三章 愛しちゃいけない
体の半分ほどある酒がめを、ファナは神殿の中庭まで引きずっていった。
ついこのあいだまでは背の高い草が生え放題だったが、今は草も綺麗に刈り取られ、左右に果物の木などが植えられている。
中央の広々としたスペースには、すでに大小八つのかめが並んでいた。
最後の九つめのかめを運び終えたファナは、かめにもたれて、ふぅーっと息をつき、次の仕事に取りかかった。
酒つぼを抱えて何度も庭と台所を往復し、かめを酒で満たす。
強い陽射しと酒の匂いに頭がくらくらしたが、ファナは黙々と作業を続けた。
(これで火の鳥が来てくれれば……)
ミリヤムに教えてもらった火の鳥が出てくる絵巻に、酒がめを並べて火の鳥を捕獲した少年の話があった。
そのあと火の鳥は少年に従い、彼は三つの国を治める王さまになるのだ。
もちろんただの伝説だけど、ファナは他に火の鳥を呼び出す方法を思いつけなかった。
どんなことでもいいから、試してみよう。
火の鳥が現れれば、アレクシーザも満足して国へ帰るだろうから。
早く彼にいなくなってほしかった。
(好きじゃないわ。好きにならないわ)
かめの中に、白く濁った酒がゆるやかに流れ込んでゆく。
ファナの思いも、少しでも油断すると、一人の青年に向かって流れてゆきそうだった。
ファナの“夢の家族”から、もっとも遠いところにいるひと。
彼が村の男たちのように、ヤギの皮を剥いだり、縄を編んだりしてくれるだろうか?
早起きして、朝食の前に家畜小屋の掃除をしたりするだろうか?
逆にファナは、彼と一緒に海に浮かぶ島に建つ大理石の都で暮らすことができるだろうか?
どちらもたまらなく滑稽で、悲劇的なことに思えて、胸がきゅーっとした。
これ以上、彼に関わってはいけない。
彼は自分が本来あるべき場所へ、一日も早く帰るべきだ。
ファナも、以前の平和で単調な生活に戻りたかった。
となれば、彼がしつこく待っている火の鳥に、さっさと登場してもらうより他にない。
今朝、早起きして、シンと静まった祭壇でひたすらに祈った言葉を、ファナはここでもまた声に出してつぶやいた。
「火の鳥が現れますように。あのひとの望みが叶えられますように。それから、あたしが決してバカな夢を見ないように、強くいましめてください」
そのとき、背後で誰かが大声をあげた。
「なぁに? この酒がめ? あんたなにやってんのよ」
オリエンカだった。
嫌そうに顔をしかめている。機嫌が悪そうだ。
もっとも、昨日の今日で機嫌がいいことなどありえないだろう。
オリエンカは敵意をむきだしにして、ファナを睨んできた。
「王子の心を惑わす秘薬でも作ってるの? あんたのご親戚のインチキ巫女のお仕込みかしら?」
「オリエンカさん。あたしとアレクシーザさまは、なんにもありません。ただ、あのひとには難しい事情があって……」
「そんなことわかってるわよッ!」
オリエンカは眉を逆立てた。
ファナの言葉は、かえってオリエンカのプライドを傷つけてしまったようだ。こんなとるにたらない小娘に嫉妬しなければならないこともまた、彼女の癇に障るのだろう。憎々しげに言った。
「そーよね。あんたがいくら恋焦がれたって、あのかたとは身分が違うんですからね。いいえ、それ以上に魂の資質の問題だわ。あんたみたいな平凡な子が、英雄アレクシーザの相手になるもんですか」
オリエンカの言葉が、ファナの胸にグサグサと突き刺さる。
「……あたし、恋焦がれてなんかいません。あのひとは、あたしが好きになるような男のひとと違いますから」
小さいけれど、しっかりした声でファナは言った。
これがいっそうオリエンカを怒らせた。
オリエンカは、ふんっ! と鼻で息を吐き、一番大きなかめを両手で突き倒した。
隣のかめも巻き込んで、ふたつのかめが倒れ、濁った酒が洪水のようにあふれ出す。
慌ててかめを立て直そうとファナが腰をかがめたところを、後ろから蹴られ、ファナは酒の中に転んでしまった。
「まだ、あきらめたわけじゃありませんからね!」
そう叫ぶなり、オリエンカは肩をいからせて行ってしまった。
ファナは両手と膝をついたまま、しばらくぼーっとしていた。
