慈雨に笑う
美雨は激しく、雨風が吹きすさぶ中で歩いていた。
木々が倒れそうなくらいにたわみ、揺れる。ごぉと唸る音も絶えず聞こえていた。それらにも臆さずに歩く足を止めない。ひたすらにある一箇所を目指す。
しばらくして、たどり着いたのは。小さな祠がある滝だった。滝も強風に煽られ、飛沫がたくさん周りに散らばる。美雨はそれを眺めながら、小さな声である名を囁いた。
「……水神様、いえ。蒼乃様」
『……よう来たのう、巫女』
リンと涼やかな鈴の音と共に高らかな澄んだ女人とおぼしき声が彼女の頭の中に響く。そして、滝の周りだけがぼんやりと薄く光る。淡い蒼の燐光が照らしていた。その光の一つが美雨に近づく。段々と大きくなり、地に降り立った。
それは人の形に変わり、はっきりと女人の姿になる。青銀の真っ直ぐな髪を複雑に結い上げ、両方の耳朶には小さな青玉の耳飾りをつけて。身に纏う衣は遠い大陸伝来の上衣、色鮮やかな裳と古代風だ。肩から腕にかけては領巾と呼ばれる薄布を纏う。
「お元気そうで何よりです」
『ふふ、お主もな。巫女や、して。何用でこちらに?』
「ええ、少しお話をしたくて。そのために参りました」
美雨が言うと、女人こと、蒼乃は小首を傾げた。しゃらりと頭に挿した簪の歩揺や耳飾りが微かに鳴る。
『話かや?』
「そうです、蒼乃様。私も既に三十どころか、四十になりました。そろそろ、巫女のお役目を若い娘に任せて身を引きたいと思いまして」
『……そうかや、寂しくなるの』
「申し訳ありませぬ、次の巫女は私の姪で名を浮月と言って。なかなかに朗らかで利発な娘です。きっと、蒼乃様のお役に立ちましょう」
『お主と会えなくなるが、仕方ないの。分かった、浮月とやらの事は覚えておく故。達者でな、美雨』
美雨は深々と辞儀をした。蒼乃は大陸伝来の衣の女人の姿から。一気に、立派な角がある龍に変化する。たちまち、蒼の燐光は消え失せ、辺りは嵐に逆戻りした。けれど、蒼乃は自身の体で美雨を庇う。
『息災での』
美雨は叩きつける強風や雨の中、大きく頷いた。蒼乃は美しい名前や女人の姿にあった髪と同じ色の鱗を煌めかせながら、曇天の空を見上げる。ごぉっと唸る風を起こし、空へと舞い上がった。悲しげに淡い翡翠の瞳を美雨へ向ける。が、すぐに蒼乃は再度、上を目指す。美雨は腕や着ていた衣の袖で瞳や顔を庇いながら、それを見守った。
不思議と苦にはならない。蒼乃の空を飛ぶ姿は美しく、神々しいばかりだ。美雨はその姿が見えなくなるまで滝や祠の場に留まったのだった。
蒼乃が天に戻った途端に嵐はやみ、静けさが夜に戻る。美雨はびしょ濡れの髪や衣のまま、雲が晴れ、姿を現す月を見つめていた。
(……蒼乃様は無事にお戻りになった、私も帰らねば)
そう思い、滝から踵を返す。背中を向けた。ゆっくりと来た道を戻る。その足は確かなものだった。
美雨はやっと、自身が暮らす館に帰り着く。そこには昔から、世話役を任されていた老婆の柚奈や同じ巫女の弥栄、護衛の夜綱、真綱の四人が待ち構えていた。
「あ、美雨様。やっと、お戻りになりましたね!」
「待たせて悪かったわね、柚奈」
「ほんに全くです、水神様は無事に?」
「ええ、天にお戻りになったわ」
「良かった、どうなるかと心配していたんですよ。美雨殿」
「……弥栄さん」
柚奈と弥栄は互いに目線を交わし合う。
「美雨殿、あなたや私も巫女を退く時が来ましたね」
「そうね、弥栄さん。私、あなたや柚奈達がいたから今までやってこれたと言えるわ。ありがとう」
美雨が礼を述べる。弥栄も同じく、言った。
「ありがとうは私の言葉ですよ、美雨殿。一月後には新しい巫女が来ます。それまでに館を出るけど」
「あら、そうね。けど、私は行く宛がないわ」
「……美雨殿、もし良ければ。私の兄と会ってみませんか?」
「どうして?」
「もう、美雨様は鈍くていらっしゃる。弥栄様はお見合いをなさってはと遠回しにおっしゃっているのですよ!」
焦れたらしい柚奈に美雨は言われ、黒く切れ長な瞳を大きく開いた。
「お見合い?」
「そうです、美雨殿。さ、もう夜も遅いし。湯浴みをして休みましょう」
「分かったわ、弥栄さん」
頷き、美雨は柚奈や弥栄と三人で館に入る。残された夜綱と真綱は苦笑いしながら、見送った。
あれから、一月が過ぎた。美雨は弥栄の実家である屋敷に居候させてもらっていた。元がつくとはいえ、この東名の国の守り神の巫女であったからか、丁重に扱われている。
美雨はさすがに、毎日を遊び暮らすのには抵抗があった。なので、弥栄に頼んで簡単な仕事を回してもらっている。元来、美雨は平民の出身だ。余計にのんびりするのは性に合わない。
「おや、美雨様。今日も精が出るな」
「あ、萌木様!」
声を掛けてきた背の高い青年に美雨は振り返る。そこには肩まである髪を後ろに一束ねにして濃い藍色の衣を身に纏う青年が佇んでいた。髪は東名には珍しい淡い栗毛色で瞳も翡翠の麗しい美男だ。
