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二章 ときめきと、とまどいと。


 ファナの朝は早い。

 太陽が昇る前に起き出して、井戸の水で顔を洗う。

 ファナの五つ年上の兄ヤンと、ヤンの若奥さんのシェンナも早起きだ。

 三人は爽やかな笑顔で朝の挨拶を交わし、それぞれの仕事をはじめるのだ。

 しかし、その日ファナが目覚めたのは、太陽が天空高く昇ったあとだった。

 耳もとで誰かが、

「起きろ──っ!」

 と叫んだ。


「ったく、いつまで眠りこけてる気? あたしの朝食はどうなってんのよ。客なら気を使って家主より早く起きて、食事の支度くらいしてよね」


 常識のかけらもない言葉を一方的にまくしたてたのは、仕事にはまったく向かない、ゆるゆるだらだらした衣服をまとった巫女ミリヤムだった。

 なぜミリヤムがいるのか? ここはどこなのか?

 ファナは混乱した。

 確か昨日は、村長の家に呼びつけられて、それからアレクシーザに会って彼と夜の草原へ──。

 ファナはきょろきょろと部屋の中を見渡した。

 どうやら神殿にいるらしいが、アレクシーザの姿はどこにもない。


「あんたの男なら、外で水汲みしてるわよ」


 ファナが尋ねるより早く、ミリヤムが言った。

「み、水汲み──」

 なんということを!

 相手は大マリガン帝国を滅ぼした名高き王子だというのに。

「あの男、よそものでしょ? どこでひっかけられたのよ。あんたの兄貴が知ったらひっくり返るわよ。そんじゃなくても、村長の家にいったままあんたが戻ってこないっていうんで、心配してあたしんとこまで来たくらいだから。もしかしてファナが来てないかって? まさか男と駆け落ちの最中とはね。今朝がた、あの男があんたを背負って現れたときにはびっくりしたわよ。『しばらく世話になるぞ』なんてエラソーにしちゃってさ。口の利きかたを教えてやんないと、いつか厄介を引き起こすわよ。ま、祭壇の掃除もしっかりやってくれたし、根っから(ワル)じゃなさそうだけど。少なくともナマケもんではないわね。いいことだわ」


「ミリヤム、待って──」


 なおもしゃべり続けようとする三十手前、巫女、独身を制して、ファナは息も絶え絶えに言った。

「彼はアレクシーザよ。雷軍団の常勝将軍とか、鬼みたいに冷酷だとか、とにかくめちゃくちゃ言われていた、()()アレクシーザよ! 祭殿の掃除をさせたですって? なんてこと──。彼を怒らせたら、この村なんて簡単に全滅してしまうわ」


「アレクシーザ? 誰よ、それ」


 ミリヤムは顔をしかめた。

 ファナはめまいがした。

 この自分本位の性格!

 ミリヤムにとって興味のない話は、右の耳から左の耳へすり抜けてしまうらしい。

 七つのときから二十年以上も巫女として世間から離れて生活していたので、偏狭さに磨きがかかっているのだ。

「お願いだからミリヤム、彼に水汲みとか掃除とかさせないで。ね」

 顔をふにゃっとさせて泣き出さんばかりに訴えていたとき、人がどやどやとやってくる気配がした。

 血相を変えて飛び込んできたのは、村長の息子イスデルだった。


「王子が昨夜、ここに泊まったというのは本当か!」


 冷静なイスデルが、手や体をブルブル震わせている。

「こんなボロ神殿に──」

「ちょっとイスデル坊や!」

 ミリヤムがムッとしてイスデルを睨む。

「神殿がボロいのは、あんたたちが全然援助してくれないからでしょうが。ここは昔、神鳥が舞い降りたという由緒ある場所なのよ。巫女のあたしともども、ちょっとは大事にしてほしいもんだわ」

