沈下
タッパーを捨てられた日から、一週間、誰とも話していない。
スマホは枕の下に埋めたまま、通知も電源も切った。
ベッドの上には、洗っていないパジャマが折り重なり、
部屋の空気は、ひどく静かで、でも妙に重たかった。
私は、自分が何を壊してしまったのか、正確には理解できていなかった。
けれど、すべてを壊したのは自分だという確信だけが、なぜか体の奥にこびりついていた。
私は、やっぱり「変わるふり」しかできていなかった。
過去を捨てたふり。
傷を克服したふり。
やさしい人間のふり。
それが、彼にとっては何より怖かったのだ。
⸻
ベッドに寝転んで、天井を見つめながら、
私はふいに思い出した。
中学生のとき、家に誰もいなかった夕方。
私はカップラーメンを作って、テレビの音を上げた。
母が帰ってくる前に、ひとりの時間を味わいたかった。
けれど母は予定より早く帰宅し、私の部屋のドアを開けるなり言った。
「ずっと食べてばっかりね、あんた。本当にだらしない」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
吐き捨てるような、でもどこか嬉しそうな、相手の自由を奪う快感に満ちていた。
私はスプーンを持ったまま固まっていた。
テレビを消し、カップの蓋をかぶせ、音を立てずにキッチンへ向かった。
その時、母は何も言わなかった。
ただ、ソファに座ってスマホを眺めていた。
あの沈黙が、
私の中に、ひとつの“決まり”を刻んだ。
私が自由でいると、嫌われる。
だから私は恋人に対しても、
「わたしは自由じゃないよ。ずっとあなたのことを考えてるよ」
というメッセージを、無意識のうちに繰り返していたのかもしれない。
それが、彼の首を締めた。
⸻
眠ることが怖くなって、昼も夜も薄暗い部屋の中で過ごすようになった。
体はだんだん冷えて、汗もかかないのにシャツが湿るようになった。
空腹も、満腹も、喉の渇きも、ぜんぶ感じなくなっていく。
それでも、なぜか泣けなかった。
涙が出れば楽になると思った。
でも、出なかった。
かわりに、夢を見た。
母の夢。
私は夢の中で母に、誕生日プレゼントを差し出していた。
包装紙を開けた母は、何も言わなかった。
そのまま棚に置き、テレビをつけて、料理番組を見始めた。
私は何度も母の顔を覗き込んだ。
でも、母の顔は、どんどんぼやけて、
気づいたら、そこにあったのは自分自身の顔だった。
目を覚ましたとき、私は震えていた。
「私は母じゃない」と声に出して言った。
けれど、それを言えば言うほど、自分が母と同じ方法で誰かを痛めてきたことが
皮膚の裏側に浮かび上がってくるようだった。
⸻
私は、愛し方を知らなかった。
学ばなかったのではない。
学ぶ機会すら、与えられていなかった。
「やさしい人になりたい」と何度も願ったけど、
その願いの中心にはいつも、誰かに受け入れられたいという焦燥しかなかった。
そうして私は、
「あなたが必要だよ」という言葉の裏に、
「わたしを捨てないで」という叫びを潜ませるようになった。
それはもう、愛ではなかった。