一章 征服者来たる
近づいてくる蹄鉄の響きに、ファナは身を固くした。
一頭や二頭ではない。幾万もの軍馬が一斉に大地を蹴りつけ進んでくる音が、ファナのいる奥の部屋まで聞こえてくる。
闇の中を駆けてくる人馬の群れは、黒い雨雲が徐々にふくれあがり、大空を埋めつくしてゆく様子を思い起こさせた。
村の誰かが言っていた。アレクシーザの軍は雷のようだと。敵陣に稲妻みたいに突っ込んでいって、ピカッ! と光ったら、あとは血の雨がザーザー降るだけだと。
ファナは泣きたくなった。
稲妻とか血の雨とか、そんな物騒な言葉で語られるアレクシーザという人物は、恐ろしい男に違いないと思う。
草原の果てにある海を越えてずっと西のほうに、いくつもの小さな島がある。アレクシーザはそのなかのひとつ、ヘレスの王子だった。
六年前、三万の軍勢を率いて大陸に渡った彼は、三年足らずで当時大陸の支配者であった大マリガン帝国を滅ぼしてしまった。その後も東へ東へと進路をとり、マリガンの配下にあった街や村をたいらげていった。
征服者アレクシーザが村にやってくるという情報に、草原の小さな村は混乱に陥った。
聞こえてくる噂は、どれもろくなものではない。アレクシーザの軍に刃向かったとある街が、数日のうちに灰燼に帰し、たった一人の子供も許されなかったとか、アレクシーザは自分の部下でさえ平然と切り捨てる冷酷な男だとか。
聞けば聞くほど、みなの恐怖は増すばかりだった。
勇んで戦おうにも、武器もなければ知識もない。となれば財産をかついで逃げるだけだと、さっさと荷造りをはじめるものまでいた。
村長と、その跡取り息子のイスデルは、村人たちを必死でなだめた。
逃げれば逆にヘレスの王子の不興を買うだろう。我々に残された道は、アレクシーザに服従し、その庇護下に入ることだけだと、力を込めて説いた。
こうして早速、征服者を迎える準備が進められたのだった。
歓迎の宴のための酒や料理が調達され、金細工や絨毯が貢物として用意された。
ファナも他の女たちと一緒に、忙しく働いた。
なんの仕事もせずにいるのは、神殿の巫女と、村長の娘のオリエンカくらいだった。それでも、巫女ミリヤムはともかく。オリエンカをうらやましがったり文句を言ったりするものは一人もいなかった。
オリエンカにはもっと重要な役目があるのだ。
彼女は村長の娘として、服従の証にアレクシーザに差し出されるのだ。
ファナもはっきり聞いたわけではないが、そんな話が伝わってきた。
十四歳のファナよりふたつ年上のオリエンカは、村一番の美人と評判だ。そのオリエンカが征服者の一夜妻として差し出される運命に、ファナは衝撃を受け、心からオリエンカに同情した。
そのときはまさか、オリエンカが旅の行商人と駆け落ちし、アレクシーザの接待役が自分に回ってくることになるとは夢にも思わなかった。それこそ運命の大反転であろう。
「ファナは巫女の血筋だから」
と、村長の息子イスデルは、厳かに言った。
ヘレスの王子の相手として申し分ない身分だというのだ。
征服者一行の到着を間近に控えて、いきなり村長の邸宅に呼び出されたファナは、なにがなんだかさっぱりわからなかった。
オリエンカが逃げたことは村人たちに伏せられていたので、ここではじめて打ち明けられて、ファナは、
「え──っ!」
と声を上げて驚いたが、代わりに宴の席で彼の隣に侍るよう言われたときは、声も出なかった。
そんなこと、まったく、考えてもみなかったのだ。
巫女の血筋といっても、ファナの兄嫁が巫女ミリヤムの姪というだけで、ファナの家系とは全然関係ない。
そもそも村における巫女の地位だって、あの荒れはてた神殿を見れば一目瞭然ではないか。
ミリヤムが神殿で書物を読み散らかして好き放題していられるのは、みんな信仰に無関心だからだ。
神仏に頼らない合理主義の精神は、自然とともに生きるこの辺の部族の特徴だ。