「王子はどこにいるんだ」

 ミリヤムの言葉に耳を貸さず、イスデルが尋ねた。

 ミリヤムがへそを曲げて黙っていると、アレクシーザ本人が労働で流した汗をぬぐいながら、部屋に戻って来た。


「水汲みは終わったぞ。いいかげん朝食にしてくれないか。腹がぺこぺこだ」


「水汲みだって」

 イスデルが唖然としてつぶやいた。

 アレクシーザはイスデルに気づいて、華やかに笑いかけながら言った。

「おれはしばらく、この神殿に滞在することにした。部下たちの宿泊場所については、当初の予定通りそちらに任せるので、よろしく頼む」

「滞在する? こ、このボロ──いや──……」

 イスデルは口をつぐんだ。


 それから控えめな口調で、ここは王子の滞在場所としてふさわしくない、どうか屋敷へお戻りください。私たちは最高のもてなしを王子に捧げたいのです、と説得しようとした。

 しかしアレクシーザの意志は変わらず、イスデルも最後にはあきらめるしかなかった。


「ねぇ、神殿の主人はあたしよ。あたしを無視して勝手に話を進めないでほしいものだわ。だいたいね、他人に生活をかき乱されるのは、あたしはごめん──」

「ミリヤム!」

 ファナは慌ててミリヤムに飛びつき、口をふさいだ。

 イスデルがうやうやしく頭を下げる。

「どうぞごゆっくり滞在なさってください」


 そのあとすぐに、神殿に絨毯や食器が運び込まれた。

 料理人や大工が派遣され、早急に神殿の壊れた部分(すでに建物そのものが、だいぶガタがきているのだが)を修理しはじめた。

 ミリヤムは「うるさくて書物も読めやしない」と文句を言いつつ、内心ほくほくしているようだった。

 ファナもアレクシーザと一緒に、神殿で寝泊まりすることになった。


 仕事はイスデルが手配した人たちが全部やってくれたので、ファナはアレクシーザの話し相手をして過ごした。

 アレクシーザがファナを気に入って、いつもそばに置きたがったのだ。

 彼は日に一度必ず、ファナを連れて岩山に登った。

 中腹の岩棚に並んで座り、そこから草木がざわざわ揺れる草原のはるか向こうへ目を向け、さまざまな話をファナにしてくれた。


 大陸から海をへだてて、ずっと西のほうにある彼の故郷のこと。


 十七の年に国を出てから、仲間たちと過ごしてきた日々のこと。


 彼の口から聞かされる戦いの様子に、血生ぐささはまるでなく、陽気で楽しげな冒険の物語を聞くようだった。

 それはきっと、アレクシーザの口調や眼差しが、きらめくように生き生きとしていたからで。

 アレクシーザの側近たちの名前も、ファナはすぐに覚えた。  

 彼の元教育係だったという、おだやかで落ち着いたマティス卿。

 アレクシーザよりひとつ年下で熱血漢のケイン。

 遠征の途中から仲間に加わったという、医者で神官で戦士のレオナール。

 彼らは(あるじ)であるアレクシーザと一緒に神殿に住み込んでいたが、今回のアレクシーザの気まぐれを、困ったものだと思っているようだった。

 終始、クリールなんて鳥は伝説だけで、現実には存在しない、こんなところで無駄足を踏まず、さっさと本国へ戻るべきだと言い立てていた。

 けれどアレクシーザは、王となる運命の者の前に姿を現すという火の鳥(クリール)の訪れを、岩山から遠く彼方を見つめながら、待っているらしかった。

 

 火の鳥(クリール)は本当に現れるのかしら?

 アレクシーザは、本気で信じているのかしら?


 伝説の神鳥よりも、その鳥を待っているアレクシーザのほうがファナは不思議だった。


「クリールが現れることを、信じているんですか?」

 今日も岩棚に並んで座り、隣で金色の髪をそよがせながら遠くを見ている彼に、ファナがおずおずと尋ねると、少し苦い笑いを浮かべて、


「さぁ」


 と答えた。

「おれが王にふさわしい男なら、やって来るかもしれんな」

 その口調は、ひどく冷静だった。

 感情を殺して、無理に冷静に振る舞おうとしているようにファナには思えた。

 火の鳥(クリール)の存在が、彼にとってどんな意味を持つのかはわからなかったけれど、アレクシーザがその訪れを切望していることだけは、ひりひりするほど感じられた。

 真っ赤に染まる夕日を睨みすえる彼の目は険しく、少し怖い。

 それでいて、とても心細そうな……。

 ファナは気になったけれど、あえてそれ以上の質問を避けた。

 