本人のいないところで、あたしたちはいったいなにをしているのかしら。
あのひとはきっと、誰も好きにならないひとなのに。
「どうした、ファナ!」
すぐ近くでアレクシーザの声がして、ファナは顔を上げた。
アレクシーザが驚いている目で、ファナを見おろしている。
「おまえの村では、酒風呂に入るのか? ずいぶん豪勢だな」
腕をつかんで立たせようとするのを、ファナはさっと避けて、自分で立ち上がって、ちょっとしりぞいた。
アレクシーザがへんな顔をする。
ファナはぺこりと一礼すると、神殿の建物のほうへ歩き出した。
「ファナ、おい」
アレクシーザが呼び止めようとするのにも、聞こえないふりをする。
「どうした? なにをすねてるんだ」
後ろから追いかけてきた彼が、ファナの前に立ち塞がった。
ファナは目をそらしながら言った。
「あの……服、お酒でびしゃびしゃで……着替えたいから」
「あ、ああ」
間の抜けた顔で口ごもるアレクシーザの横を、すっと通り過ぎ、酒のしずくをぽたぽたしたたらせて、建物の中に入っていった。
服を着替え、つぼに新しい酒をくんで戻ってきたファナを、アレクシーザが庭へ続く渡り廊下で待ち構えていた。
ぺこりとして通り過ぎようとすると、肩をつかんで引き戻された。
「誰かになにか言われたのか?」
ファナをのぞき込む目は、真剣な気遣いにあふれていた。
ファナを待つあいだ、きっとあれこれ考えて、ファナが嫌がらせをされているのではないかと心配してくれたのだろう。
つかまれている肩が熱くて、胸が苦しくなって、ファナは「いいえ」と答えて目を伏せた。
彼から離れて庭へゆき、つぼをかめにかたむけ、酒をこぼさないように注ぐことに神経を集中させようとする。
「なにをしてるんだ」
「火の鳥を……」
「火の鳥?」
「満月の夜、火の鳥がお酒を飲みに神殿におりてくるって……ミリヤムが持っている絵巻に書いてありましたから……」
「火の鳥が来るのか?」
「……わかりません。でも、これがあたしの役目だから……」
アレクシーザは、わけがわからんといった顔でファナを見ている。
ファナは彼がそこに存在しないかのように、淡々と作業を続けようとしたが、
「貸せ、そいうことならおれも手伝う」
アレクシーザがファナからつぼを取り上げようとしたが、ファナはつぼを抱え込んで、首をふるふると横に振った。
「一人でやらせてください」
ファナは多分怯えた顔をしていたのだろう。アレクシーザの手が止まった。
ファナはうつむいたまま、つぼに新たな酒を満たすために庭を離れた。
戻ってきたときには、アレクシーザの姿はなかった。
涙がじわっと込み上げてきたが、青い空を仰いで大きく深呼吸し、仕事を続けた。
◇◇◇
「いったいなんだというんだ!」
ヘレスの王子アレクシーザは、いまいましそうにマントをはずし、長椅子にばさりと叩きつけた。
「先日、おれが村長の娘を断ったあとからのファナの態度、あれはどういうわけだ? まるでおれを避けてるようじゃないか。おれがなにをしたというんだ? まったく理解できん。……いや、それとも、やっぱりおれがファナの気に触るようなことをしたのか? だとしたら謝らなければ、でも、理由がわからないことには動きようがない。まさか、おれが村長の娘を選ばなかったのでがっかりしてるのか? だとしたら、かなりへこむんだが。なぁ、どう思う? レオナール? こういったことは、おまえの得意分野だろう? おれにはさっぱりだ」
「……アレク」
元医師で神官だったレオナールは、露骨に眉をひそめた。
「その言葉、そのままおまえさんに返すぜ。本国からあんなとんでもない知らせが届いたばかりだってのに、村娘の機嫌のほうを気にしているなんて、おれにはさっぱり理解できんね」
「とんでもないというほどでもないさ」
アレクシーザは急に冷めた顔になり、皮肉げに言った。
「あのかたの行動なんて、とっくに予想がついていた」
疑惑は六年間、ずっと胸の奥にあった。
ただ考えたくなかった。
一族のものたちはおれを疎んじているわけではないと、思い込もうとしていた。
そのために、彼らにとって必要な人間になろうと努力を重ねた。