だからもちろん、巫女の姪を妻に迎えたファナの兄が高い地位にあるとか、財産家だということもない。
ファナはごくあたりまえの十四歳の少女にすぎないのだ。
理不尽な運命に、ファナはささやかな抵抗を試みた。けれど、あまりにささやかすぎて、イスデルにはまるで通じなかった。
「わ、わたし……いや、です。できません」
と、小さな、小さな声で訴えるファナを冷たく見つめ、村長の息子は言ったのである。
「きみ一人に村全体の運命がかかっているのに、きみは、みんなを見殺しにするのかい? みんな、さぞきみを恨むだろうね。きみだけじゃなく、きみの兄上たちも、この村で生活できなくなるかもしれないよ」
イスデルは若いながら頭が切れて冷静で、周囲から一目置かれていたが、頭が良すぎて他人を自分の計画を完璧に実行するための駒としか見ない傾向があった。冷酷というほど悪辣ではないが、感情が淡白で、とことん合理主義だった。
こういう人間には、泣き落としするだけ無駄である。
それどころかイスデルはファナの上から下まで目を這わせ、
「女としては、まだまだだな。しかし妖艶な美女はあちらも飽きているだろうから、こういう素朴なのが新鮮でいいかもしれない」
と、平気な顔でつぶやくのである。
ファナは家に帰ることも許されず、イスデルの命令で上から下まで飾り立てられた。
幾重にも重ねて帯を巻いた裾の長い衣も、金細工の腕輪も首飾りも、ファナには重たい枷のように感じられた。こんな格好では、とても逃げられない。
(どうして、どうして)
奥の部屋に連れてゆかれ、王子の到着までおとなしく待つよう厳命されたファナは、胸の中で叫んだ。
どうして、どうして、こんなめにあわなければいけないのだ。神様はあまりに無慈悲で、おまけに恩知らずだ。義姉の用事でミリヤムに会いに行くたび、ほこりだらけの祭壇の掃除をしている(やらされている)のは、誰だと思っているのだ。
もう二度と祭壇に飾る花をつんだりするものか。
ファナにもいつか恋人ができますように、なんて祈りは、てんで役に立たなかった。
本当に、熱心に、熱心に、お祈りしたのに!
伝説の王子やおとぎばなしの勇者のような完璧な相手を望んでいたわけではない。ちょっとくらいお顔がヘンだって、お人好しで抜けたところがあったって、ファナとずっと一緒にいてくれる優しいひとと結ばれたいと思っていた。彼と築く小さなあたたかな家庭を、どれほど夢見ただろう。
(もう、全部終わりだわ。大好きなひととの一番最初のキスも、夕暮れの草原での求婚も、花を縫いつけた婚礼衣装も、四人の男の子と三人の女の子も……)
ファナの目に涙が盛り上がった。
何度まばたきしてもこらえきれず、頬にすべり落ちようとしたとき、ファナは大地が揺れる音を聞いたのだ。
涙はたちまち引っ込んだ。
まだ会ってもいない相手から身を隠そうとするように、ファナは息をひそめた。
心臓が一瞬動きを止め、また激しく高鳴りだす。
ドキン、ドキン、ドキン、と。
来た。
なにもわからないほどに混乱した頭の中で、それだけは苦しいほど理解していた。
彼が──征服者アレクシーザがやって来たのだ。
◇◇◇
「どうして」は、今や「どうしよう」に変わっていた。
ファナは緊張のあまりぎくしゃくした足取りで、宴会の広間に続く廊下を、村長宅の使用人の先導で歩いていた。
すでに歓迎の宴がはじまっている。
笛や風琴などの、にぎやかな楽の音と、野太い笑い声が聞こえてきた。
恐ろしくて恐ろしくて、胃が捩じ切れそうだ。
足が震えて、手のひらがびっしょりと汗をかく。
目がかすんで、前が見えない。
酒壺を渡され、それを抱えてファナは広間に入った。
酒と、汗と、焼いた肉の香りが、どっと押し寄せてくる。
イスデルがファナを紹介したようだが、耳の奥が、ぐわん、ぐわんと反響して、よく聞こえない。