 このひとに心を寄せてはいけない。


 今ではアレクシーザが意味もなく残虐な行為をする悪魔ではないとわかっていたけれど、それでも、いざ戦いとなればきっと彼は、何千人、何万人でも、迷わず殺すのだろう。

 彼はファナの理解の及ばない高みに立つ人間だった。

 なので、ほとんど本能から、ファナはアレクシーザを恐れ、避けていた。


 このひとが火の鳥(クリール)を待っているなら、早く現れてほしい……。


 そうすれば、彼は村を出ていって、ファナの前からいなくなるから。

 不安な気持ちで、そう願っていた。


 だけど伝説の神鳥はいっこうに現れる気配を見せないまま、一週間が過ぎた。

 たった一週間で、ファナはすっかり疲れ切ってしまった。

 そう、アレクシーザのそばにいるのは、とっても疲れるのだ。

 怖い、怖い、と身構えているせいか、彼に横目でチラリと見られただけで、心臓が飛び上がりそうになるし、優しい目で微笑まれると鼓動が速くなるし、よく通る魅力的な声で話しかけられると、緊張して、

「は、はい」

「そ、そう、ですね」

「わ、かりました」

 と、へどもどしてしまう。

 岩棚に並んで座っているときも、肩がちょっとふれあっただけで慌ててしまったし、「寒いだろう」とマントでくるまれてしまうと、彼の匂いに包まれているようで、あんまり心臓がドキドキして、どうしていいのかわからなくなってしまう。


 夜も眠れなくなった。


 目を閉じると、アレクシーザの顔が浮かんでくるのだ。

 彼は大地を埋めつくすほどの大軍の先頭に、白い馬にまたがり立っていて、とても厳しい顔をしている。

 そうして、高々と剣をかかげ、敵に向かって馬を走らせるのだ。

 そんなイメージが頭の中でぐるぐる回って、息が苦しくなって、眠れないのだ。


 このままじゃ病気になっちゃう……。


 ファナが真剣に悩んでいたとき、二人のあいだに“彼女”が現れた。


 ◇◇◇


「おかえりなさいませ」

 夜。

 神殿に戻ったファナとアレクシーザを出迎えに現れた女性を見るなり、ファナは、あっ! と叫びそうになった。

 叫ばなかったのは、彼女が鋭い目でファナを睨みつけたからだ。

 いいこと? あたしは村長から派遣された召使いよ。余計なことを言ったら承知しないからね、とその目は語っている。

「はじめまして、今日から王子のお世話をさせていただくことになったリィエと申します」

 女は華やいだ笑顔をアレクシーザに向け、早速マントを脱がせたり、タオルで体をふいたりと、細々と世話をやきはじめた。

「冷たい果実酒をお持ちしますね。お部屋のほうでお待ちくださいませ」

 アレクシーザの姿が見えなくなるなり、ファナは我慢していた言葉を口にした。


()()()()()()()、どうしてここにいるんですか?」

   

 村長の娘オリエンカは、アレクシーザを嫌って旅の行商人と駆け落ちしたはずである。

 それがなぜ、召使いの格好で、名前まで変えて、神殿に乗り込んできたのか?

 ファナにはまったくわからなかった。

 オリエンカは、さきほどまでの慎ましげな様子を一変させ、尊大にファナを見おろした。


「王子の姿を見てね、気を変えたのよ。野蛮でむさ苦しい男だとばかり思っていたら、伝説の英雄みたいな雄々しい美男子じゃない? 実際に、大陸全土を手中におさめた英雄だわ。大物中の大物よ。相手に不足はないわ」


 村一番の器量良しと評判の顔に、艶やで好戦的な笑みが浮かぶ。

 オリエンカの全身から発する迫力に、ファナはたじろいだ。


「というわけで、あとは、あたしがうまくやるわ。あなたの役目は終わり。すぐに家に帰ったら変に思われるから、もうしばらくここにいてもらうけど、気楽にしててちょうだい」


