第八章
──どうして湊さんは上靴で外に出た? どうしてフェンスの外の道路にいた? 誰に呼び出されたんだ……なんだろう、何か見逃している。
悩みながら家の扉を開くと、何者かが士乃武の脚にひしっとしがみついた。
「え? 都?」
妹だった。妹が泣きながら士乃武の腿に手を回している。
「なんだよ? どうかした?」
「ダメ、ダメ、ダメ!」
都は顔をくしゃくしゃにして、ダメ、を連呼している。
「うん?」と士乃武が玄関で途方に暮れると、家の奥から母がやって来る。
「あー、もう都。お兄ちゃんを困らせないで」
「だって……ダメ、ダメだよお兄ちゃん!」
母は都を引きはがすと、表情を改める。
「どうだった? ……お葬式」
「うん……みんな来てた……」それしか答えられない。
望は一軍女子だ。美冬も含め友達も多い。それらは、彼女の誰にでも気さくで優しい人柄と、明るさによるものだ。
実際士乃武も、望が誰かを罵った姿の記憶がない、本当に心の清い女の子だった。
絡まれるのにはまいったが、今となっては良い思い出だ。
「……みんな……悲しそうだった」
僕も、と内心付け加える。
「そう」と母は静かに頷いた。
「で、何かあった?」
士乃武が聞いたのは、母の腕の中で都が泣き出したからだ。
数年ぶりのガチ泣きだ。
「それはね……」だが母の表情は明るい。
「ベアトリーチェちゃんから連絡があったの」
ばっと士乃武の背景が変化する。
ベアトリーチェ……その名は彼の世界を一変させる。
現実から夢幻へと。
「さあ、用意しなさい。ベアトリーチェちゃんの家にあんたはお呼ばれしたのよ」
「お呼ばれ?」
「そう、夕食をごちそうして下さるそうよ」
うれしそうな母に、士乃武は躊躇した。
脳裏に美冬の顔が過ぎる。
「それ、行かないとダメかな?」
「ダメよ!」再び、母が何かに酔っているような目になっている。
「お兄ちゃん! やめて!」
妹が騒ぐが、彼は決意する。
母がこうなるには理由があるはずなのだ。もしかして父の仕事関係で断れないのかも知れない。
「わかった、いくよ」
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だって都。すぐに帰ってくる」
屈んで目線を遭わせて彼女に優しく伝えると、都は目を涙でぬらし、ざっと踵を返し自室へと駆けていった。
「あの子はお兄ちゃんが取られると思っているのよ」
母は何でもないかのように肩をすくめるが、士乃武はその意見に懐疑的だった。
都とはそんな甘い兄妹関係ではない。
よく喧嘩もしたし、罵り合った。
だから彼女のこの態度は、きっと他に理由があるのだ……今は分からないが。
とにかく士乃武は、ベアトリーチェの家に行くために着替えた。
母が張り切ってフォーマルな衣装を引っ張り出し、彼はため息をつきながらそれを着る。
チャイムは約束の7時の10分前に鳴った。
うずうずしている母を制し士乃武が出ると、扉の前に立っていたのは黒髪のメイド服の女の子だった。
赤いリボンで纏められた髪が可愛い、士乃武よりいくつか年上の少女だ。ただ、顔は青白く、どこか不健康な印象がある。
「初めまして、ダイアナです。以後よろしくお願いします」
どう見ても白人なのに滑らかな日本語で彼女は話す。
「士乃武様をお迎えに上がりました」
士乃武が本物のメイドとの初邂逅に立ちつくしていると、ダイアナは闊達に用件を告げた。
「あ、僕が士乃武ですけど」
「そうですか。私はメイドのダイアナと申します、では参りましょう士乃武様」
士乃武は背後の都の祈るような視線に気づいていたが、それに軽く手を振り、ダイアナの背に続いた。
外はもうすっかり夜だった。
だが今の季節は六月であり、この時間の夜の闇はまだ薄いはずだった。
しかし、彼がアパートのエントランスから出ると、広がっていたのは濃密の闇だった。
気づく、今日は霧がかなり出ている。
周囲の全て、止まっている車や建物、電柱……何もかもが霧のせいで朧になっていた。
「こっちです、士乃武様」
ダイアナに声をかけられ進み、彼は唖然とした。
馬車が停車していたのだ。
白い息を吐く本物の黒馬二頭の背後に、箱型四輪馬車が取りつけてある。
馬車の側面にはランタンがあり灯されており、辺りの暗黒を照らしていた。
「え? うそ……」
士乃武が言えたのはここまでだ。
馬車……日本の道路で走って良いのだろうか? 馬の食事は? 道で排泄とかしないのだろうか?
色々な疑問が浮かぶが、ダイアナはするりとキャリッジタイプの馬車の扉を開いた。
「さあ、士乃武様、どうぞお乗り下さい」
「ええ、ええっと」困惑しながらも、士乃武は生まれて初めて馬車に乗った。
どうやらダイアナは御者も兼ねててるらしい。
彼女は御者台に乗ると、「ではまいります」と士乃武に声をかけ、馬車が走り出す。
ぱかぱかぱかと馬の蹄が鳴り出し、士乃武は座席から呆然と外を眺めた。
霧に包まれた街が流れ出す。妙に現実離れした経験だ。まるで幻想のようだ。
──これ、夢じゃないよな?
士乃武は何もかもが実は彼を騙すドッキリなのでは、と疑いながら白い霧に蹲るような世界を見つめ続けた。