光のない空
その街に、夜はなかった。
巨大な摩天楼の壁面を埋め尽くす電子広告が、真昼よりも毒々しい極彩色の光を絶え間なく撒き散らし、網膜を灼くようなネオンの奔流が路地の隅々までを洗い流している。
人々はその光の檻の中で、目まぐるしく変化するデジタルな数字や、指先ひとつで消費される情報の渦に夢中になっていた。
誰もが足元か、あるいは手のひらの中にある小さな端末の画面だけを凝視し、重力に逆らって首を持ち上げることを、とうの昔に忘れてしまっていたのだ。
アオイは、その喧騒の中心にそびえる古いアパートの、最も空に近い屋根裏部屋に住んでいた。
彼女の部屋の窓は、周囲のビル群が放つ光を反射して銀色に濁っていた。
アオイは毎晩、その窓の汚れを丁寧に拭い、僅かな隙間から見える空の「残骸」を見つめるのが日課だった。
けれど、そこにあるのは深い紺青でも、吸い込まれるような黒でもない。
都市が吐き出した人工的な光が、大気中の塵と混ざり合い、ぼんやりと赤茶けて濁った、生命感のない「幕」のような何かだった。
「……おばあちゃん。今日はね、雲の向こうに、ひとつも瞬きが見えないよ」
アオイは、ベッドの傍らに置かれた古い木製の手箱にそっと手を触れた。
それは、数年前に静かに眠りについた祖母が遺した唯一の形見だった。
祖母は、この街がまだこれほど眩しくなかった頃の話を、まるでお伽話のように聞かせてくれたものだった。
『アオイ、いいかい。夜空にはね、かつて約束を交わした星たちがいたんだよ』
祖母の声は、いつも枯れ葉が触れ合うようなカサカサとした、けれど温かな響きを帯びていた。
『約束、なの?』
『そう。星たちはね、地上の人々に「希望」という名の灯火を届けるために、暗闇の中で命を削って輝いているんだ。彼らは約束したのさ。人々が孤独に震える夜、必ず空から見守っているよ、と。でもね……その約束が忘れ去られ、誰も星を必要としなくなったとき、彼らはその輝きを維持できなくなって、ひとつ、またひとつと瞳を閉じるように消えてしまうんだよ』
アオイは幼心に、その話が悲しくて仕方がなかった。
星たちが約束を守るために必死に輝いているのに、人間たちがそれを忘れてしまうなんて、なんて残酷なことだろう。
成長したアオイを取り巻く現実は、祖母の話よりもずっと無機質だった。
学校の先生は「星が見えないのは大気汚染と光害のせいだ」と教科書通りの答えを述べ、街の友人たちは「見えもしない星を探すなんて時間の無駄だ。
それより新しいホログラム・ゲームを見ようぜ」と笑った。
誰も、星との約束なんて信じていなかった。
けれど、アオイの胸の奥には、消えない「違和感」がトゲのように刺さっていた。
この眩しすぎる都市で、どれだけ贅沢な光に包まれていても、人々の心はどこか渇き、疲れ果てているように見えた。
隣に座る人の顔さえ見ようとせず、孤独を癒すためにさらに強い刺激的な光を求める。
それは、空から見守ってくれる「繋がり」を失った者たちの、彷徨える姿に見えてならなかった。
ある夜。街で最大の記念祭が催され、都市はかつてないほどの輝きに包まれた。
地上のあらゆる照明が空を突き刺し、巨大なホログラムの龍が空を舞う。
人々は歓声を上げ、その贅沢な光の饗宴に酔いしれていた。
アオイは、その熱狂から逃れるようにして屋上へ駆け上がった。
屋上のフェンスに縋り付き、彼女は精一杯、顎を上げた。
眩しさに目が眩み、涙がこぼれ落ちる。
けれど、その涙の膜越しに見た空は、悲しいほどに空虚だった。
派手なホログラムの裏側で、本物の宇宙は死んでいるかのように沈黙していた。
(もし……もしも、消えた星の約束を取り戻すことができたら……?)
その思考は、最初は微かな火花のようなものだった。
けれど、一度芽生えたその想いは、アオイの全身を駆け巡り、静かな、けれど抗いがたい「渇望」へと変わっていった。
誰にも見えないのなら、私が見つけに行こう。
誰の耳にも届かないのなら、私がその約束を聴きに行こう。
アオイは、都市の喧騒が遠く響く屋上で、自分の胸に手を当てた。
そこには、祖母から受け継いだ「星を愛する心」が、小さな鼓動となって脈打っている。
それは、この不夜城のどんなネオンよりも微弱で、けれど決して消えることのない、唯一の「本物の光」のように思えた。
アオイは部屋に戻ると、一足の履き慣れた靴と、祖母の古い地図、そして僅かな食料をカバンに詰め込んだ。
振り返ると、窓の向こうで都市の光が嘲笑うように明滅している。
「行ってくるね、おばあちゃん」
アオイは、小さな懐中電灯ひとつを握りしめ、扉を開けた。
階段を駆け下りる足音は、喧騒にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
けれど、彼女が一歩外へ踏み出した瞬間、濁った空の向こう側で、長い間眠っていた「何か」が、微かに、本当に微かに身じろぎをしたような気がした。
それは、星を取り戻すための、そして自分自身の魂を繋ぎ止めるための、果てしない旅の始まりだった。
街明かりの届かない、本当の「夜」を探して、少女は歩き始めた。




