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珠玉の繭

1.朝の光


朝、窓辺から柔らかな光が流れ込んだ。

濃い霧を透かした太陽が、粒子のような陽射しを部屋に注ぎ込む。カーテンは風にそよぎ、そこから零れる影が床に揺れている。白い壁には金色の縁取りが滲み、木製の家具はほんのりと温かみを帯びていた。


カイは寝台の上でしばらくじっとしていた。

目覚めたばかりの体温が布団に残り、外の空気が冷たく感じる。乾いた空気に微かな青葉の匂いが混じる。朝露の香り。ここではいつも、朝はこんなふうに始まる。


「……完璧すぎるんだよな」

声にならない呟きが、喉の奥で霧散した。


ゆっくり起き上がり、足を床につける。無垢の木の床は冷たい。だが、それすら設計された快適さのようだった。

ドアを開け、朝の街へ出る。パン屋の甘い匂い、濡れた石畳に差し込む光。すれ違う人々は穏やかで親切で、世界は途切れのない穏やかさに満ちていた。


それでも、心のどこかがざわついていた。

何か大事なものが欠けている。


2.黒猫の視線


丘の上で、一匹の黒猫がじっとカイを見ていた。

艶やかな黒い毛並みに、燃えるような赤い目が朝の光に映えている。その姿はまるでこの世界に溶けきれず、影のように浮かんでいるようだった。痩せた体は異質な気配を放ち、その赤い瞳を見ると、なぜか焦げた空気の匂いが鼻をついた。


カイが近づくと、黒猫は一歩下がり、丘の先——町の外れを振り返る。鳴かない。ただ、しつこく、誘うようにそこにいる。


「またお前か」

カイは小さく呟いた。

数日前から現れるこの猫。その赤い目が何かを訴え、妙に落ち着かなかった。


パン屋の香りが甘ったるく感じられた。

町に満ちる音と匂いと温度が、絹のように滑らかすぎて、不気味だった。

まるで現実ではないと囁かれているようだった。


3.花畑の葛藤


その日、黒猫は丘の上の花畑にいた。

午後の陽光が斜めに差し込み、金の穂がそよ風に揺れている。花々は艶やかで香りは濃く、空は限りなく澄んでいる。だがその下で、カイの脳裏に焦げた大地の影がちらついた。まるで永遠に終わらない春の一場面に、荒廃した記憶が重なるように。


黒猫は草の間に座り、じっとこちらを見つめている。

その赤い目が、カイの胸に小さな棘を刺した。


カイは足を止め、風に揺れる草の音に耳を澄ませた。

「何か重いものが胸に引っかかるんだ」

黒猫は首をかしげ、その視線がさらに深く突き刺さる。

「何か大事なことを忘れてる気がする。でも、思い出したくないんだよ」


黒猫は立ち上がり、ゆっくり丘の先へ歩き出した。

その背中は、カイを導く影のようだった。


4.壁の前


夕暮れが迫る街を、カイは黙って歩いた。

風は湿り気を帯び、建物の影は長く、石畳には橙色の光が伸びる。屋台の灯りが灯り、人々の声が混じり合い、煙草のような香ばしい香りが漂う。


黒猫が少し前を歩いていた。

時折振り返り、赤い目でじっと見つめては、また歩き出す。カイは何も言わず、その後を追った。まるで自分の意思ではない何かに操られているように。


やがて、町の外れ——地図に載らない領域にたどり着いた。

草木がまばらに生える丘に、空と大地の間に揺らぐ光の幕が張られていた。

近づくほど空気が重くなり、音が吸い込まれる。心音すら響きにくい、圧倒的な沈黙。


「ここが……?」

カイは立ち止まり、言葉を失った。

目の前に広がるのは透明な壁。世界の端そのもの。空と地平の境界に張りつめた光の膜が、呼吸するように脈動し、すべてを閉じ込めていた。


黒猫が足元に座り、壁を見上げた。

その赤い瞳が、カイの過去を映す鏡のようだった。


「……足がすくむよ」

その一言が風に消えた。


カイは手を伸ばした。

光の幕に指先が触れた瞬間——


砕けるような痛みが頭を貫いた。


視界が暗転する。

重く、鉄の匂いがする。焦げた空気。割れたガラス。遠くで銃声が響く。

カイは膝をついた。吐き気とともに、記憶が雪崩のように押し寄せる。


☆☆☆


暗い夜。星もない。

ビルの屋上。通信が切れた。

「もうダメだ!撤退しろ!」

声は誰にも届かない。燃え上がる車両。倒れた仲間。腕の中で息絶えた兵士。

その瞳が一瞬だけこちらを見た。濡れた土と血の匂い、震える指先の感触が記憶の底にこびりつく。


「カイ……戻って……」


別の記憶。

戦場の片隅で聞いた噂。「極限状態になると、知らぬ間に閉じ込められる場所がある。傷が癒えるまで、そこは夢のように優しいらしい……」


誰かが言っていた。あそこは死にかけた魂を預かる繭だと。


☆☆☆


「やめろ……!」

叫んでも記憶は止まらない。

外の荒れ果てた大地、銃声、焦土の色。

そして“珠玉”の整いすぎた日々——優しい人々、陽だまり、美しいだけの風景。


「……ここは罰じゃない」


声が震えた。


「癒えるまでの繭なんだ……でも、ここに留まるなら、俺はただの影になるだけなのか?」


黒猫が近づき、カイの足元に身を寄せた。

その赤い目が、静かに見上げている。


「……俺はもう、癒やされたのか?」

声にならない問いが、空へ消えた。


5.選択の果て


空が夕暮れと夜の間で止まっていた。

青とも紫ともつかない天蓋の下、風だけが流れていた。木々が鳴り、草がざわめき、鳥の声は消えていた。

花畑の真ん中に立つ古い木が、視界の端で静かに揺れている。


カイは壁の前に立っていた。

指先は震えず、心はまだ揺れていた。

胸の奥に残る火傷のような記憶。それと引き換えに、ここでの日々が霞んでいく。


パン屋の匂い。子供の笑い声。軒先の赤い花。

全てが遠ざかる。


黒猫が足元で鳴いた。

その赤い目が、カイの選択を見届けるようだった。


カイは壁に手を伸ばす。

冷たい光の膜。今は恐怖はなく、向こう側を知りたい想いだけが残っていた。


カイは目を閉じた。

指先が光に溶けるように消えた瞬間、風が一瞬だけ強くなった。


☆☆☆


その日、街の空にひび割れが走ったと語る者がいた。

ガラスにヒビが入るように空が揺れた、と。

次の瞬間には消え、すべては元通りだったという。


カイの姿はそこにはなかった。

誰も彼を見た者はいない。

ただ、古い木の幹に詩が刻まれていた。


 この世は舞台だ。

 中は外、外は中。

 演じるならば、せめて良い夢になるように。

 静かに目覚めよ、心に風を残して。


風が吹き抜け、黒猫が丘の上で赤い目を光らせていた。

“珠玉”は今日も美しく、静かに世界を映し続けている。

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