四章 火の鳥【クリール】を呼ぶ者
オリエンカとイスデル兄妹を先頭に、アレクシーザとファナ、マティス卿とケインとレオナール、それに旅の行商人の計八人は、東へ向かって馬を走らせた。
オリエンカはアレクシーザの馬に同乗し、ファナはイスデルの馬に乗せてもらい小さくなっている。
最初アレクシーザはファナを自分の馬に乗せようとしたのだが、オリエンカが「案内役はわたくしですわ」とごねたのだ。
「ファナ、きみはこっちへ来なさい」
とイスデルがわざとらしい優しい声で言い、ファナをさっさと自分の馬に引っ張りあげた。
マティス卿とレオナールは困っている様子で黙り込み、ケインはまだ文句を言っている。
「王子が早くおいでにならないから、火の鳥が逃げてしまったじゃありませんか」
旅の行商人も、
「西へ行くべきなのに。あの洞窟はきっと火の鳥の住処なんですよ」
と、ぶつぶつ言いながら、オリエンカを睨んでいる。
王子が自分の言葉よりも、オリエンカの言葉を重んじたのが不満なのだ。
実際はオリエンカのほうが信憑性が高かったわけではなく、彼女の迫力勝ちだった。
──神が、わたくしに語りかけたのです。わたくしこそ、王子を導くため、神が遣わされた人間なのです。なんという光栄でしょう。ああ、わたくしと王子が出会ったことは運命だったのですね。愛しいあなたさまのために、わたくしが火の鳥を呼び寄せてみせますわ。
きっぱり宣言し、それでも足りずに、これは運命なのですわ、とずっとしゃべり続けている。
「おまえの言っている泉は、どこにあるのだ」
「もうじきですわ。まぁッ!」
オリエンカは声を、さらに一段階、跳ね上げた。
「ごらんになって、泉が!」
オリエンカの示す方向にある泉の表面は、夕方でもないのに、あざやかな真紅に染まっていた。一同は息をのんだ。
アレクシーザは馬から飛び降り、泉に駆け寄った。
「赤……火の鳥の色だ」
「ええ、そうですとも。火の鳥がここへ舞い降りた証ですわ」
ファナも馬から降り、泉の前にかがみこんで、まじまじと見つめた。
なにか変だ。
この泉へは何度も来たことがあるけれど、以前は普通に透明な水を噴き出していた。
ファナは手で泉の水を、そっとすくった。
甘い匂いが鼻をくすぐる。
「これ……お酒、なんじゃ……」
「酒だな、ずばり」
レオナールが腰に下げていた銀の器で赤い水を汲んで口にし、皮肉っぽく言った。
「奇跡ですわ!」
オリエンカが声を震わせる。
そのとき、キーン! キーン! と耳に突き刺さるような音がした。
はじめはかすかに、それからだんだん高くなってゆく音は、鳥というより虫の鳴き声に似ていた。
「おお、クリールだ」
イスデルが重々しくつぶやいた。
木々の後ろから、赤い羽が見え隠れしている。
近づこうとする人々を、オリエンカが威厳を持って制した。
「驚かしてはいけません」
赤い羽を優雅に広げた神鳥は、今や完全にその姿を現していた。しかも一羽ではない。二羽、三羽、四羽と現れ、戯れる。
オリエンカが一歩踏み出て、両手を大きく広げた。
裾の長い袖が前方に吹きなびき、鳥たちはオリエンカ目がけて一斉に飛び立った。
「おおっ!」
神話絵図さながらの光景に、みんなが息をのんだのは、ほんの一瞬にすぎなかった。
集まってきた鳥たちに、くちばしで四方からつつかれ、白い肌に爪を立てられ、オリエンカは悲鳴を上げた。
「やだっ! このバカ鳥! やめて、やめて、誰か助けて──!」
とたんに火の鳥がひそんでいた木々の後ろから、今度は男たちがばらばらと現れ、オリエンカを救出すべく駆け寄った。
彼らは全員、村長の家の使用人だ。
「このバカ」
イスデルが引っ込むように合図するが、もう遅い。
木の枝を振り回して鳥を追い払う男たちを、アレクシーザもその側近たちも唖然として見ている。
夢のお告げは、まったくのでたらめだったのだ。
よく見ると赤い鳥は、そのへんを飛んでいるなんのへんてつもない鳥に、赤い染料をかけて染めたものだった。
オリエンカは、我こそはアレクシーザと火の鳥の結び手であると宣言し、王子の関心を引こうとしたのだろう。
鳥が真っすぐオリエンカに向かっていったのも、彼女の衣服に鳥が好む匂いが染み込ませてあるに違いない。
それが裏目に出た。
嘘がバレてしまっただけでなく、鳥たちにつつきまわされて、オリエンカは泣き声を上げている。
「……おまえの鳥も、色水づけか?」
アレクシーザがげんなりしている様子で、行商人のほうを見る。
ところが行商人の姿はいつのまにか消えていて、代わりに騎兵の群れが泉の周囲を取り巻いていた。
二十人はいるだろうか。
弓をかまえ、アレクシーザを狙っている。
アレクシーザの顔つきが鋭くなった。
「父に雇われた者たちか? おれが誰だか知っているのか」
「知っているとも。ヘレスの反逆者、アレクシーザ」
首領らしい巨漢の男が嘲笑う。
アレクシーザの行動は素早かった。
彼はオリエンカの上着を、やや乱暴に引きちぎると、それを馬上の大男めがけて投げつけた。
鳥たちがバサバサと羽音を立てて、新たな標的のほうへ突進する。
「うわっ、なんだ!」
アレクシーザを取り巻く輪が崩れた。
アレクシーザは剣を抜き、大男に切りかかった。