少ない兵力で未知の大陸に渡り、長年の敵だった大マリガン帝国を、多くの犠牲をはらって討ち取った。
しかし、すべては無駄だったというわけだ。
アレクシーザの功績は、かえって彼らの警戒心と憎悪を強めたにすぎなかった。
もともと厄介払いのために、彼らはアレクシーザを大マリガンが支配する大陸へ送り込んだのだから。
そのことが、今回の件ではっきりわかった。
「ヘレスへ戻りましょう、王子!」
ケインが叫んだ。
気の短い彼は、すでに戦いの最中であるように興奮している。
「おれたちは、みんな王子の味方です。ヘレスに戻って、王都でふんぞり帰ってる連中を蹴散らしてやりましょう。あんなやつらが、王にふさわしいわけがない。ヘレスの王になるのは王子しかいません」
いつもは慎重なマティスも、アレクシーザに進言する。
「兄君たちは、アレクさまを討つよう命令を出しました。ヘレスの軍がやってくる前に、こちらからいっきに王都へ攻めのぼるのが得策と思われます」
アレクシーザは浅く笑った。
「おれは今、本国へ帰る気はない」
声をあげかける側近たちを目で制し、今度はわざと冗談めかして言う。
「おれはまだ火の鳥に会ってないからな。ヘレスに戻って王になるかどうかは、火の鳥に会ったあとで考えるさ」
「はぁ? 王となるべき運命の者の前に神鳥が現れるなんてのは、ただの伝説だ。そんな、あやふやなもんにこだわって勝機を逃す気か? おまえさんらしくないぞ、アレク」
レオナールは東征の最中に、アレクシーザの仲間になった。部下というよりも友人で、言葉に遠慮がない。
「おれらしいさ。おれは見たいとなったら絶対見たいんだ。なんでも自分の目で確かめてみなければ気がすまない」
アレクシーザはきっぱりと言い、部屋を出ていった。
◇◇◇
「アレクさまのお気持ちもわからんではないが……な」
アレクシーザが出ていったあと。教育係として長年彼の側に仕えてきたマティス卿が言った。
「アレクさまの母君は平民の出だ。血筋の点では、宮廷でのアレクさまの立場は弱い。特にご幼少のころは義母や義兄たちに疎まれて、たくさんつらい思いをされていた。一族の誰からも認められる人間になることが、アレクさまの心からの望みであったといってもいい。遠征を成功させれば、みんな自分を家族として受け入れてくれると、アレクさまは信じていたのだ」
ところが、義兄たちに加えて実の父親までが、連戦を続けるアレクシーザの才を恐れるようになった。
大陸を平定したアレクシーザが、徐々に本国に近づいていると知り、アレクシーザを反逆者として討伐せよと命令したのだ。
マリガンを滅ぼしたあとまで大陸にとどまっているのは、本国への叛逆を企んでいるに違いないというのが理由だった。
アレクシーザとその無敵軍団の帰る国は、失われてしまったのだ。
「ご自分でおっしゃったとおり、アレクさまは気づいてらしたのだろう。三年前、マリガンの帝都を落としたあと、アレクさまは本国へ戻らず、さらに東へ進むことを主張された。本国へ戻って父君たちにはっきり拒絶されるのを、恐れていたのだろう」
「あたりまえだ!」
若いケインが頬を紅潮させる。
「その一年前、やつらが王子にどんな仕打ちをしたか覚えてるでしょう! 王子の母君が病の床にあることを知らせなかったばかりか、ある日いきなり、古びた壺に母君の遺骨をつめて送りつけてよこした。まるでその壺と一緒にどこへでも行ってしまえと言わんばかりでした。あのときの王子の落ち込みようを思い出すと、おれは今でもあいつらに対してはらわたが煮えくり返ります。高貴な血筋だか知らんが、あんなやつら、英将アレクシーザにかかったら、ひとたまりもないです!」
「しかしアレクさまは、父君たちを倒して至高の座につくことをためらっている。いっそ、このまま大陸で暮らそうかと考えているように思う」
「おいおい、マティス卿」
「まさか、そんなこと!」
「否定はできまい」
「うぐぐ」
ケインは口の曲げて黙り込んでしまった。そうして、おそろしく不機嫌な声で、ボソリと言った。
「あの娘のせいだろうか」
「ルル=ムゥお嬢ちゃんのことか?」
レオナールがおかしそうに言う。
