星の道の入り口
霧の壁を通り抜けた瞬間、アオイの全身を突き抜けたのは、冷たい水に飛び込んだような鋭い戦慄だった。
視界を覆っていた濃密な白濁が、まるで舞台の幕が上がるように左右へと分かれていく。
その先に広がっていたのは、地上のいかなる風景とも合致しない、静謐で圧倒的な「境界」の景色だった。
「ここは……森の中、じゃないの?」
アオイは思わず立ち尽くし、手にした懐中電灯を落としそうになった。
足元に広がっているのは土でも草でもなく、鏡のように滑らかな、深い藍色の水面のような大地だった。
一歩踏み出すごとに、波紋ではなく銀色の光の粒子が足跡から広がり、心地よい余韻を伴う低音が足裏から響いてくる。
見上げれば、そこには空さえもなかった。
どこまでも続く深い紺青のドーム。
けれど、そこには雲もなく、風もなく、ただ「永遠」という名の沈黙が重く沈殿している。
本来なら、そこにあるべき無数の瞬きは、今はひとつも存在しない。
けれど、アオイの目の前――遥か彼方へと続く一本の道だけが、微かな燐光を帯びて浮かび上がっていた。
その道の入り口に、それは立っていた。
宙に浮かぶ、巨大な「青い扉」だ。
それは星の輝きをそのまま固体に凝縮したような、透き通った鉱物でできていた。
扉の表面には、見たこともない星座の運行図が刻まれ、その溝には液体状の光が、生き物の血流のようにトクトクと流れている。
アオイが吸い寄せられるように扉へ近づこうとした、その時。
扉の前に、一筋の鋭い閃光が走った。
あまりの眩しさにアオイが腕で顔を覆うと、光はゆっくりと人の形に収束し、重力を持たない羽衣のように翻った。
「止まれ、地上の子よ」
その声は、何千もの鈴を同時に鳴らしたような清涼さと、氷の刃のような冷徹さを併せ持っていた。
光が収まったあとに立っていたのは、一人の女性だった。
太陽の光をそのまま紡いだような長い金色の髪が、風もないのにゆらゆらと波打っている。
纏っているのは、白銀の糸で織られた、夜霧のように儚い衣装。
彼女の瞳は、吸い込まれるような深い銀色で、そこには数えきれないほどの時間の集積が宿っていた。
「あなたは……?」
アオイは震える声を振り絞って尋ねた。
「私は、消えた星々の守護者。失われた約束を繋ぎ止め、この門を閉ざし続ける者だ」
守護者は、感情を読み取らせない無機質な瞳でアオイを見つめた。
その視線は、アオイの肉体だけでなく、彼女の胸の奥にある記憶や想いの隅々までを見透かしているようだった。
「……君のような生身の者が、これほど濃い闇と、星の欠片たちの導きを越えてここまで辿り着くとは。稀なことだ、実に。最後の一人がこの門を叩いてから、地上の時間でどれほどの歳月が流れたことか」
守護者は静かに歩みを進めた。
彼女が動くたび、周囲の藍色の空間に美しい幾何学模様の光が明滅する。
「星を……取り戻したいんです」
アオイは、リュックの中から図書館で見つけた古書を、祈るように胸に抱えて言った。
「おばあちゃんから聞いたんです。星は消えたんじゃなくて、約束を待っているんだって。都市の人たちはみんな忘れてしまったけれど、私は……私は、あの空を取り戻したい!」
守護者の唇が、微かに、皮肉めいた形に歪んだ。
「取り戻す、か。安易な言葉だな、地上の子よ。君たちの種族は、自らの手で夜を殺し、光という名の傲慢で星を追い出したのだ。今さら一人の少女が現れて、失われた宇宙を買い戻せると思うのか?」
守護者の背後で、青い扉が重低音を響かせて共鳴した。
「この扉の先には、君の想像を絶する『空虚』が広がっている。約束を破られ、輝きを奪われた星々の怨嗟と寂しさが、形を持って君を食い尽くすだろう。それでも進むというのか? 誰もいない場所で、誰にも知られず、ただ消えていくかもしれないというのに」
アオイは一瞬、足がすくむのを感じた。
都市の暖かな灯り、友達の笑い声、屋根裏部屋のベッド。
それらが急に、たまらなく愛おしく、手の届かない場所にあるように感じられた。
ここを一歩越えれば、本当にもう戻れないかもしれない。
けれど、その時。
アオイの指先に、森で出会った「光の粒」たちが、そっと寄り添った。
それは彼女を励ますような、小さな、けれど確かな体温。
「……約束は、片方だけじゃ守れない。星たちが待っているなら、私も行かなくちゃいけないんです」
アオイの瞳から迷いが消え、まっすぐな光が宿った。
「私には、まだこの胸の中に、おばあちゃんから貰った『星を想う光』が残っています。これが、この道を進む力になると信じています」
守護者は長い沈黙のあと、ゆっくりと目を閉じた。
そして、流れるような所作で、背後の巨大な扉へと手をかざした。
「ならば、その覚悟が真実か否か、確かめさせてもらおう。この扉は、君の心が望むものだけを見せる鏡だ。試練に耐え、己の中の光を失わずに済むならば、星の約束は再び結ばれるだろう」
ゴ、ゴ、ゴ……という地鳴りのような音と共に、青い扉が内側へと開き始めた。
隙間からは、暴力的なまでの白銀の光が溢れ出し、アオイの視界を真っ白に塗りつぶしていく。
「進むがいい、地上の子よ。星の道が、君の魂を導く灯火となることを」
守護者の声が、遠ざかる意識の中で最後の一葉のように舞い落ちた。
アオイは目を開けたまま、その光の深淵へと足を踏み入れた。
そこは、物理的な法則が完全に消え去り、自分自身の「心」だけが羅針盤となる、果てしない試練の始まりだった。