壺を胸の前でかかげ持ち、よろよろ進んでゆく。
前のほうの敷物に、今夜の主賓が足を組んで座っている。赤い色がちらちら見える。
アレクシーザに違いない。
彼のすぐ前で床に膝をつけ、頭を深く下げたファナは、とっくに息も絶え絶えで、そのまま床にへたりこみそうだった。
よく響く若い声が、ファナの頭上で響いた。
「村の巫女の血族か。名はなんという?」
アレクシーザの第一声だった。
「わ、わたしは──」
答えようとして、ファナは絶句した。
どうしたことだ。
声が出ないではないか。
なんとか声を出そうと焦れば焦るほど、胸が苦しくなって、汗が噴き出てくる。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
真っ赤な顔で、
「わた、わた……」
と繰り返すファナを、イスデルが怖い目で睨んでいる。隣で村長が頭を抱えていた。
そのとき、朗らかな笑い声とともにアレクシーザが言った。
「思い出せんのか? なら、おれが教えてやろう。おまえはルル=ムゥだろう。一目でわかったぞ」
「ルル……ムゥ?」
「宝守りの妖精だ。以前に絵で見たことがある。おまえのここに──」
熱くほてった指が、ファナの額を、ちょんとつついた。
「ここに金の星があれば、そのものだ」
征服者は悪気はなかったのだろう。
けれど、つつかれたファナは驚いて後ろにでんぐり返り、そのときにランプに灯された火をひっくり返してしまった。
「あわわ!」
火は絨毯に燃え移り、それを消そうと村人とアレクシーザの部下が一斉に駆け寄った。よもや宴にかこつけた陰謀かと剣を抜き放つせっかちなものまでいて、大変な騒ぎとなった。
火はすぐに消えたものの、座はすっかり白けてしまった。
イスデルはもう、殺したそうな目でファナを睨んでいる。
ファナは恐怖で眩暈がした。
終わりだ。
本当に終わりだ。
アレクシーザのための宴を、ファナは台無しにしてしまったのだ!
「おれは先に失礼する」
アレクシーザが低い声で言った。
ああ、彼も怒っているのだ。
わたしのせいで、村をめちゃくちゃにされたらどうしよう。どうしたら許してもらえるの?
ファナが許しを乞おうと、ぴるぴる震えながら頭を上げかけたとき、征服者の硬い手が
ファナの腕をつかんで、軽々と引き上げた。
「どうやら彼女は待ちきれんらしい。おれと早く二人きりになりたいそうだ」
座に笑いが起こった。
怯えるファナの手を引いて、アレクシーザは屋敷の外へ連れ出した。
「王子、寝所の用意が整っておりますが」
「かまわん、今夜の寝床は草の上だ」
慌てる使用人に、いたずら気にそう言って、彼はファナを馬に乗せ、夜の草原へ走らせた。
ファナは悲鳴を上げた。
恐ろしさが嵐のように襲ってきて、止めようがなかった。
「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい」
征服者の腕の中で、ファナは泣き叫んだ。
そのくせ馬から落ちないように、逞しい胸にしっかりしがみつかなければならなかった。
「助けてください、あたし、なにも知らないんです。また十四なんです。助けて!」
「ひどい娘だな」
アレクシーザは笑いを含んだ声で言った。
「おまえがあんまり緊張して、居心地が悪そうだったから、あの場から連れ出してやったんじゃないか」
彼は馬を止めた。
ファナは顔を上げ、はじめてまともにアレクシーザを見た。
草原の草が、ざーっとなびく。
青白い月明かりに照らされて、若々しい精悍な顔が、口もとに笑みをたたえて優しくファナを見おろしていた。
風にそよぐ金色の髪が月の光を吸い込んで、輝やき揺れている。
(これが、アレクシーザ……)
想像していたのと、全然違った。
野蛮どころか綺麗で品があって、そのくせどこか子供っぽい明るい目をしていて、親切そうだ。