しかしケインにはおかしいどころではない。敬愛してやまない彼の唯一の主君が、たかが村娘一人のためにぐずぐずしているとなれば、大問題だ。大陸の覇者の名に傷をつけかねない。
「もしかして、あの娘が王子を引き留めているのかもしれない。王子はお優しいところがおありだから、彼女を見捨ててゆくことができずに悩んでいるのでしょう。おれが代わりに話をつけてーー」
「よせよせ、他人の色恋沙汰に首を突っ込めるほど大人じゃないだろうが、ケイン坊や」
「なに!」
いきりたつケインの頭を、レオナールはぽんぽんと叩いて言った。
「おまえさんは、あの娘に妬いているんだろう?」
「なっ──」
「アレクがあの子を気に入って、そばからずっと離さなかったんでさ。安心しな、アレクはお嬢ちゃんに惚れてるわけじゃない」
ケインは奇妙な顔をして、レオナールを見た。
どう考えても、アレクシーザはファナにご執心のように見えるし、アレクシーザがこれまで一人の娘にあんなふうに好意を示して特別扱いしたことは、一度もない。
「まぁ、あの健気でほのぼのしたところに、安らぎを感じてはいるんだろうがな。今、アレクは弱っているし、荒涼とした戦場で小さな野の花を見つけた気分なんだろうよ。足を止めて白い花びらを見て、心をなごませて、立ち去るだけさ。戯れにでも摘みとったりせんし、ましてや花を守るため柵で囲って、一生その場から動かないなんてことはありえんね。アレクは確かに優しいが、それ以上に勇者なんだ。戦いに死んでも、恋に溺れたりはしない男さ。野暮はしないで、王子にもお嬢ちゃんにも、いい夢を見せてやろうじゃないか」
「──っ、夢から覚めるのはいつですか? 一年後ですか? 十年後ですか? 兵士たちも、だんだん不安に思いはじめているんですよ。みんな王子だけが頼みなのに。本国を敵に回して戦うというなら、命なんていくらでも捨ててもかまわないけど、こんな草しかないところで、ぼんやり過ごしているだけなんて──」
「吠えるなよ、坊や。ようはきっかけがあればいいんだ。アレクの迷っている心を、ドーンと前に押し出してくれる“きっかけ”がさ。アレクだって、それを待ってるんだ」
「というと?」
マティス卿が身を乗り出した。
「つまり、火の鳥が現れりゃあいいんだよ」
レオナールはニヤリと笑って、ウインクしてみせた。
◇◇◇
ファナは酒がめの横に座り込んで、あまり上手くない風琴を弾いていた。
火の鳥は美しい音楽を好むと本に書いてあったからだ。
風琴は神殿の隅に転がっていたのを、引っ張り出してきた。弦が狂っているらしく、ときどき突拍子もない音が飛び出す。それ以前にファナの腕にも問題があった。
風琴なんて、今までいっぺんも弾いたことがない。
ただ、なにもせずにかめの横で雲を眺めているのは、気分が落ち込んで嫌だったので、風琴を弾くことにしたのだ。
それに楽器に集中するふりをするほうが、アレクシーザを無視するのも楽だった。
この数日、ほとんど言葉を交わしていない。
アレクシーザはあれこれ話しかけきたが、ファナはおずおずと首を横に振ったり、うなずいたりするだけで、なるべく視線を合わせないようにしていた。
昨日、さすがに彼も声を荒げて叫んだ。
──不満があるならはっきり言え! おれが気に食わないのか? だったらそう言え。二度と話しかけたりしないから。
ファナは困ったような淋しそうな顔で、アレクシーザを見ていた。
居心地が悪くなったのか、アレクシーザは、
──……あ……その、怒鳴って悪かった。
と、しょんぼりして言い、建物に戻ってしまった。
今日はまだ、現れない。
もう来ないかもしれない。
王子である彼が、わざわざ機嫌をとってやるほどファナは値打ちのある娘ではないことに、気づいたのかもしれない。
それならいい。
そのほうがいい。
でも……。
指が不慣れなもので、音が、ポツン、ポツン、と途切れる。
こんなみすぼらしい音に火の鳥が感動するとは思えないけれど、だけど早く来てほしいと、胸が焦がれるほど願う。
火の鳥が来れば、ファナの役目も終わる。
(早く来て……早く)
あんまり熱心に風琴をいじくっていたので、その青年がすぐ近くに立つまで、ファナは気がつかなかった。