 言いたいことだけを一方的に言って、オリエンカは腰をふりふり去っていった。

 ミリヤムといいオリエンカといい、ファナの周りには自分勝手な女たちしかいない。

 オリエンカが失踪したりしなければ、ファナはアレクシーザと言葉を交わすことさえなかったはずだ。

 巫女の血筋のものは村を守る責務があるとかなんとか言われて、宴の席に引っ張りだされて、今度は用がすんだから気楽にしてろ、つまり余計なことはするなと言う。

 喜ぶべきか、怒るべきか、それとも残念に思うべきなのか、ファナは複雑な想いにとらわれた。


 オリエンカは宣言通り、アレクシーザにアタックを開始した。

 といってもいきなり迫ったりするほど彼女はバカではない。丁寧に心を込めて王子の世話をしていたが、その端々に女の色気や魅力をにじませることを忘れなかった。

 アレクシーザの盃に酒を注ぐ手つきひとつとっても、華やかで洗練されており、ファナは思わずハッとして、見とれてしまうほどだった。

 名前を訊かれただけでおたおたし、灯りをひっくり返してしまったファナとは大違いである。


 オリエンカは舞台が大掛かりであればあるだけ、嬉々として力を発揮するタイプの人間だった。

 オリエンカの兄のイスデルが神殿を訪れたのは、数日後である。

 王子のご機嫌うかがいという名目だが、真の目的は別のところにあるようだった。

 策略家の彼は、妹がアレクシーザの攻略に熱意を見せているのを知って、全面的に支援することに決めたらしい。

 うまくいけばオリエンカは、ヘレスの王子の寵姫になれるかもしれない。

 そうなれば村の安泰どころのレベルではない。アレクシーザの代理人として、イスデルはこの大陸で才知を振るうことができる。

 イスデルにとってもオリエンカにとっても、ここが正念場だった。


 その日、神殿で小さな宴席が設けられた。

 ミリヤムはバカ騒ぎにつきあうのはゴメンよ、と大皿に盛れるだけ盛った料理と一緒に、自分の部屋に引きこもってしまった。

 ファナはアレクシーザの隣で、じっとしている。

 オリエンカの姿は見えなかった。

 どこへ行ったのだろう? とファナが考えていると、突然正面の入り口から、舞踏用の華やかな衣装をまとった美女が現れた。


 オリエンカだった。


 艶やかな黒髪をときほぐし、赤や緑のキラキラした石や鳥の羽で目いっぱい飾り立てたオリエンカは、圧倒的なまでに美しかった。

 座に連なる男性たちが息をのむ。

 アレクシーザも、オリエンカをじっと見つめている。


「余興にわたくしの踊りをご覧ください」


 楽師たちが情熱的な曲を奏で、オリエンカは踊りはじめた。

 踊りは激しく妖艶なものだった。

 腰をくねらせ、喉をのけぞらせるごとに、オリエンカの美貌はいっそう際立った。

 オリエンカが今まで地味ななりで、つつましい下働きの娘にあまんじていたのは、彼女の女としての魅力を、今このとき、アレクシーザにより強烈に印象づけるためだったのだ。

 オリエンカが踊り終わって、真っ先に拍手をしたのはイスデルだった。

 他のみんなは、オリエンカの熱気にあてられぼーっとしている。

 イスデルはパチパチと上品に手を叩きながら言った。

「いかがでしたか、王子。私の妹の舞は」


()?」


「お許しください!」

 オリエンカがアレクシーザの足もとに身を投げ出した。

「わたくしは王子に嘘をついておりました。わたくしのまことの名はオリエンカ。村長の一人娘で、このイスデルの妹でございます」

「なるほど……ただの村娘にしては動作も洗練されていて、教養もあると思っていた」

 アレクシーザは口もとにかすかな笑みを浮かべて言った。

「名をたばかった理由はなんだ」

「あなたさまに、村長の娘ではなく、一人の女としてお心にとめていただきたかったからですわ」

 オリエンカはここぞとばかりに声を張り上げ、目をうるませた。

「わたくしが、村長の娘として王子に差し出されたのであれば、お心優しい王子は義務からわたくしを側においてくださるでしょう。わたくしは、そんなのは嫌でした。それにわたくしが義務のため、いやいや王子にお仕えしていると思われるのも耐えられないと思いました。ただの女として王子に出会って、お気に召していただきたいと思ったのです」

 アレクシーザを見上げるオリエンカの目は、涙でキラキラと輝き、なんともいえず風情(ふぜい)があった。

 こんな目で愛を告白されたら、男のひとは可愛いと思わずにいられないのではないか。

 ファナはドキドキしながら、アレクシーザの横顔を見つめていた。

 

 アレクシーザは、なんて言うんだろう。

 オリエンカさんの求愛を受け入れるのかしら。


 それはまったく当然のことだ。


 オリエンカはこんなに美人で頭もよくて、自信にあふれているのだから。

 ファナはもう用無しなのだ。

 息を殺して、じっとアレクシーザの返事を待っていると、突然彼がファナの肩に腕を回して、自分のほうへ抱き寄せた。


 え? え?