ケインたちも後に続く。
イスデルが、
「おまえたちも王子をお助けするんだ」
と名誉挽回とばかりに、使用人たちに命じる。
けれど石を投げつけるくらいがせいぜいで、馬上の男たちにチラッと睨まれたくらいで、わーわー逃げ回る。
「もういやっ! どうなってんのよ!」
ファナの隣で、オリエンカはヒステリーを起こしていた。髪はめちゃくちゃ。あちこちに傷を作って、村一番の器量良しのおもかげはどこにもない。
ファナも混乱していて、なにがなんだかわからなかった。
こんなことは、もちろん生まれてからはじめてで、怖くてたまらないのに、アレクシーザから目が離せない。
愛馬を走らせ軽々と剣を振るう彼は、ファナがこれまで見てきた彼と、まるで違っていた。
こっちが本当の姿なのだと思った。
戦いの中で、命のやりとりをしているのに。
飛び散る血で、服も顔も、赤く染まっているのに。
彼はなんと堂々と、力強く、貪欲に見えることだろう。
世界中の人間をすべて切り従えるまで、止まらないように見える。
(このひとは、勇者で、帝王なんだわ。特別なひとなんだわ)
怖くて怖くて、なのに胸が震えるほど惹かれて、体中がきりきりと痛んだ。
ファナがぴくりとも動かずにアレクシーザを見つめていたのは、絶望していたからかもしれない。
おだやかな草原は血で染まり、いくつもの遺体が転がった。
その中に、アレクシーザは片手に剣を握りしめ、肩で息をして立ちつくしている。剣の先からは、血がしたたっている。
彼から発していた圧倒的な覇気は消え、代わりに孤独の影が彼の顔に射す。
「嘘と謀略……これが火の鳥の正体か……」
ファナはハッとした。
アレクシーザの心の痛みを、垣間見たような気がした。
「ケイン」
彼は厳しい目で側近たちを見た。
「おまえたちの火の鳥はなんだ……」
ケインの代わりにマティス卿が答えた。
「忠言でございます」
まっすぐな目をしてそう言い、腰から短剣を抜き取り、切っ先を自分に向けた。
「お許しください。私どもはアレクさまに嘘の報告をいたしました。火の鳥は、はじめからこの世のどこにもいないのです。代わりに私がアレクさまの王たることを証明しましょう。火の鳥の赤い羽の代わりに、私の赤い血を持って。アレクさま、どうか王都に戻り、王になってください」
マティス卿が喉に剣を突き立てようとした瞬間、アレクシーザが叫んだ。
「よせ!」
怒っているような声だった。
「……よせ、死ぬことは許さない」
ファナの体に震えが走った。
みんながアレクシーザを見つめている。
彼の言葉を待っている。
傷ついた孤独な青年は、たったひとりで答えを出さなければならないのだ。
彼に寄せる人々の想いが、ファナにはつらかった。
ひとりで立っている彼の姿が、胸がしめつけられるほど哀しかった。
王とは強く、そして凍えるほどに孤独なのだと、ファナは知った。
アレクシーザがふいに顔を上げて、ファナを見た。
どうすればいいのかと、すがるような眼差しで──。
ファナの胸に、ミリヤムの言葉が浮かんだ。
──女なんて、それくらいしかできないんだから。
そうミリヤムは言った。
──優しくしてあげなさいよ。
(なにをしてあげればいいんだろう。なにが優しさなんだろう)
ファナは息もできないほど迷った。
慰めてあげればいいのかしら?
頭をなでて抱きしめてあげればいいのかしら?
戦いなんて忘れて、この村で平和に暮らしましょうと言えば──いいえ。
それは彼の本当の望みではない。
今、村に残ってほしいと言えば、彼は「うん」と答えるかもしれない。
彼は今、心が崩れそうになっている。
おだやかな日常に、安らぎを見出そうとするかもしれない。
そうだ、人間の幸せはいつだって、ささやかで小さなものの中にこそあるのだから。
故郷へ戻らず、このまま村にいたほうが、アレクシーザは絶対に幸せになれるはずだ。
(だけど……きっと彼は、それは望まないわ……)
それは泣きたいほどわかっていた。
彼の幸せはもっと別のものだ。
彼の未来に、ファナは必要ではない。
だとしたら、今ファナにできることは──ファナがあげられる精一杯の優しさは──。
「火の鳥は、来たのよ。アレクシーザさま」
込み上げる涙をのみこみながら、ファナは言った。
「オリエンカさんの火の鳥と、ケインさんたちの火の鳥、それからお父さんとお兄さんたちの火の鳥……みんな、みんな、あなたのために来たのよ。あなたは……王さまになるひとなんだわ」
苦しくて、苦しくて──哀しくて、我慢できずに涙があふれ出した。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、こぼれ落ちてゆく。
アレクシーザは巫女の神託に耳をすますような顔で、ファナの言葉にじっと耳をかたむけていた。
「ヘレスに帰るのよ、アレクシーザさま。あなたは偉大な王になるのよ。だってもう、決まっているんだから」
頬を涙でびしゃびしゃにして、ファナは一生懸命に笑ってみせた。
アレクシーザは自分も切なそうに目を細め、ファナの涙を指でそっとぬぐった。
「……先に戻る」
静かにそう言って、馬に乗り去っていった。
ファナはその場にしゃがみこみ、両手を顔にあてて泣きじゃくった。