
にもかかわらず殿下の表情は妙に硬く、どこか決意めいたものが滲んでいた。
嫌な予感がした。
殿下は私の正面に立ち、高らかに宣言した。
「リリアーヌ! お前との婚約を破棄する!」
会場が静止した。
シャンデリアの光だけが変わらず降り注ぐ中、数十人分の呼吸が止まったかのようだ。
私も固まった。
驚いたのは事実だが、それよりも——恥ずかしかった。
こんな人の多いところで。
全員に見られながら。
殿下の後ろで、聖女ミレイアが両手で顔を覆い、しゃくりあげるように泣き始めた。
「彼女は私をいじめていました……ずっと、ずっと辛かった……!」
涙声は綺麗に通る。
会場の空気が一変して、こちらへ視線が集まってくる。
侯爵令嬢の悪役、聖女の被害者——そういう絵面に、着々と整いつつあった。
(最悪……)
これ以上の注目を浴びたくなかった。
反論するつもりはあるが、この場で声を荒げれば、よけいに「悪役」の烙印が深まるだけだ。
何かうまい切り返しを——と頭を回転させていた、そのときだった。
空から、声が降ってきた。
『おーーっとここで王太子、婚約破棄宣言だァーーーッ!!』
会場が今度こそ、完全に静止した。
シャンパングラスを持ったままの手が、何人も中空で止まっている。
私も固まった。
今度は全身で。
「天の声」だ。
この国では昔から存在する、不思議な声。
祭りの実況、武術大会、競馬、結婚式——そういった場で場を盛り上げる役割を担い、国民なら誰でも知っている。
しかし今この瞬間まで、貴族の不祥事を実況した例など、一度も聞いたことがなかった。
どうして。
なぜ今。
なぜよりによって私の婚約破棄で。
陽気な声は、続いた。
『なお王子、周囲の貴族からは"やめとけ"オーラが凄まじい!! 隣のブルーデン侯爵、目が完全に死んでおります!!』
ちらりと横を見れば、確かにブルーデン侯爵が能面のような顔で宙を見つめていた。
他の貴族たちもざわざわと顔を見合わせている。
(やめてください……)
心の中で懇願した。
ただでさえ目立ちたくないのに、全国放送になっている。
天の声は国中に届く仕組みだ。
今この瞬間、どこかの酒場でも市場でも、誰かがこれを聞いているはずだった。
殿下は顔を赤くしながら声を荒げた。
「な、なんだこの声は!?」
『天の声でございまーーす!! 本日は特別実況をお届け中でーーす!!』
答えが返ってくるとは思っていなかったらしく、殿下の口がぱくぱくと動く。
側近たちも完全に固まっていた。
天の声はさらに続ける。
『ここで視聴者の皆様に情報提供でーーす!! リリアーヌ嬢の輝かしい実績ご紹介ィィィ!!』
(やめてください。本当に頼むから)
心の叫びは、虚しく空へ消えた。
『王家財政の管理! 外交文書のチェック! 地方税制改善案の立案!! 全部リリアーヌ嬢がひとりで担当しておりましたァーーッ!!』
会場の空気が変わった。
(え?)という顔が、あちこちで見えた。
(それって王太子妃の仕事の範囲じゃないよな)という空気が、静かに、じわじわと広がっていく。
殿下が声を張り上げた。
「う、嘘だ! そんなことは——」
『残念でしたァーーッ!! 全部事実確認済みでーーす!! 王城記録部から正式に取得した文書がこちら!!』
「こちら」と言われても何も見えないが、どういうわけか誰も突っ込まなかった。