たぶん彼は本当にファナの気持ちを見抜いていて、宴の席から連れ出してくれたのだろう。
騒いだことが恥ずかしくなって、ファナは頬がじわじわと熱くなり、小さな声で言った。
「あ、ありがとう」
「かまわんさ、礼はちゃんともらう」
「えっ?」
ファナがドキリとして聞き返すと、アレクシーザは馬を再び走らせはじめた。
下から見上げる表情は、生き生きとしている。
金色の髪がキラキラときらめきながら、翼のようになびいている。
「どこへ……行くんですか?」
「おまえの家だ」
「あたしの家って──」
「飛ばすぞ、しっかりつかまってろ」
「きゃ」
アレクシーザが速度をあげたため、ファナは体を縮めて彼の胸にしがみついているのが精一杯で、それ以上訊けなかった。
草木が月明かりに照らされ輝く夜の草原を、ファナたちを乗せた馬は、風をびゅんびゅん切って走ってゆく。
やがて、見慣れた光景がファナの視界に広がった。
村のはずれにあるミリヤムの神殿だ。
本来ならば、そこに祀られた神さまの神殿、と言わなければならないのだろうが、実際はミリヤムの住処と変わらなかった。
神殿から少し離れたところに黒く浮かび上がる小さな岩山があり、アレクシーザはそこでファナを馬からおろした。
そのまま軽い足どりで、山をのぼってゆく。
そうして、ファナも登ってくるよう手を差しのべた。
中ほどにある岩棚まで来て、やっと彼は口を開いた。
「言い伝えのとおりだ。やはりこの村だったんだ。あとは──」
アレクシーザは右手のひとさしゆびをゆっくりとあげ、草がざわざわと揺れる草原の彼方遠くを指ししめした。
「あとは火の鳥を待つだけだ。おれのために火の鳥を呼んでくれないか? ルル=ムゥ」
ファナは首をかしげた。
言葉の意味が、よくわらなかった。
ただ、彼がとても真剣な顔をしているので、問い返したりしたらいけないような気がして黙っていた。
ファナが眉尻をきゅっと下げて困っていることに気づいたのか、アレクシーザは照れたように笑った。
「火の鳥は伝説の神鳥だ。王となるべき運命の者の前に、その姿を現すという。宝守りのルル=ムゥはクリールの友だ。昔、この岩棚からクリールを呼んだらしい」
「待ってください、あたしは──」
「言ったはずだ。礼はもらうと」
ヘレスの王子は、からかっているのか真剣なのかわからない顔で、ファナの顔をのぞきこんだ。
かすかにお酒の匂いがする息がかかるほどに近い距離に、ドキッ、とするファナの肩を優しく抱いて、彼は岩の上に座り込んだ。
「今夜一晩、古代の夢を見ながら眠るのもいいだろう」
赤いマントをファナの体に回して、まるで大事なものを守るように自分のほうへ引き寄せ、アレクシーザはそのまま目を閉じた。
こんな綺麗な男のひとの腕に抱かれて眠るだなんて、ファナにはとても無理で、きらきら光る髪や、長いまつ毛や、すっと通った鼻や、形のいい唇が目に入ると、もっとドキドキしてしまうので、なるべく目に入らないようにしながらもぞもぞ体を動かしていたら、アレクシーザが目を閉じたまま、ファナの耳もとでささやいた。
「そう緊張するな、いい気分なんだから」
「で、でも」
耳がくすぐったい。
アレクシーザの口もとは、本当に気持ちがよさそうにほころんでいる。
「眠れないか」
「……はい」
「目を閉じて、おとなしくしていろ」
肩に回された手に、熱と力がこもった。
言われるままに目をぎゅっと閉じたとたん、アレクシーザの息づかいと心臓の音がより鮮明になった。
吐息に混じる上等なお酒の香りに、ファナまでくらくらして酔ってしまって。
こんな──こんな状況で、眠れるわけがない。
それでも目を閉じてじっとしているうちに、いつのまにか眠り込んでしまったらしい。
きっと、いろいろありすぎて疲れていたからだろう。
夢の中でファナは、真紅の翼を広げた大きな鳥が、西の彼方へ飛び去るのを見たような気がした。