最終章 ファナの告白〜伝説の終わりに
ファナは、ヤンとシェンナの待つ家に帰宅した。
シェンナはファナの好物を、たくさん作ってくれた。
二人ともなにも聞かず、ただ優しくしてくれる。
泉のほとりで大泣きしたせいか、気持ちがだいぶ楽になっていた。
兄と兄嫁と──大好きな二人に挟まれて、どうということのない話をしていると、これまでのことはすべて夢だったのではないかと思えてくる。
古いランプも、質素な絨毯も、この小さな家の中にアレクシーザを思い出させるものはなにもない。
慎ましく、おだやかな、日常だけがあった。
これから先もずっと、ファナはこの村で、こんなふうに暮らしてゆくのだ。
いつか結婚して、子供を産んで、平和におだやかに……。
彼とはまったく別の世界で。
食事を終えると、ファナは早めに横になった。
床に敷物を置いただけの寝床で、薄い毛布にくるまって、なかなか寝つけずに低い天井を見上げていると、遠くから馬の足音が近づいてきた。
ファナは寝巻きのまま、そっと家から抜け出した。
(まさか……)
そう思いつつも、彼が会いにくるだろうという予感はあった。
ファナたちはまだ、別れの挨拶をしていない。
闇の中から浮かび上がるように、白い馬に乗った金色の髪の彼が現れた。
家の前に立っているファナを見て、アレクシーザは少し驚いた顔をした。
「おれを、待っていたのか?」
ファナはうなずいた。
アレクシーザの眼差しが、切なそうに揺れる。
「では、つきあえ」
馬上から優しい顔で手を差し伸べ、ファナを引き上げた。
白い寝巻きのまま、ファナは彼に身をゆだねる。
はじめて彼と馬に乗って、夜の草原を駆けたあの夜よりも、もっと切ない、あたたかい、愛しい気持ちで、彼の腕にすっぽりと包まれて、背中に彼の鼓動や吐息や、彼の香りを感じていた。
今、このひとは、どんな顔をしているのだろう……。
風も草も静かで、月に照らされた草原は深い湖のようだ。
ファナは海を見たことがない。
けれど彼の故郷の海も、こんなふうに静かに凪いでいるのだろうか。
やがて、いつも二人で並んで火の鳥を待っていた岩山に辿りついた。
馬から降り、岩棚まで登る。
彼がファナの肩を抱き寄せ、マントでくるんだ。
いつもと同じで──きっと最後の……。
月が青い光を振りまき、草がキラキラと輝いている。それがずっと、ずっと、遠くまで続いている。
最初に口を開いたのは、ファナだった。
「アレクシーザさまは、火の鳥を捕まえようとした姫君の話を知ってる?」
朗らかで、屈託のない口調で、尋ねる。
アレクシーザが、
「いいや」
と答えると、ミリヤムの書斎で仕入れた絵物語を、やっぱり明るい声で語りはじめた。
「彼女は、とてもお転婆な姫君だったの。父王さまが火の鳥を捕らえたものに姫を嫁にやるというお布令を出したので、誰とも結婚したくなかったお姫さまは、自分で火の鳥を捕まえようと思い立ったのよ」
「それは勇敢だな」
彼も、おだやかな口調で言う。
深い眼差しが、すぐ隣でファナを見つめている。泣きたくなるような眼差しだった。
「そう、彼女はとても勇敢だったの。お城をこっそり抜け出して、男の子の服を着て、火の鳥を探しに出かけたの」
姫君のスリリングな冒険を、ファナは陽気にしゃべり続けた。
旅の途中で出会った吟遊詩人と姫君は、喧嘩をしながら、しだいに愛し合うようになる。
東の大国の後継者争いに巻き込まれ、ひょんなことから吟遊詩人は救国の英雄として国王になった。
火の鳥を追ってきた姫君は、神鳥の導きにより、自分の花婿を見つけたのだ。
「それからふたりは、とても幸せに暮らして……」