多分、声の勢いが強すぎて思考が追いつかなかったのだろう。
私は静かに目を閉じた。
(……もう終わりだ)
婚約が終わるとか、名誉が守られるとか、そういう意味ではない。
私の「目立たない生活」が、今この瞬間、完膚なきまでに終わった——という意味だった。
貴族たちのざわめきは止まらない。
いや、むしろ大きくなっている。
「ちょっと待て、財政管理まで?」
「外交文書って……本来なら殿下が目を通すものでは?」
声の主は見えないが、複数の方向から聞こえてくる。
貴族たちは今、王太子ではなく互いの顔を見合わせながら、小声でそれを確認しあっていた。
聖女ミレイアはまだ泣いている。
だが会場の注目が、いつの間にか彼女からそれていた。
いじめの話より、税制改善の話の方がはるかに重大だと気づき始めた人が、周囲に増えている。
殿下は焦った様子で口を開いた。
「そんなこと、リリアーヌが勝手に——」
『おっと王子、自己弁護に入りましたァ!! なお"勝手に"という言葉の使用回数、本日これで三回目でーーす!!』
貴族の何人かが、こらえきれずに噴き出した。
私は頭を抱えたかった。
いや、実際には頭を抱えたが、手がどうにも動かなかった。
固まったまま、成り行きを見守るしかない状態だ。
殿下の額に、汗が浮いている。
これだけの人前で、これだけ実況されて、これだけ詰められて——それでも婚約破棄を撤回する様子はなかった。
プライドが邪魔をしているのだろう。
その点だけは、少し理解できる気がした。
天の声がふたたび響いた。
『さてさて皆様、続報でーーす!! 聖女ミレイア嬢、現在の涙ですが——本日三回目のご使用でございまーーす!!』
ミレイアの泣き声が、ぴたりと止まった。
その止まり方があまりにも唐突で、会場の空気が奇妙なものになった。
ミレイアがゆっくりと顔をあげると、目が泳いでいる。
涙の跡はあるが、目が赤いわりに潤いがない。
(あ)
思わず心の中で声が出た。
私でさえ、あの停止で気づいてしまった。
ということは、周囲の貴族たちも——
案の定、会場全体の視線が、今度こそ明確にミレイアへと向かっていた。
「天の声」は、嘘はつかない。
国民全員がそれを知っている。
だから「三回目」という言葉は、事実として受け取られる。
ミレイアが小さく口を開いた。
「そ、それは……」
『な!! 何か弁明はあるかァーーー!!』
実況の声が、追い打ちをかける。
(楽しんでる……絶対楽しんでる!!)
私は内心で絶叫した。
声は陽気すぎる。
どう聞いても、愉快で仕方がないという雰囲気だ。
会場の隅から、また噴き出す音が聞こえた。
貴族というのは普通、こういう場では笑わないものだが——今夜はもう、普通ではなかった。
殿下が叫んだ。
「うるさい! 誰がこんな声を許可した!!」
『誰の許可も要りまへーーん!! 天の声は天の声でございますゆえ!!』
「まへーん」という語尾が独特すぎて、貴族の数人がまた噴き出した。
殿下の顔が、今度はみるみる青ざめていく。
怒りを通り越して、何か別のものに達した顔だ。
私はひっそりと、壁の方へ一歩引こうとした。
できれば視界から消えたかった。
この騒ぎが続く限り、私もその渦中にいることになる。
だが一歩引いたところで、天の声が続く。
『おっと、リリアーヌ嬢が壁際に移動しようとしています!! 逃がしませーーん!!』
(なぜ見ているんですか!!)
