第六章
「これってヘンじゃない?」
五時限目の直前、美冬が士乃武に尋ねる。
「望、給食にも帰ってこなかったよ」
美冬の言葉はもっともだ。
どんな事情があるにしろ、中学生が昼食に教室に戻らないのはおかしい。
「湊さん、どこに行ったんだっけ?」
士乃武が問うと、美冬は桃色の唇を真珠色の歯で噛む。
「分からないのよ。さっきからメッセも送っているし、電話もしているの。でも出ない……どこかで動けなくなっていなければいいけど」
美冬は暗い表情で、スマホを覗いている。
士乃武はそれを見て決心した。
「わかった、少し探そう」
時間的に5時限目を割くことになる。そうなれば化学の教師、野田先生に怒られるだろう。
だが士乃武は迷わなかった。
思いを寄せる美冬の沈んだ顔を見ていたくなかったし、何より彼の胸にもざわざわとした群雲のような『予感』があったのだ。
「なになに、どうしたの?」
二人の様子に気づいたのか、真絢が入ってくる。
「いや、湊さんがいないんだ。だから探そうと思って」
士乃武の答えに、好奇心の塊の真絢は目を輝かせる。
「マジ? んで化学さぼるの? ならあたしも行くわ」
「え? いいの?」
野田先生の説教は長くねちこい。だが真絢はそれなど無いかのように微笑む。
「友達の危機、優先じゃん」
こうして士乃武は、美冬と真絢と望を探すために学校内を探索することとなった。
三人が最初に向かったのは保健室だった。
望が訪れて寝てでもいれば全て解決だ。
だが保健室にいた養護教諭の藤田先生は、問われて首を振った。
「いいえ、誰も来ていないわ……湊さん? 私はずっといたけど尋ねてこなかったよ」
保健室から出たところで、5時限目のチャイムが鳴り、士乃武らはさぼりが決定した。
「なんだかわくわくするよね。悪いことしているみたい」
真絢はきらきらと瞳を煌めかせるが、それどころではない。
「下足箱に行こう」と士乃武は提案する。
学校内にいるのかそれで確認できるのだ。
「ええ」と彼らは生徒玄関へ向かった。
スチール製の灰色の下足箱には、二年一組の皆の外靴がびっしりと入っていた。
二十八足、今日は休んでいるクラスメイトはいないから、全員分の靴がある。
「つまり、学校内にいるの?」
美冬の表情が暗くなる。
学校内にいて授業なのに顔を出さない……望に何かあったと確定したのだ。
それから三人は図書室やら被服室を回った。
生徒の気配は時間のためなく、望もいない。
授業中ゆえに、静寂に包まれている廊下で士乃武たちは呆然とした。
望はどこに行ったのか。
「化学準備室とかは?」真絢がまだ明るく提案するが、望み薄に思える。
普通の状況でそんな場所には行かないのだ。
だが士乃武は敢えて大股で歩を進めた。
「よし行こう」
彼は唇をきつく結ぶ。先ほどからどこかに嫌な予感がちらついていた。
突如行方くらませたクラスメイト。
遠いところから廊下に届く、授業を進める教師の声がまるで悪夢の中にいるかのような錯覚を、士乃武に与えていた。
どんどん、と心臓が高鳴っている。痛いくらいだ。
──湊さん……どこにいるんだ? 無事でいてくれ……。
三人は沈黙し。それ故に自然に予想は悪い方向へと向かって行く。
「だ、大丈夫だよ」重い雰囲気に美冬が言葉を挟んだ。
「きっと望のことだから、何か用事があるんだよ。手が離せない的な」
「そうね……きっとそー」
すぐに固い表情の真絢が乗る。
授業を無断でほっぱっとく『用事』が思い浮かばない士乃武も、美冬の心遣いに笑みを作る。
「だね、湊さん変わっているからね」
思い浮かぶのは、常にふざけて絡んでくる望のしたり顔だ。
──そうだ、きっとちょっとした理由だ……タネ明かしでみんな呆れるような……だって僕らはずっと平和だった筈じゃないか。何も変化はなかったし……。
ここで士乃武の心は石のように固まる。
『変化』はあったのだ。
前触れなく、『結婚相手』と名乗る美少女ベアトリーチェが彼の前に現れた。
あれが前兆なのかもしれない。
「……しーちゃん、しーちゃんてばっ」
士乃武ははっとした。いつの間にか物思いに沈んでいて、美冬が語りかけているのに気づかなかった。
しーちゃん……昔の呼び名に変わっている。
「何か懐かしいね……そんな場合じゃないけども」
昼間なのに薄暗い廊下を登りながら、美冬は彼に振り向いて微笑む。
「昔、肝試しした時みたい」
「ああ」士乃武もはっきりと覚えている。