「おい」
と、少し乱暴な声で、アレクシーザの若い側近、ケインが声をかけてきた。
ファナはびくびくと立ち上がり、戸惑いがちにつぶやいた。
「な、なんでしょう」
ケインは顔を赤らめ、目を落ち着かなく動かしていたが、決意をかためたようにファナを睨みつけ、言った。
「王子を引き止めないでくれ。あのかたは一日も早く本国へ帰らなきゃならないんだ。きみからも王子に帰るよう言ってほしい。こんなことを言って、おれのこと嫌なやつだと思ってるだろうけど、あのかたは特別な人間なんだ。王になるために生まれてきたひとなんだよ。誰か一人のアレクシーザじゃなくて、おれたちみんなの星なんだ。王子を返してくれ。本国へ戻るよう説得してくれ」
「あたしは……」
ファナは自分はアレクシーザを引き止めたりしていないと言おうとしたけれど、喉になにかつかえているみたいに声が出ない。
耳たぶが熱くなって、頭の奥がぼーっとかすんだ。それでもケインの言葉だけははっきり聞こえてきて、ファナの胸にひとつひとつ突き刺さった。
(違うわ、違うわ)
心の中でファナは叫んだ。
(あたしは彼に、ここにいてくれるよう頼んだりしないわ。彼が帰っても泣いたりしないわ。彼に恋なんてしていないわ)
裂けてしまいそうな喉の痛みを必死にこらえながら、ファナはケインの言葉に、こくり、こくり、とうなずくしかできなかった。
最後にかすれた声で、
「……わかりました」
とつぶやいた。
ケインはファナが泣き出すのではないかと、おっかなびっくり見つめていたが、やがて後味悪そうに去っていった。
ファナは庭にぽつんと立ち尽くしていた。
どうにも我慢ができず、目のふちにいっぱいにたまった涙がこぼれ落ちそうになったとき、木の後ろから、小柄で童顔な青年が、ひょっこり現れた。
ファナの兄のヤンだった。
「えーと……どうしているかと思って、来てみたんだ。元気でやってるかい? これ……」
ヤンは手にしていた包みを差し出した。
「奥さんが、ファナちゃんにって。ファナの好きな羊肉のおまんじゅうだよ」
ファナはヤンに飛びつき、大声で泣きじゃくった。
ヤンはびっくりしている。
「ファナ、どうしたんだい? ファナ?」
「ヤン、ヤン」
ファナは兄の名を呼びながら、わんわん泣いた。
苦しくて哀しくて、どうしようもなかった。
このままヤンとシェンナのいる小さな家に帰りたい!
もうここにいるのは嫌だ!
アレクシーザのそばにいるのは嫌だ!
そのとき、近くで鋭い声がした。
「神殿で逢引か? 大胆だな」
アレクシーザが怖い目で、ファナたちを睨んでいた。
ファナは凍りついた。
ヤンもファナを抱きしめたまま、唖然としている。
アレクシーザはゆっくりと近づいてきた。
彼があんまり怖い顔をしているので、ファナは剣を抜いて自分たちを斬り殺すのではないかと思った。
「ファナはおれの女だ。もう村中が知ってると思っていたんだがな。知っていて手を出したのだとしたら、いい度胸だ」
この言葉を聞くなり、ファナの内側から恐怖は消え、代わりに激しい怒りが押し寄せてきた。
こんなに頭が熱くなって、体が怒りで震えたことはなかった。
我を忘れてファナは叫んだ。
「なんでそんなこと言うの! あなたにそんなこと言う権利があるんですか? いつかは自分の国へ帰って、あたしのことなんて忘れちゃうくせに。おれの女だなんて、なんで──なんでそんなひどいこと言うのっ! あなたの女になって、あたしは、あなたがいなくなったあとも、ずっとひとりで、あなたの女として生きていかなきゃならないんですか?」
涙が喉に絡まり、何度も言葉がつかえた。
しかしそれを押し切ろうとする感情の激烈さは、尋常ではなかった。今のファナはアレクシーザでさえ圧倒していた。
彼はひどく儚げにファナを見つめていた。いつもの自信にあふれた勇者とはまるで違う、途方にくれた子犬みたいな顔をしていた。
ファナは胸を突かれた。
傷つけた、と思った。
ファナにそんな力が、あるはずはないのに。
だけど確かに彼は傷ついているように見える。
後悔したけれど、一度口にした言葉を取り消せるはずがなかった。