心の中で絶叫した。
実際には何も言えなかった。
声を出せば余計に目立つ。
目立てばさらに実況される。
悪循環だとわかっていて、それでもどうにもならない。
諦めて元の位置に戻った。
会場中の視線が、また私に戻ってくる。
(頼むから忘れてくれ……)
という祈りは、当然のごとく通じなかった。
ブルーデン侯爵がそっと私の横に歩み寄り、小声で言った。
「……気の毒に」
侯爵は苦手な部類の人物だったが、この一言だけは素直に受け取れた。
天の声はまだ続いている。
殿下に、ミレイアに、貴族たちに、次々と情報を放り投げながら——会場全体を、いつの間にか実況中継の舞台に変えていく。
(これ、全国の人が今聞いているんだよね)
その事実が、ようやく実感として染み込んできた。
酒場の人々、市場の商人、農村の家族——皆がこの声を聞いている。
私の名前が、今夜全国に広まっている。
目立ちたくない。
静かに生きたい。
それだけを望んできた人生だったのに。
シャンパングラスを、静かにテーブルに置いた。
震えないように、気をつけながら。
天の声が、一息ついた。
会場がわずかにざわめく。
もしかして終わったのか——という期待が、貴族たちの間に漂いかけた。
甘かった。
『さてここで追加情報でーーす!!』
(終わらないんだ)
私は静かに絶望した。
『王城の書類整理、実は全部リリアーヌ嬢がやっておりましたァーーッ!! 王太子殿下、サインしかしてませーーん!!』
どこかで誰かがグラスを落とした。
割れる音が、やけに大きく響く。
会場がまた静止した。
今度の静寂は、先ほどとは質が違った。
笑いをこらえているのではなく、純粋に処理しきれていない顔が並んでいる。
「……サインだけ?」
誰かが呟いた。
低い声で、ぽつりと。
それだけで、会場全体の空気がずるりと傾いた気がした。
貴族というのは、王家への批判を表立って口にしない生き物だ。
だが今夜は「天の声」が先に言ってしまっている。
自分たちはただ確認しているだけだ——という言い訳が、辛うじて成り立っていた。
殿下は何か言おうとしていたが、言葉が出てこない様子だ。
ミレイアは、もう泣いていなかった。
泣く余裕がなくなったのだろう。
ただ立ち尽くして、視線を彷徨わせている。
私はというと——
(頭が痛い)
物理的に、だ。
こめかみがじんじんする。
目立つのが嫌いな人間にとって、これだけの注目を浴び続けるのは、ある種の拷問に等しかった。
できることなら今すぐ家に帰りたい。
お茶を淹れて、静かに本でも読みたい。
だがそれは当分、許されそうにない。
天の声が続く。
『ここで全国の皆様にお知らせでーーす!! 現在この実況、王都だけでなく各地方都市にも届いておりまァーーす!!』
(知ってた)
知っていたが、改めて言われると胃が痛い。
今この瞬間、どんな光景が広がっているのかを想像してしまって、余計に辛くなった。
◇
同じ頃——王都の外れにある酒場では。
「おい聞いてるか!? 王太子が婚約破棄だと!!」
「しかも相手、財政管理まで全部やってた令嬢じゃねえか!!」
「そんで王子はサインだけ? サインだけって何だよ!!」
カウンターに並んだ男たちが、次々と声を上げる。
店主は黙って杯を磨きながら、天井のあたりをじっと見上げていた。
天の声は、店の隅々まで届いている。
「令嬢、気の毒すぎるだろ……」
「いや気の毒どころじゃねえぞ、国が大丈夫なのかそっちの方が心配だ」
市場の一角でも、商人たちが手を止めていた。
野菜の値段より、王家の動向の方がはるかに面白い話題だ。
子連れの母親が、子どもの手を引きながら立ち止まる。
「天の声が動くなんて……めったにないことだよ」
「しかも不祥事の実況なんて、聞いたことないよねえ」
貴族屋敷の応接間でも、夜会から帰宅した者たちが酒を片手に聞き入っていた。
誰もが黙ったまま天の声に耳を傾けて、ときおり顔を見合わせる。
言葉にしなくても、互いの考えていることはわかった。
◇
会場に戻った。
私の意識も戻った。
天の声はまだしゃべっている。
『王城の備品管理台帳、作成者:リリアーヌ!! 年間予算の見直し案、作成者:リリアーヌ!! 隣国との通商条約の草案、作成者:リリアーヌ!!』
(やめて、やめてください、本当に)
声には出せないが、心の中では叫び続けている。
