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境界を越えて

 都市の「端」は、唐突に訪れた。


 それは、目も眩むような光の不夜城が力尽きた場所。

 あるいは、文明という名の傲慢がこれ以上の侵食を諦めた絶壁のような境界線だった。

 アオイの背後では、天を突く高層ビル群が巨大な発光する生体のように脈打ち、数百万の人々の欲望を吸い上げては空を赤茶色に濁らせている。

 しかし、彼女の目の前に広がっているのは、それらすべてを拒絶するような、底の知れない深い「闇」だった。


「……ここから先が、忘れられた野原」


 アオイは、都市を囲う高いフェンスの綻びの前に立ち、小さく息を吐いた。

 吐き出した息は、都市の暖房の余熱を失い、微かに白く濁った。

 かつて人々が「自然」と呼んでいたものは、今や都市の住民にとって「未整備の廃棄物」と同義だった。

 地図には空白として描かれ、学校では「危険で不潔な無価値の地」として教えられる場所。


 アオイはリュックの紐を強く締め直し、錆びついた鉄格子を潜り抜けた。

 一歩。

 足元で、アスファルトではない「土」が、重く、湿った音を立てた。

 二歩。

 背後のネオンの残光が、彼女の影を前方の闇へと細長く引き伸ばしていく。


 十歩も進むと、驚くべきことが起きた。

 あんなに騒がしかった都市の喧騒が、まるで見えない壁に遮られたかのように、急速に遠のいていったのだ。

 空気を震わせていた電子音や乗り物の轟音が消え、代わりに、耳が痛くなるほどの「沈黙」が押し寄せてきた。


 いや、それは沈黙ではなかった。

 風がカサカサと枯れ草を揺らす音。

 自分の肺が酸素を求める、湿った呼吸の音。

 そして、これまでの人生で一度も意識したことのなかった、自分の心臓が刻むトクトクという力強い鼓動。

 アオイは立ち止まり、暗闇に目を凝らした。

 最初は何も見えなかった。

 光を浴びすぎた彼女の網膜は、闇に順応する術を忘れていたからだ。

 しかし、数分が経過し、瞳孔が最大限に開かれると、闇はただの黒ではなく、幾層にも重なる深い灰色の階層であることを教えてくれた。


 背の高いススキのような草が、幽霊のように白く波打っている。

 遠くには、都市の光を吸い込んで巨大な怪獣の背中のように見える低い山並み。

 そして何より、足元から立ち上る「大地の匂い」が、彼女の脳を直接揺さぶった。

 それは図書館の古書の匂いに似ていたが、もっと剥き出しで、冷たく、生命の循環を感じさせる力強い香りだった。


「怖い……けれど、空気が美味しい」


 アオイは小さな懐中電灯を点けた。

 細い光の矢が闇を貫き、数メートル先の地面を照らし出す。

 そこには、長い間誰も歩いていないはずの、微かな踏み跡が残っていた。

 図書館の本に記されていた「星の道」の続きだろうか。

 彼女は、祖母の古い地図と図書館の古書を照らし合わせた。


『境界を越えし時、足元の光を消せ。真の道は、瞳の裏の静寂にこそ現れる』


 古書の一節が脳裏をよぎる。

 アオイは躊躇した。

 この暗闇の中で唯一の味方であるライトを消すのは、視力を失うに等しい恐怖だった。

 けれど、彼女は震える指でスイッチを押した。


 カチリ。


 完全な暗黒が彼女を包んだ。

 途端に、平衡感覚が失われ、奈落に落ちるような錯覚に陥る。

 アオイは膝をつき、湿った土に両手を突き立てた。

「おばあちゃん……助けて」

 祈るように目を閉じ、周囲の音を聴いた。


 すると、どうだろう。

 数分後、目をゆっくりと開けたアオイの視界に、不思議な現象が起きた。

 遠くの都市の光彩――あの赤茶色の濁りが、地平線の向こう側に押し込められ、彼女の真上には、これまで見たこともないような「透明な深淵」が広がっていたのだ。

 

 星は見えない。

 まだ、ひとつも見えない。

 けれど、そこには「何かがある」という気配が満ちていた。

 そして、彼女が進むべき道の先――野原の向こう側に広がる古い森の入り口が、微かに、本当に微かに、青白い燐光りんこうを帯びて浮かび上がっているのに気づいた。


「あれが……門へと続く道なの?」


 アオイは立ち上がり、泥を払った。

 不思議なことに、ライトを点けていた時よりも、闇の中の輪郭がはっきりと見えていた。

 彼女の身体が、眠っていた「夜の感覚」を取り戻し始めていたのだ。


 彼女は歩き始めた。

 アスファルトに慣れた足には、凸凹の土路は厳しかった。

 茨が彼女の足首を掠め、小さな傷を作る。

 けれど、一歩進むごとに、身体の中から重い何かが剥がれ落ちていくような爽快感があった。

 都市で彼女を縛り付けていた、名前も知らない不安や、終わりのない情報の奔流。

 それらが、この圧倒的な闇の前では、あまりにも卑小で無意味なものに感じられた。


 振り返ると、都市はまるで遠い星系の出来事のように、地平線の下で醜く輝いている。

 あそこには、何百万の人々がいて、今も光の中で孤独に耐えている。

 でも、私はもうあそこにはいない。


 アオイの視線の先、古い森がその巨大な影を広げ、彼女を招いていた。

 そこは、光に汚されることを拒んだ者たちが最後に逃げ込んだ、生命の隠れ家。

 彼女は、懐の中の本をそっと撫でた。

 

「今行くよ。待っていて」


 少女は闇を恐れるのをやめた。

 闇とは、光を隠すものではなく、真実の輝きを見つけ出すための「背景」なのだということを、彼女は本能で理解し始めていた。


 静寂の野原を横切り、彼女の足跡は、かつて星たちが歩いたという光の航路へと、深く刻まれていった。

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