失敗としての生
生き延びてしまった、という事実は、
時間が経つにつれて「事件」ではなく「仕様」になっていった。
あれから何日が過ぎたのか、正確には覚えていない。
暦は進んでいるのだろうが、私の中では何も更新されていない。
昨日も今日も、ほぼ同じ。
目が覚めて、目を閉じる。
何も望まず、何も拒まず、ただ在るだけ。
人はこれを「回復」と呼ぶのかもしれない。
でも、違う。
これは“沈静化”であって、生の回復ではない。
私という存在の輪郭は、死ねなかったその日を境にぼやけていった。
もはや誰にも見えないし、誰にも触れられない。
誰かに心を開くことも、
誰かの期待に傷つくことも、
もう、起こらない。
それはひどく穏やかで、同時に致命的だった。
⸻
どうしてこうなったのか。
考えれば考えるほど、その問い自体が意味を失っていった。
私はきっと、ずっと前から“壊れて”いた。
それを修復しようと試みたすべてが、
むしろ自分を傷つける行為だった。
誰かを大切にしたかった。
やさしい人になりたかった。
でも、その「やさしさ」すら、
自分の脆さを守るための仮面でしかなかった。
他人の目に「正しく」映るための、擬態だった。
本当の意味で誰かを思いやることなど、
一度もできていなかった気がする。
⸻
死にたかった。
けれど、それすら“誰かに伝えたい”という感情の延長だった。
私が壊れていること、
私がもう限界であること、
誰かに見つけてほしかった。
誰かに「そのままでいい」と言ってほしかった。
その願望は、あまりにも小さく、あまりにも子どもだった。
そして、そんな小さな欲にすがった自分が
滑稽で、無様で、赦しようがなかった。
死ぬことさえ、誰かにわかってほしいという願いだったのだ。
そんなものは、誰も応えられない。
それがわかった今、私はもう、
死ぬことすら望めない。
⸻
たまに外を歩くと、人の目が気になる。
けれどそれは、かつてのような恐怖ではない。
“誰にも見られていない”という確認がほしくて、
わざわざ人の視線を探しているだけだ。
本当は、誰も私を見ていない。
誰も私のことを気にしていない。
世界は、何ひとつ変わっていない。
変わったのは、私が世界に対して何も求めなくなったことだけ。
⸻
もう誰かを愛そうとは思わない。
もう誰かに理解されようとも思わない。
言葉も、感情も、感触も、必要ない。
どんなに他人と関わったふりをしても、
私はもうこの世界の人間ではないのだと、
静かに、確かに、知ってしまったから。
今の私は、ただの失敗作だ。
試作のまま市場に出されたような、粗い未完成品。
誰にも必要とされず、誰も困らず、
ただ、時折“機能しているように見える”だけ。