ファナの声がつまった。
今度はアレクシーザが語る番だった。
「大陸を西へ進み、海をへだてたその向こうに、おれの国がある。大理石の建物が立ち並ぶ美しい国だ」
彼は目を細め、愛おしげに祖国について話した。
草原と、
海と、
自分たちは、なんて違う世界で生を受けて、別々の暮らしをしてきたのだろうと、ファナは思った。
こんなに、なにもかもが違うふたりが、今こうして世界にふたりきりしか存在していないみたいに寄り添っているのが不思議だった。
「おれと一緒に来るか? ファナ」
ふいに、彼が言った。
ファナは泣き笑いしながら答えた。
「あたしは、火の鳥を捕まえに行った姫君とは違うから。そういうひとじゃなければ、王さまの隣にい続けることはできないんです」
彼もあたたかな眼差しで、尋ねる。
「ここが好きか?」
「世界で一番大好きです」
ファナを見つめる彼の口もとに、切ない──優しい、笑みがにじむ。
最初からファナの答えを予想していたような笑いかただった。
「おれもここが好きだった。草の海も、古い神殿も、この岩山も……この場所で、いつもおれの隣にいてくれた小さな優しい娘も……」
ファナは彼をじっと見上げた。
彼もファナを見つめた。
こんなふうに愛しさがあふれそうな目で、お互いに見つめあったことはなかった。
熱を帯びた手のひらが、ファナの頬にふれた。
ファナは息を止めた。
けれど彼はなんの印も残さずに、手を引いた。
残さないことが、きっと彼の思いやりだった。
「……明日、本国へ立つ」
「はい……」
そうとしか、ファナには言えなかった。
◇◇◇
翌朝。
アレクシーザは、すべての兵を岩山の前に集合させた。
自分は金の鎧に赤いマント、鳥の羽を飾った兜の正装で岩棚に立ち、そこから張りのあるよく通る声で、呼びかけた。
「本国は、おれを討つよう命をくだした。おれはもう王子ではない。反逆者だ。それでもおれについて来るか?」
みんな口々に、もちろんだ、と叫んだ。
彼らにとっては、長い遠征をともに戦ってきたアレクシーザこそが正義であり、神だった。
ファナは少し離れた場所で、この歴史的場面をじっと見つめていた。
「この地に伝わる昔話で、王となる運命を持つ者の前に、赤い羽の神鳥が現れるという。しかしおれは、もう神鳥など待たない。やつの承認なぞいらない。王になるかどうかを決めるのは、このおれ、アレクシーザだ。見ろ!」
アレクシーザはマントを片手で取り去り、空高く投げ上げた。
あざやかな赤いマントに太陽が反射し、まぶしく輝く。
風をはらんで、大きく広がり、揺れながら空をただよう赤いマントは、まるで一羽の真紅の大鳥だった。
(火の鳥だわ!)
ファナの心に強い衝撃が走った。
火の鳥だ!
あれは火の鳥だ!
アレクシーザは自分の意志で、火の鳥を呼んだのだ。火の鳥に選ばれたのではない。彼が選んだのだ。
なんてひとだろう。
なんという勇者だろう。
彼こそ、王になるひとだ!
「未来の国王、万歳!」
「アレクシーザさま、万歳!」
兵士たちは熱狂し、叫びあった。
アレクシーザ! アレクシーザ! アレクシーザ! と、空気を震わせるほどの大歓声が巻き起こる。
ファナは感動で震えが止まらない。
アレクシーザは岩山から降り、白い馬にまたがり、全軍に進行の命令を発した。
馬と人が、いっせいに大地を踏み鳴らし、移動をはじめる。
先頭に立つ羽のついた兜を、ファナは胸を熱くしながら見つめていた。
それがだんだん小さくなっていったとき──。
バサッ、バサッという羽音が、ファナの耳をかすった。
そしてファナは見たのだ。
西の空に向かって飛ぶ、真紅の翼の鳥を──!