ひとつひとつ読み上げるたびに、会場の貴族たちの顔が少しずつ変わっていく。
驚きから、困惑へ。
困惑から、何か別の——まずいものを見た顔へ。
殿下がようやく口を開いた。
「……それは、婚約者として当然のことを——」
『当然!! さすが王子、太っ腹でございます!! ちなみに"当然"の範囲として、通常の王太子妃候補に求められる業務と比較しますと——』
『通常:社交活動、慈善事業の管理、殿下の公務補佐』
『リリアーヌ嬢:上記に加え、国家財政管理、外交文書精査、税制改善立案、書類整理全般、備品管理、予算見直し』
『以上でございまーーす!!』
長い沈黙が落ちた。
誰も何も言わなかった。
言えなかった、というのが正確かもしれない。
リストを読み上げられたことで、それが単なる噂でも誇張でもなく、きっちり並べられた事実だとわかってしまった。
老齢の公爵が、低くうめいた。
「……これは、まずい」
その一言が、会場の空気を決定的に変えた。
老公爵は王家に近い人物だ。
その人物が「まずい」と言った。
それだけで、周囲の貴族たちの表情に、別の色が混じり始める。
心配、という色だ。
王太子への批判ではなく、国家への——。
私は静かに息を吐いた。
そうだ。
私がやってきた仕事は、別に婚約者への愛情からではなかった。
国が、必要としていたから。
書類が積み上がっていたから。
誰かがやらなければ、どこかが止まるから。
ただそれだけの理由だった。
だが今、それが全国に向けて読み上げられている。
羞恥と、もう少し別の何かが、胸の中で混ざり合って、うまく整理できない。
天の声が、少しだけトーンを変えた。
それまでの陽気さが、わずかに落ち着いた声で。
『さてここで——国家機密に触れる情報をお伝えしまァーーす』
会場が、ぞわりとした。
「国家機密」という言葉が出た瞬間、殿下の顔が今夜で一番青ざめた。
「待て! それは——!」
『現在の王国財政、安全圏を下回っております!! 詳しい数字は控えますが、リリアーヌ嬢が今年提出した税制改善案が通らなければ、向こう三年以内に相当な問題が発生する見通しでございまーーす!!』
完全な、静寂だった。
笑い声も、ざわめきも、何もない。
ただ重い空気だけが、会場を満たしていた。
老公爵が頭を抱えた。
数人の侯爵が顔を見合わせ、小声で何かを話し始めた。
殿下は立ち尽くしたまま、何も言えない。
私も固まっていた。
財政の話は知っていた。
だから改善案を書き続けていた。
だが、それが今ここで語られるとは思っていなかった。
(……これは、さすがに笑えない空気だ)
さっきまで噴き出していた貴族たちも、今は誰も笑っていない。
それだけ重い話だということは、皆が理解している。
天の声が、また少しだけ柔らかくなった。
『なお——この実況には、目的がございます』
また静寂。
今度は、聞き入る種類の静寂だった。
『天の声は、昔の大賢者が作りし"王族監査システム"でございまァーーす』
殿下が息を呑む音が、静かな会場に届いた気がした。
『王族が著しく国益を損なう行動をとったとき——そして国家が危機に瀕する可能性が生じたとき——のみ、起動いたしまァーす』
『つまり今回の起動は、それに相当すると判断されたということでございまァーーす!!』
(……やっぱり楽しんでる)
最後の「でございまァーーす!!」の語尾で、私はそう確信した。
システムが起動したのは深刻な事態だが、声そのものは明らかに愉快そうだ。
大賢者というのは相当な変人だったに違いない。
老公爵が立ち上がった。
その動作は静かだったが、会場全体がそちらへ注目した。
それだけの存在感がある人物だ。
殿下を静かに見据えて、低い声で言った。
「殿下。今夜の件について、改めて王族会議を招集する必要があります」
殿下は何も言えなかった。
言い訳ができる状況ではない、とさすがに気づいたのだろう。
老公爵の一言で、会場の空気がまた変わった。
今度は、決定的に。
王族会議の招集というのは、軽い話ではない。
それを老公爵の口から聞かされた殿下は、ようやく自分が今夜何をしてしまったのかを、少しずつ理解し始めているようだった。
遅すぎる理解だったが。
ミレイアは小さくなったまま、誰とも目を合わせようとしない。
さっきまでの涙はすっかり乾いて、その場にただ立っているだけだった。