小学四年生の頃の学校行事、山の学習で、近辺の山に沢山の生徒と一泊した。
その夜、肝試しが企図されたのだ。
ただ暗い山道(今考えるとちゃんと安全を確保された)を通って、お寺まで行くだけの催しだったが、恐がりの美冬は当初から怯え、本当は違う順番だったのに、士乃武と組みになりたがった。
仕方なしにそうなると、美冬は士乃武の腕にしがみつき、ただがたがたと震え、子どもらしく自分も怯懦の中にいた彼は勇気を振り絞り、何でもないかのように行動した。
まだ周囲が美冬の傑出した美貌に気づいていない頃だが、彼女を守り抜いた彼は、小さな誇りに胸を張ったものだ。
「……本当に私、しーちゃんを頼りにしているんだよ」
と美冬の唇がやや尖る。
「なのに最近、話しかけてもくれないよね」
抗議に目眩がする。
美冬は理解しているのだろうか。彼女は今やクラスの、学年の、学校のアイドルなのだ。
対して士乃武はただの目立たない陰キャで、誰にも顧みられない。
彼女の方は感じていないようだが、二人の間には大きな裂け目が横たわっている。
「……実は望には私の気持ち言ってあるんだ……しーちゃんとまた話したいと」
ああ、と士乃武は納得した。
確かに望はどこか士乃武の背中を押し、美冬に近づけるような言動を取っていた。
彼女なりに士乃武を応援していたのだ。
それを思うと、なおさら望の無事を確かめたかった。
「あのさー」二人の後ろからついて来ていた真絢がしょんぼりとする。
「もしかして、マジであたし邪魔じゃん?」
「いやいや違うよ。協力してもらって感謝している」
慌てて士乃武が繕い、真絢が微妙な表情になる。
「てか、あの美冬っちには本命がいたのか……これはチャンス」
「やめて、噂を広めないで」
真絢の宝物を得た目に彼が懇願する。
「どうして? 私はいいよ、しーちゃんと噂になっても」
美冬が言うが、全然良くない。
学校の掲示板に貼られているプリントみたいに隅にいた士乃武なのだ。今更、噂やらでクラスの注目は浴びたくない。
「それはほら、ちゃんとした真面目な順番とかあるし」
誤魔化しつつ、手近な生徒会室の戸に手を伸ばした。
今の時間、使われていない教室だが、確認はしたい。
「あ!」と真絢が窓から外を見ながら鋭く声を上げ、「え」と彼女に首を捻る。
「今外に誰かいたよ。もしかして望っちじゃない?」
慌てて士乃武は窓に齧り付く。
生徒会室は二階だ。見えるのは学校の裏で、雑草やらが生えている日陰だった。
誰も見つけられない。
「とにかく行ってみよっ」
真絢に急かされ、士乃武は校舎の外に出ることにした。
だが実は真絢の目撃談には懐疑的だ。
玄関で靴を履き変えながら、改めて望の下足箱を見る。
そこには彼女の外履き用の靴がある。
上靴のまま、外に出るとは考えにくかった。
しかしとにかく、士乃武は二人の女子生徒と学校の裏に回った。
陽光が遮られ、どこかうすら寒い場所だった。
足元には草が自由に伸び、学校の裏の小さなスペースでしかないそこには何もない。
少し進めば緑色に塗装されたフェンスがあり、生徒の往来を止めている。
士乃武は校舎を振り仰いだ。
コンクリート製の四階建ての四角い建物が、まるで見下ろしているかのようだ。
「でも、こんな所に望は……」
美冬の疑問の声が途切れた。
彼女の顔色がさっと青ざめ、かつての肝試しの時と同様がたがたと震え出す。
「どうしたの……」
と、士乃武は美冬の視線を追い、沈黙した。
網目状になっているフェンスの外、つまり学校の外側に誰かが倒れているのだ。
真っ赤に塗れて。
「嘘だろ……」数秒衝撃に固まった士乃武だが、意を決して走り出した。
赤い塊が大きくなってくる。
間違いなく、それは、湊望だった。
フェンスの手前で、彼は立ちつくす。
望がフェンスの向こう側で、もう死んでいるのが明白だった。
静脈色のアスファルトに転がる彼女の身体は、不自然に曲がりくねり、首には大きな欠損がありそこから大量の血が流れ出ている。
不自然な欠損は、腿やら二の腕、そして頬にもあり、湊望の可愛らしい顔面の半分は骨が露出していた。
目を見開かれているが輝きがなく、もう動くこともないのだろう。
まさに望はただの肉塊になりはてていた。
「うっ」と、士乃武ののど元に食べたばかりの給食がせり上がる。
だが吐けなかった。
その前に魂がびくりと跳ねたのだ。
「きゃぁぁぁぁ!」と真絢が高い声で絶叫した。
士乃武は全身から血の気が引くのを感じながら、氷のように固まった。