「……すまなかった。おれが……浅はかだった」
アレクシーザの口から、謝罪の言葉がぽつりと漏れた。その声も、痛々しいほど傷ついていて──ファナはいっそういたたまれなくなり、彼に背を向けて神殿の中に駆け込んだ。
泣きながら奥へ奥へと走っていって、ミリヤムが薬品の調合などに使っている、地下の暗室に辿り着いた。
闇の中に座り込み、ファナは膝に顔をうずめ、肩を小さく震わせた。
ふと、誰かに見られているような気がして顔を上げると、テーブルを挟んだ向こうにミリヤムが立っていた。
「あの男、帰るって?」
ぶっきらぼうな低い声が、空気を震わせた。
ファナは首を横に振った。
「でしょうね」
ミリヤムはつぶやき、椅子にどすんと座り直すと、石の椀に草を放り込み、石でごりごりとすりつぶしはじめた。
「あの王子はね、帰りたくても帰れないのよ」
アレクシーザが父や兄に妬まれて、謀反人として狙われる身になったことを、ミリヤムは淡々と語った。その口調にいつもの皮肉さはなく、最後にこう結んだ。
「あんた、優しくしてやんなさいよ。女にできることなんて、けっきょくそれくらいしかないんだから」
「ミリヤムは……男のひとに優しくしたことがあるの?」
「そうしたくないから、独りでいるのよ」
「あたしは……」
あのひとなんて好きじゃないと言いかけて、ファナは喉をつまらせ、みじめな気持ちで口を閉じた。
ミリヤムはもうなにも言わず、草をごりごりすりつぶす作業を続けた。
「謝ったほうが……いいと思う?」
ファナが尋ねても答えない。
好きにしろということだろう。
謝るも謝らないも、ファナの問題だ。
(謝ったほうがいいのかしら……でも……どうやって……)
ファナはその夜、眠れなかった。
翌朝、早くから起き出して神殿の庭を歩いていると、酒がめの周りに、赤いものがいくつも落ちていた。
近づいて目をこらしたファナは、
「あっ!」
と叫んだ。
拾い上げて確かめる。
鳥の羽だった。
しかも赤い!
まさか火の鳥が来たんじゃ──。
それは神さまがファナにくれたチャンスだった。
赤い羽を見たとたん、ファナはアレクシーザへの拘りや警戒をいっぺん忘れ、彼にこのことを知らせに走った。
いきなり寝所に飛び込んできたファナを見て、寝起きのアレクシーザはベッドから身を起こしたまま、ぼんやりしていた。
ファナは夢中でアレクシーザの肩に手を置いて、ゆさぶりながら言った。
「火の鳥が来たのよ! ほら、見て、この羽が証拠だわ!」
片手に握っていた羽を見せると、
「なんだって!」
アレクシーザもベッドから飛び降りた。
「まだその辺にいるかもしれない。ファナ、出かけるぞ!」
もどかしそうに着替えるアレクシーザに、
「はい!」
とファナが頬を紅潮させて答えたとき、開きっぱなしのドアからケインがばたばたと走り込んできた。
「お、王子! 王子が話していた神鳥が神殿の屋根に──早く来てください! 早くっ!」
三人は廊下を駆け足で走った。
そこへオリエンカが現れ、道をふさいだ。
「お聞きください、王子さま! ゆうべわたくしに神託がございました。ここから東のほうにある泉のほとりで、赤い神鳥が羽を休めて、王となる運命の者を待っているというのです。わたくしに、あなたさまを導きたまえと神のお告げが……」
さらに、徹夜明けとおぼしきミリヤムがかったるそうに、旅の商人だという男をともなってやってきた。
「こいつが王子に会いたいってさ。なんか鳥がどうとか言ってるわよ」
「王子が火の鳥をお探しと聞いて、やってまいりました。私は見たのです。村の西にある洞窟の奥で、神秘に輝く火の鳥を」
「いーえ! 火の鳥がいるのは東の泉ですわッ! わたくし確かにお告げで聞きましたもの」
「西だ! 私は実際にこの目で見てるんだ!」
「王子! 急いでください! 鳥は神殿の屋根です!」
三人はてんでに主張しあい、一歩も譲らない。
「えーい、どうなってるんだ!」
「と、とにかく……」
ファナはアレクシーザの腕をぎゅっとつかんで、言った。
「火の鳥が現れたってことです!」
五人は一丸となって、外へ走り出た。
ミリヤムだけがあくびをして、寝所に向かったのだった。