私は静かに、壁際の柱に背をもたせかけた。
足が少し疲れていた。
ずっと緊張していたせいだろう。
全身の力を抜きたかったが、この場でそれをするわけにはいかない。
侯爵令嬢として、最低限の姿勢だけは保たなければいけない。
天の声が、また明るくなった。
『さてさてここで皆様お待ちかね——!!』
(待ってない)
待っていないが、止める方法がない。
『現在の支持率を発表しまァーーす!!』
会場全体が、ざわりと揺れた。
支持率、という言葉の意味を呑み込むのに、一瞬かかったのだろう。
私も同じだった。
支持率、とは。
何の。
誰の。
『リリアーヌ嬢——!! 支持率、九十七パーセントォーーッ!!』
歓声が上がった。
貴族の中からではなく——窓の外から。
遠く離れた街の方角から、どよめきのような声が、夜の空気を震わせて届いてきた。
全国で聞いていた人々が、今この瞬間、声を上げている。
私は目を丸くした。
九十七。
パーセント。
(何が起きているんだ……)
『続いて王太子ユリウス殿下——!! 支持率、三パーセントォーーッ!!』
今度は、会場の中から笑いが漏れた。
それも一人や二人ではなく、あちこちから同時に。
貴族たちが必死に口を押さえているが、肩が震えている人が何人もいた。
三パーセント。
王太子の支持率が、三パーセント。
殿下の顔が、今夜で一番奇妙な色になった。
怒りでも悲しみでもなく、ただ呆然としている。
『なお三パーセントの内訳は、王太子殿下本人と側近の皆様でございまァーーす!!』
会場が爆発した。
こらえていた笑いが、全員から同時に溢れた。
老公爵でさえ、口元を手で覆いながら肩を揺らしている。
かつての舞踏会でこれほどの笑い声が上がったことが、果たしてあっただろうか。
(……本人が三パーセントに含まれてるのか)
私も少しだけ、笑いそうになった。
こらえたが、顔が引きつったのは自分でもわかった。
殿下の側近が、耳元で何かを囁いている。
殿下はただ立ち尽くしていた。
ミレイアもまた、完全に存在感を失っていた。
さっきまであれほど注目されていたのに、今は誰も彼女を見ていない。
それが彼女にとって救いなのか苦しみなのか、私には判断がつかなかった。
窓の外の歓声は、まだ続いている。
遠く、遠く——街の向こうまで。
今夜この国で起きたことは、明日には隅々まで広まるだろう。
いや、今夜のうちにもう広まっている。
天の声が、静かに続けた。
『なお財政改善案については、然るべき機関に資料を提出済みでございまァーーす』
老公爵が、静かに頷いた。
その表情は先ほどより、少し穏やかだった。
私はぼんやりと、シャンデリアを見上げた。
今夜始まったとき、これほどの夜になるとは思っていなかった。
婚約破棄は予想外だったが、天の声の実況はさらに予想外だった。
財政の話が全国に届くとは、最も予想外だった。
(……何もかも終わったな)
悪い意味だけではなく。
いろいろなものが、今夜片付いた気がした。
殿下がゆっくりと、私の方へ歩み寄ってきた。
先ほどの勢いは、もうどこにもない。
側近も、ミレイアも、少し後ろに下がっている。
殿下は私の前に立ち、絞り出すような声で言った。
「……リリアーヌ。戻ってきてくれ」
会場がまた静止した。
今度はどんな実況が来るかと、全員が天井を見上げている。
私は静かに殿下を見た。
怒りはなかった。
恨みも、たぶんない。
ただ——疲れていた。
「申し訳ありませんが、殿下」
一呼吸おいて。
「全国放送で婚約破棄された相手に、全国放送で撤回を求めるのは……少々、無理があるかと存じます」
『名言キタァーーッ!!』
天の声が即座に反応した。
会場がまたどっと笑う。
私は笑えなかった。
全力で真顔を保った。
殿下が何か言いかけた、そのときだった。
会場の扉が、静かに開いた。
遅れてきた客が入ってくる——と思った。
違った。
背が高い。
それだけで、会場の空気がふわりと変わった気がした。
黒い礼服を着た、見慣れない顔の男だ。
広い肩幅、落ち着いた歩き方、こちらを見る目に迷いがない。
私は見覚えがなかった。
だが周囲の貴族の何人かが、小声でざわめいた。
「辺境伯……? なぜここに」
辺境伯。
東の辺境を治める、あの。
王都の社交界にはめったに顔を出さない人物だと聞いている。