「元気そうで何よりだが、仕事はせずとも大丈夫だぞ」
「その、体を動かしていないと落ち着かなくて」
「はは、美雨様。そろそろ、俺の妻になる事も考えてほしいんだがな。ずっと、待つのも意外と辛いものでな」
からりと青年もとい、萌木は笑う。たちまち、美雨は落ち着かない。
「萌木様、私は四十の老婆と言っても良い者。妻になさらない方が賢明よ」
「なあに、俺もあなたと同い年。そんなに気にはせぬよ」
「はあ、そう言われても」
美雨は肩を落とす。萌木は一気に間合いを詰めた。あまりの早業に、声も出ない。
「美雨様、早く婚姻した方が良いぞ。御仏に仕えたいと言うなら、話は別だが」
「あの、萌木様?」
萌木はおもむろに美雨の両肩に手を置く。じっと見つめられた。
「……あなたには言っておく、守り神の巫女はその任から外れると。男龍が欲すると古来から伝えられていてな。守り神は女龍だが」
「それはどう言う……」
「いくら、四十になるとはいえだ。あなたがまだ、生娘と言えるのは知っている。早めに男を知らぬと、男龍がいつ来るか分からん。要はだ、女龍であった守り神の代わりに妻にならされるぞ」
具体的に言われて美雨はあまりに驚き、声が出ない。萌木は両肩から手を離した。
「……分かった、あなたの妻になるわ」
「すまないな、時間がない故。七日後には婚姻の儀を行う。そのつもりでいてくれ」
美雨が小さく頷く。萌木はそれを見て、小さく息をついた。
「では、美雨様。またな」
美雨は黙って彼を見送る。萌木は若干、罪悪感を持ちながらもその場を去った。
七日後、本当に美雨は婚姻の儀を迎える。萌木は穏やかに優しく、彼女を慈しんだ。名実ともに妻になり、遅い春を迎えた。
萌木は初夜を済ませた翌日、改めて守り神の言い伝えに隠された事実を説明してくれた。
「……美雨、あなたには婚姻の前に言ったが。あれには続きがある」
「どう言う事?」
「守り神は本当は二柱いらしてな、古来から男龍と女龍の片割れが交代で守り神をしておられたんだ。けど、いつしか。女龍がほぼ、守り神だと信じられるようになった。そのせいで国が荒れるようになる」
「成程、ならば。女龍に仕えていた巫女は……」
「ああ、国の重鎮達は荒れる理由を考えた。そして、最初は食べ物やお神酒などを供え、男龍を鎮めたり、時には美しい娘達に舞いや歌を興じさせたり。ありとあらゆる事を試したんだ。けれど、なかなか男龍の怒りは解けなかった。仕方なく、最後の手段として女龍に仕えていた巫女を差し出した」
「……はっきり言うと、生け贄ね」
美雨が答えると、萌木は頷く。
「そうだ、巫女を辞めた女人達は必ず一人は男龍への生け贄にさせられた。つまり、あの滝壺に飛び込まされ、生涯を終えた女人達が多く出たんだ。俺は代々、巫女を輩出した家に生まれ着いたからな。亡き祖母上からこの事柄を聞かされていた」
「そうだったのね」
「だから、俺や弥栄、主上と三人で考えた。これ以上の犠牲を出さぬためにはどうしたらいいのかをな」
「と言うと?」
「女龍に天に戻っていただき、男龍を鎮める手助けを願ったんだ。代わりに、弥栄やあなたには早めに婚姻してもらい、生娘のままでいさせぬようにしてな。で、主上や新しい巫女から男龍に詫びてもらう手筈だ。まあ、ちゃんと男龍には国の守り神だと民達に教えていく事を約しておかないといけないんだが」
「男龍様は分かってくださるかしらね」
美雨は憂い顔をする。だが、萌木はからりと笑った。
「分かるようには俺達も働きかけるよ、美雨は安心して屋敷で待ってくれていたら良い」
「分かったわ、萌木様を信じる」
「俺の事は萌木で構わんよ、美雨」
「……それもそうね、萌木」
顔をたちまち、赤らめた美雨だが。萌木は彼女を抱き寄せた。
「美雨、男龍への祈りの儀は三日後だ」
「うん、頑張ってね、萌木」
頷きながら、萌木は抱きしめる力を強めた。
三日後、無事に祈りの儀は終わる。男龍は巫女を生け贄にするのを嫌がっていたらしい。古来からずっとだ。けれど、ヒトが寄越すから仕方なく、受け入れていた。巫女達は男龍の妻ではない。そう、彼は告げたらしい。
萌木から聞かされた美雨は酷く驚いた。まさか、そんな事実があったとは。
男龍は自身を再度、守り神と認めた主上、東名の王に約したという。女龍と共にこの国を見守っていくと。また、何かあれば、新しい巫女を通して伝えよう。そう言葉を残し、男龍は天へと昇っていった。
美雨は肩の荷がようやく、降りたように感じる。ほっと胸を撫で下ろした。
ふと、屋敷の中から空を眺める。雲が棚引き、にわか雨が降っていた。美雨は笑う。
すぐにやんでしまったが。代わりに、七色の虹が架かる。東名では虹は禍々しいと忌まれる事が多い。けれど、美雨は嫌いではなかった。
「あら、珍しい。空に七色、綺麗だわ」
美雨は呟き、笑みを深める。七色の虹は消えずに輝いていた。
――完――