アレクシーザの意志の力が、ついに幻の神鳥を動かしたのだ。
火の鳥は長い尾を揺らし、ものすごい速さで上へ上へと上昇を続け、太陽に溶け込むように消えた。
ファナの中で、なにかが吹っ切れた。
伝説の神鳥は、確かにファナに勇気を与え、ファナの背中を押した。
軍が進んでゆく方向へ、ファナは走り出していた。
近道を通れば、間に合うかもしれない。
もう一度──もう一度だけ、アレクシーザに会わなければ。
ファナはまだ、彼になにも伝えていない。
ずっと気持ちを偽ってきた。
彼を恐れ、避けていた。
そんなことをした自分は、なんて臆病で愚かな子供だったのだろう。
これほど強い想いを、この先ずっと胸に抱えたまま生きてゆくことなどできはしないのに。
草原を横切り、なだらかに続く丘を駆け登ったとき、下のほうにアレクシーザの兜の白い羽が見えた。
「アレクシーザさまぁっ!」
小さな体中で、ファナは叫んだ。
「好きです! あなたが大好きです!」
軍隊が歩みを止めた。
先頭のアレクシーザが、ゆっくりとファナのほうを振りあおぐ。
その顔は、驚きに満ちていた。
「愛してます!」
なんのためらいもなく、ファナはその言葉を口にしていた。
そうとも、これは愛だ。
愛以外のなにが、内気なファナをここまで大胆にさせるだろう。
はじめて会ったときからファナは彼を愛していたのだ。
人生のすべてを投げつけるように、ファナは叫び続けた。
「ずっと好きです! 忘れません! ずっとずっと、愛してます!」
アレクシーザの馬が、風のように丘を駆けあがってきた。
ファナは我に返って慌てたが、そのときにはもう彼はファナの前まで来ていた。
馬上から伸ばされた腕が、ファナを腰をすくいとるように抱き寄せる。
ファナの足が宙に浮いた。
腰をかがめ、アレクシーザはファナの唇に自分の唇を強く押しつけた。
すべての音が、
すべての風景が、
ファナの周りから消える。
ただ、燃えるように熱い唇と、ファナを支える力強い腕だけを感じていた。
永遠かと思われる時間が終わり、アレクシーザはファナを草の上にそっとおろした。
哀しいわけではないのに、ファナの目から涙がこぼれた。
アレクシーザは、愛しい、優しい眼差しでファナを見つめ、笑った。
さよならとは、どちらも言わなかった。
馬首を返し、彼は丘を駆けくだっていった。
軍勢が、再び動き出す。
今度こそ本当にお別れだった。
ファナは泣きながら、彼を見送り続けた。
もう二度と会うことはないだろうけど、それでもいい気がした。
今日のこの別れのために、自分たちは出会ったのだと思った。
(大好きよ)
心の中でファナはつぶやいた。
(これからもずっと好きよ。ずっと……)
忘れない──。
神話のようだったあの日々は、現実にあったのだ。
ファナは彼の隣にいたのだ。
そのことを、今では誇らしく思う。
彼を愛した自分を、愛しく思える。
きっとアレクシーザもファナを忘れないだろう。
この先、どんなに愛するひとが現れても、ファナのことを覚えているだろう。
彼がルル=ムゥと呼んだ、小さな草原の娘を──。
ふたりの出会いは双方にとって、人生から与えられた贈り物だった。
軍勢はもうずっと小さくなっていた。
手を胸の前で組み合わせ、ファナは彼を見送り続けた。
彼と自分のこれからの人生が、幸いであることを祈りながら。
「さよなら」
そうつぶやいたファナは、少女の時代を終えようとしていた。
◇◇◇
ヘレスに帰国した英雄アレクシーザは、民衆の圧倒的な支持を得て父と兄たちを追放し、ヘレスの王となり、伝説となった。
彼は一回目の東征の際、草原でまだあどけない一人の巫女に出会い、王となる運命を示されたという。
ファナもまた、伝説になった。
そして──。
王となり、国を平定したあと、アレクシーザは再び東の大陸を目指して進軍する。
二度目の東征により、空前絶後の大帝国を築きあげた彼は、海に浮かぶ大理石の都へ戻ることはなかった。
稀代の英雄が、大陸のどこで、どのように命を終えたのかは諸説あり、さだかではない。