焼けるようなやさしさ
彼と出会ったのは、偶然だった。
雨の日、図書館の前で傘を差しながら、彼が小さく咳をしたのがきっかけだった。
「大丈夫?」
その一言が自然に出たことが、少しうれしかった。
過去の私は、もっと先回りしていた。
相手の気配を読んで、すべてを察して、対処しようとしていた。
でも今回はちがった。
ちゃんと彼が発した“気配”を、受け取ってから動けた。
そう思った。
それが、錯覚だったのだと知るのに、時間はかからなかった。
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彼は静かな人だった。
質問をすると、必ず考えてから答える。
急かさず、詮索せず、彼の話し方は、私のなかの緊張をほどいてくれるようだった。
私は、彼に安心した。
この人なら、うまくやれるかもしれない。
優しさを押しつけずに、ちゃんと「関係」を築けるかもしれない。
そう思った私は、慎重に、慎重に、言葉を選び、タイミングをはかり、
「大丈夫?」の頻度を減らし、「ありがとう」を意識的に伝えるようにした。
だが、それはすでに、“うまくやろうとする演技”になっていた。
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彼と初めて体を重ねた夜、
私は彼の寝息を聞きながら、奇妙な安心と恐怖を同時に抱いた。
「今、わたしは許されている」
「でも、いつこれが壊れるかわからない」
その不安が、私の胸の奥に火を灯した。
微かな、不安の炎。
それは数日後、彼のLINEの既読が二時間つかなかっただけで、一気に燃え広がった。
「何かあった?」
「大丈夫?」
「怒ってるなら言ってほしい」
三通目を送ったあたりで、自分でも“まずい”と気づいた。
でも止まらなかった。
⸻
翌日、彼は返信してきた。
たったひとこと。
ごめん、ちょっと立て込んでて。
私はその言葉に「安心」できなかった。
むしろ「拒絶」に近い冷たさを感じてしまった。
本当は、きっと何もなかった。
でも私の中では、「距離」がすでに裏切りと同義になっていた。
その夜、私は自分の部屋のカーテンを閉めずに過ごした。
外の灯りが差し込む中、スマホの画面を見続けた。
何も通知が来ないまま、時間だけが過ぎていった。
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次に会ったとき、私は取り繕うように明るく振る舞った。
「こないだ、寝る前に変な夢見ちゃってさ。なんか、置いてかれる夢」
冗談のように言ったつもりだった。
でも彼の顔が曇るのを見て、私はすぐに後悔した。
言わなければよかった、と思った。
彼は沈黙したあと、少し困ったように言った。
「……話すの、つらいなら、話さなくてもいいと思うよ」
その言葉に、私はなぜか、突き放された気がした。
「私が重い」と言われているような気がした。
その夜、私は泣いた。彼に見せないように、シャワーの音でごまかしながら。
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何日か後、彼の誕生日が来た。
私は、すべてを「取り戻す」チャンスだと思った。
料理を作り、彼の家に行った。
彼は「今日、仕事で疲れてて」と最初は渋ったが、
「わたし、がんばって作ったんだよ」と笑ってみせると、しぶしぶ扉を開けた。
私は、食卓の上に“幸福”を演出した。
キャンドル、好きだと言っていた白ワイン、音量を絞ったボサノヴァ。
すべてが“完璧”だった。
でも、彼は終始笑わなかった。
箸の動きも遅く、視線は私と合わなかった。
私は、焦った。
何かを「しなければならない」と思った。
だから言ってしまった。
「なんかさ、わたし、ちゃんとできてる?あなたのこと、大事にしてると思う?」
彼は箸を置いた。
しばらく何も言わなかった。
それから、少し震える声でこう言った。
「……わかんない。怖いんだよ、君といると」
私は理解できなかった。
なぜ“優しさ”が“恐怖”になるのか。
なぜ“努力”が“圧力”になるのか。
「わたし、何が怖いの?」
その言葉が出た瞬間、
彼の顔が、ものすごく寂しいものになった。
「君は、自分の傷を、僕に埋めさせようとしてる」
「僕を、君の安心のために使ってる」
「それが、怖いんだ」
私は、何も言えなかった。
でも、わかってしまった。
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その夜、彼は別れを告げた。
私は、すべてを用意して、すべてを与えて、
その果てに、すべてを失った。
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翌朝、彼の部屋に残っていた私のタッパーが、玄関の前に置かれていた。
中身は空だった。
でも、私は食べられたことより、その「静かな処分」に胸をえぐられた。
私は、やっぱり変われなかったのだ。