それが今夜、ここにいた。
天の声が、再び弾けた。
『ここで高身長イケメン辺境伯、参戦だァーーーッ!!』
「参戦」という言葉の物騒さに、会場が沸いた。
辺境伯は実況を気にする様子もなく、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
私の前に立ち、静かに一礼した。
低い声で、ゆっくりと言った。
「リリアーヌ嬢。今夜のことは遠くから耳にしていました」
「辺境では、あなたが作った税制改善案のおかげで、ずいぶん助かっている地域があります。礼を言いに来るのが遅くなりました」
会場が、しん、となった。
笑いではなく、別の種類の静けさだ。
私は少しの間、その言葉の意味を呑み込もうとしていた。
助かっている、という言葉。
遠くの誰かが、私の書いた案のおかげで、助かっていた。
それを知らなかった。
知る機会がなかった。
ただ黙って書いて、提出して——それだけだったから。
「……そうでしたか」
自分の声が、少しだけ掠れた気がした。
辺境伯が静かに続けた。
「よければ、今後も協力を仰ぎたい。王城ではなく、辺境のために」
天の声が、やや落ち着いたトーンで続けた。
『辺境伯、本日の最優秀行動賞でございまァーーす!!』
貴族たちがまたざわめいた。
殿下は何も言えない様子で、ただ立っている。
辺境伯はそちらをちらりと見たが、特に何も言わなかった。
言う必要がないと判断したのかもしれない。
私は深く息を吸った。
今夜一番、ゆっくりとした呼吸だった。
そして天の声が、最後に高らかに響いた。
『本日のMVP発表でございまァーーす!!』
全員が静止した。
『本日のMVP——!! 長年にわたり国家を支え、今夜全国にその功績が届いた——!! 苦労人令嬢リリアーヌーーーッ!!!』
窓の外から、轟くような歓声が上がった。
街中から、遠くの村から——この国のどこかにいる人々の声が、夜の空気に乗って届いてくる。
会場の貴族たちも、今度は惜しみなく拍手をした。
老公爵が、穏やかな顔で手を叩いている。
ブルーデン侯爵も、さっきの能面がどこかへ消えて、珍しく笑っていた。
私はその場に立ったまま、どうすればいいかわからなかった。
お辞儀をした。
ぎこちなく、不格好に。
それでも、するしかなかった。
歓声はしばらく続いた。
やがて天の声が、静かになった。
本当に、静かになった。
もう何も言わない。
今夜の実況は、終わったようだった。
会場は少しずつ、動き始めた。
貴族たちが小声で話し合い、老公爵が側近を呼び、殿下が俯いたまま動かない。
辺境伯は私の少し横に立ったまま、騒ぎが落ち着くのを静かに待っていた。
私はもう一度、シャンデリアを見上げた。
煌めく光は、さっきと何も変わっていない。
ただ、会場の空気だけが——まるごと、今夜塗り替えられていた。
婚約は終わった。
全国放送で。
実績は知れ渡った。
全国放送で。
支持率も、財政の話も、ミレイアの嘘泣きも、殿下のサインだけ問題も。
全部、全国放送で。
(……二度と実況されたくない)
それだけが、今の正直な気持ちだった。
英雄でも悪役でもなく、ただ静かに働きたかった。
それだけを望んでいたのに、今夜の私は国中で一番有名な令嬢になってしまった。
辺境伯がふと、こちらを見た。
「顔色が悪いですが、大丈夫ですか」
「……慣れない夜だったもので」
正直に答えたら、辺境伯が少しだけ笑った。
穏やかな笑い方だった。
「そうですね。今夜のことは一生語り草になるでしょう」
「それは……喜んでいいのかどうか」
「あなたにとっては複雑でしょうが——遠くで助かった人々にとっては、今夜知れてよかったことだと思います」
私はその言葉を、しばらくの間、胸の中に置いた。
遠くで助かった人々。
名前も顔も知らない誰かが、私の書いた紙切れ一枚で、少し楽になった。
それは、悪くない話だった。
恥ずかしいことには変わりないが。
外の歓声は、まだかすかに続いていた。
夜は長く、今夜のことは明日も明後日も話題になるだろう。
リリアーヌという名前は、今後しばらく消えそうにない。
目立ちたくない私にとっては、相当に困った話だ。
だが——まあ。
悪い夜ではなかった、と。
シャンパングラスを、もう一度手に取りながら、そっと思った。
終幕




