春のかたち
春の午後、木漏れ日の図書館の中で、真帆はふと顔を上げた。
対面の席にいる玲央が、眠たそうに本を閉じ、あくびをかみ殺している。彼が読んでいたのは哲学書だった。たしか、「時間とは何か」というようなタイトルだった気がする。
「眠いなら寝れば?」
真帆がそう声をかけると、玲央は照れ笑いを浮かべて首を振った。
「もったいないじゃん。今、この時間がさ」
その言葉に、真帆の心が微かに揺れた。
――もったいない?
何が? この退屈そうな春の午後が?
けれどその瞬間、彼女ははっとする。窓の外の桜が、はらはらと花びらを落としていた。風が吹くたびに、光と影が揺れて、ページの上に模様を描く。玲央の言葉は、その光景を裏打ちするように心に残った。
「真帆ってさ、ちゃんと“今”を見てる?」
唐突に彼が言った。
「え?」
「いや、ふと思って。人って、後から振り返ったときに“あの時間は幸せだったな”って思うけど、じゃあ“そのとき”に、それが幸せだって分かってたのかなって」
真帆は言葉を返せず、ただ黙った。
「俺はさ、こういうどうでもいい時間、でも、なんか静かで、誰かがそばにいて、春の匂いがして……そういう時間を、ちゃんと覚えていたいって思う」
玲央は窓の外を見ながら、ゆっくりと目を細めた。
「一期一会って言葉あるじゃん。一生に一度の出会い。あれって、人との出会いだけじゃなくて、“今”そのものもそうなんじゃないかなって。たとえば今日の午後、君とここで座ってるこの瞬間も、もう二度と来ないでしょ?」
真帆は、ようやく小さく笑った。
「そうだね。……じゃあ、ちゃんと見ておこうかな。玲央の寝癖も、目の下のクマも、この静けさも。ぜんぶ、今だけのものだもんね」
玲央は、くしゃりと顔をゆがめて笑った。
外では風が強くなり、図書館の古びた窓がわずかに震えた。
時計の針が音もなく進む。その音さえ聞こえそうなほど、世界は静かだった。
やがて大学を卒業して、それぞれの道を歩くようになっても――
真帆はきっと、この春の午後を、忘れない。
あの光と、あの匂いと、あの言葉。
それがきっと、彼女にとっての“永遠”なのだ。