嫌悪と異臭は役に立つ
私の始めての東京デビューは父親の走らせる車に乗り、道路上を通過するだけだった。東京と名は付くけれど、実際は東京ではない千葉のアミューズメントパークには、少ないお小遣い握りしめてよく行ったものだ。
一人で東京へ行ったのは社会人になってから。バブルがはじけてずっと続く就職難でようやく就く事の出来たうさん臭いセールス会社。
慣れない営業は嫌でたまらなかったが、ビシッとスーツを着て満員電車に揺られて通勤するのは憧れだった。
あれから何年たったのか。東京へは仕事ではなく、買い物や観光で行く場所になった。満員電車なんてコロナでなくても嫌で、昔の自分の無駄なタフさとアホさ加減に泣く。
無駄に神経すり減らして、得たものは成績が上がらず不愉快そうな上司の舌打ちと、ストレス。それに久しぶりに会った友人を名乗る知り合いの、うさん臭い宗教勧誘やら商品購入への理解。
その道を歩んで来たからこそわかる。私自身、相手にどういう立場で扱われていたのかを知る。
悲しくはない。なにせ先に歩んでいたのはこちらだ。行き詰まった時に、その人の名前が浮かんだから。私は止めたが、この人は来た。どういうつもりか分かるのが、余計に気持ち悪さを増す。
────さようなら、同じ青春を過ごしたはずの人よ。
失った時間とエネルギーは戻らない。共にスポーツに明け暮れて、汗を流した青春。厳しい社会の中では時に過酷な現実を突きつけて、優しい思い出を蝕んでゆく。
そんな信頼関係しか築けなかった自分が悪いのか、東京という大都会に棲む魔物が人を変えるのか。後者ではないと、東京の空の下、大地を踏みしめたからわかる。
久しぶりに職場のあった会社のビル付近へと行く予定が出来た。懐かしの地は思い出補正で美化されがちだが、果たして⋯⋯。
渋滞の中で車を走らせながら昔を思い出すのは、結局嫌な思い出も、いまの自分を育てていたからだろう。
そう思えるほどに無知だった自分の成長を感じる。精神性の成長に喜びを感じながら、私は最寄りのコインパーキングを探して車を停めた。
────相変わらず空気が悪い。昔は排ガス臭かったが、今はやたらとドブ臭い。いや本当に、冗談抜きで臭いのだ。もともと数々の飲食店が乱立し、怪しい香しさはあったのだが⋯⋯
⋯⋯思い出を美化し過ぎて、酷くクサいのは忘れていた?
コロナ生活でマスクを欠かせない生活に慣れた反動で、臭いに敏感に成りすぎているのもあるだろう。しかし、漂う異臭はそういう問題ではない気がする。
ずっとここだけは変わらずにいるせいだ。たまりに溜まった嫌な臭いが、固まって熟成されているのではないか。
私の東京への思い出の記録が上書きされた。全てが臭いわけではない。懐かしく辛い嫌な映像に、リアルに嫌な臭いが加わっただけである。
辛かった思い出が、しっかりと嫌な記憶として認識が改まった。それだけが嬉しい誤算なのかもしれない。
嫌な事は美化してはいけない。忘れてもいけない。嫌でもしっかり抱えておかねば、大変なことに巻き込まるはるかもしれない。
────特殊詐欺グループが逮捕されたニュースが流れる。詐欺グループのメンバーの中に、一人老けた顔を見て私はそう思った。