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加害の継承  作者: 高橋 淳
1/5

模倣

「君って、ちょっと、人の境界を壊すところあるよね」


それが、彼の最後の言葉だった。

あるいは、最後に“本音”で言ってくれた言葉だったのかもしれない。


彼は、怒っていなかった。

優しい声だった。

でも、それが一層、私を深く切り裂いた。


私は、彼に優しくしていた。

いつも彼のために行動していた。

彼が疲れていると言えば、スープを作って届けたし、

不安そうな夜には、電話が切れるまでずっと話し続けた。


彼が落ち込んでいれば「どうしたの?」とすぐ聞いたし、

沈黙が続けば「わたし、何か悪いことした?」と自分を責めた。


それが彼を追い詰めていたのだと、

彼が「境界を壊す」と言ったときに、

私は、やっと、理解してしまった。



彼の言葉を聞いた瞬間、ある記憶が脳の奥から這い上がってきた。


小学三年生のときのことだった。

私は、算数のテストで95点を取った。

嬉しくて、リビングに走って行って、母に答案用紙を見せた。


母は一瞥したあと、赤ペンのついた「5点分のミス」を指でなぞりながら言った。


「これ、ちゃんと見直してたら100点だったよね。どうして気づかなかったの?」


私はなにも言えなかった。

正しいことを言われているのはわかっていた。

でも、なんだか、すごく、悲しかった。


それから私は、「喜ばれる答え」を探すようになった。


母が疲れているときは話しかけなかった。

母が不機嫌な日は、食器を静かに片づけた。

母が笑っているときだけ、「わたしね」と話を始めた。


母は、それを「気の利く子」と言ってくれた。

でも、私は“自分の感情をいつ切り替えれば相手が快適か”を

ずっと読んでいた。



私は恋人に対しても、

「何をすれば安心するか」ばかり考えていた。


彼がLINEを1時間既読にしないと、不安になった。

でも、怒っていると思われたくなくて、

「ごめん、なんでもない」と打って送った。


何も聞かれなくても、予定や感情を報告した。

それは「信頼」だと思っていた。


でも、彼にとってはそれが「逃げ場のない空気」だったのだ。



ある日、彼が体調を崩した。

「寝てたら治るから」と言ったのに、私は勝手におかゆを作って持って行った。

部屋に入るなり「ほら、ちゃんと食べないと」と笑って、

彼の嫌いな具材も、勝手に変えていた。


その時の彼の顔を、今でも思い出す。

笑っていたけど、目が遠かった。


「ありがとう、でも今はちょっと、ひとりにしてほしいかも」


その一言が、私の中で引き金になった。

「なんで? わたし、心配してるのに」と、口をついて出そうになった。


けれど言えなかった。

代わりに「……うん、わかった」と答えて、

ドアの外で、しばらく立ち尽くしていた。


まるで、自分が“拒絶された母”になったようだった。



あれは、母が父に言われていた言葉だ。


「お前、気づいてないだけで、人に圧をかけてるよ」


そのとき、母は不機嫌に言い返した。


「そんなふうに思うなら、最初から自分でやれば?」


その横で、私は水をこぼした。

母の怒りはすぐに私に向いた。

でも私は、その時すでに学んでいた。


「わたしが悪いよね。ごめんなさい」と言えば、

大抵の怒りは静まるのだ、と。



私は、彼にしていた。

母が私にしていたこと、

父にしていたこと、

世界に対して向けていた態度を。


無意識のうちに。

そして、「愛」だと思いながら。


それは、やさしさのふりをした“同化の暴力”だったのかもしれない。



彼は、離れていった。

特に決定的な出来事があったわけでもなく、

連絡の頻度が減り、会うことが少なくなり、

そして、自然に、完全にいなくなった。


私はしばらく、自分を責め続けた。

でも責めているうちに、

私は“母そのもの”になっていた。


誰かに愛されたくて、

その人にとっての「理想」を演じ、

少しでも予想外の動きがあると、

「わたしのせい?」と自分を責め、

そして、「わたしはここまでやったのに」と、静かに怒る。


その繰り返し。



私は、気づいたのだ。


私は、母をなぞるようにしてしか、生き方を知らなかった。

だから、恋人にとって苦しかったのは当然だった。

私は彼を、正しさで追い詰める人間だったのだ。


そしてその正しさは、

どこまで行っても、私を幸福にはしなかった。

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