「すまんが、おれの女はもうファナに決まっているんだ」


 普段とまったく変わらない、明るく魅力的な声で、アレクシーザは言った。

 オリエンカは真っ赤になって絶句し、兄のイスデルは逆に青ざめた。

 アレクシーザは彼らに、茶目っ気たっぷりに笑いかけ、最初の宴のときのようにファナの手を握って部屋の外へ連れ出し、そのままどんどん歩いていくと、神殿を出て草原に馬を走らせた。

 涼しい風がファナの黒い髪を揺らす。

 空には青い月が、あの晩のように輝いている。

 ファナはあんまり混乱して、なんと言ったらよいのかわからず、アレクシーザの胸にしがみついてじっとしていた。


 おれの女、と言ったのだ、彼は。


 オリエンカやイスデルの前で、自分の女はファナ一人だと宣言したのだ。

 ファナには彼の気持ちがわからなかった。


 どうして、このひとはそんなふうに言ってくれたのだろう。


 すべてがファナにははじめての経験で、頭が熱くなって、胸がはじけそうで、ただただ戸惑うしかなかった。

 いつもの岩山にのぼって、岩棚に二人で並んで座る。

 太陽と──かすかに鉄の香りがするマントでファナの小さな体をすっぽりくるんで、自分のほうへ引き寄せたアレクシーザは、子供みたいに得意そうな顔をしている。

 ファナはおずおずと尋ねた。


「どうして、オリエンカさんを選ばなかったんですか」

「なんだ、おまえもあのバカげた芝居の共犯か?」

「違います。でも、オリエンカさんは、わたしよりずっと綺麗で大人っぽくて……」

「だが、おれの好みじゃない」


 アレクシーザはあっさりと言い、真面目な顔で付け加えた。

「それにおれは、土地の有力者の娘とは関係を持たないようにしている。周囲のいろんな思惑が絡んでうっとうしいし、下手に手をつけようものなら、生まれ月の合わない赤ん坊をおれの子だと押しつけられかねないからな」

 異民族を征服した若い王子の立場を感じさせる言葉だった。

 なんだか胸がしくしくと淋しくなって、ファナはうつむいた。


 彼のようなひとは、誰も本当には愛さないのかもしれない。 


 彼には仲間がいて、戦いがあって、夢があった。どんな女性も、そこからアレクシーザという英雄を引き離すことは、できない気がした。

「おまえが、村長の娘なんかじゃなくてよかった」

 アレクシーザがファナの髪を指でつまんで、軽く引っ張りながら言った。


「思う存分、手が出せる」


 きっと彼はファナをからかっているのだ。

 ファナが赤くなってうろたえる姿が見たいのだ。

 今までもそうだった。

 なのにファナは嬉しくて泣きたくなった。

 同時に体の芯が震えるほど怖くなった。

 どうしよう、と思った。

 このひとを好きになったら、どうしようと。


(いや……)


 ふいに浮かんだその恐ろしい考えを、ファナは必死で打ち消そうとした。


(いやっ、絶対にいや。このひとを好きになっても、あたしは絶対に幸せになれないもの)


 いつか彼はファナを置いて、西の国へ帰ってしまう。

 彼を好きになることは、はじめから絶望でしかないのだ。

(好きにならない。好きにならないわ)

 アレクシーザのマントにくるまれて、肩を抱かれて泣きたくなるほど優しい眼差しを向けられて、その胸に体を寄せて、頭をあずけ、あたたかな体温と彼の胸の鼓動を感じながら──ファナは胸の中で何度も、何度も、つぶやいた。

(絶対、好きにならないわ)


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