第五章
「はあ」と士乃武は息をついて、肩のつっぱりを伸ばした。
時間はお昼になっていた。
4時限目の授業は終わり、給食当番の班がいそいそと出て行く。
昼食と昼休みだ。
食べることが好きな生徒達が明るい声で期待を口に出していたが、士乃武は学校の給食にそれほど希望を見出せず、話し相手もいないので下を向く。
鮮烈に脳裏に閃くのはどうしてかベアトリーチェだ。
彼の人生に突如現れた異質。
結局、学校での笑い話にすらならないそれは、彼一人が対処する問題だった。
「どうかした? 元気ないけど」
声にはっとした。
美冬なのだ。桑原美冬が何を思ったのか、話しかけて来た。
顔を上げると、美しい輝くような笑みがある。
「今日は何かみんなヘンなのよ……河野くんも早退したし」
彼女は士乃武の机の横で、ぐるりと教室を見回した。二年一組には今日欠席者はいない。
「敷島くんは大丈夫?」
『敷島くん』……かつては『しーちゃん』と呼んでいたが、今は『敷島くん』だ。
士乃武は幼馴染みとの開いた距離を、再確認する。
「ん? どうかした?」黙っていると美冬は細い首を捻る。
「い、いや、大丈夫だよ。うん、僕は健康だし」
全くとんちんかんな解答だ、と反射的に答えてから気づき、消沈する。
くすくすと、美冬は明るく笑ってくれた。
「何それ、そりゃあ敷島くんは大丈夫だろうけど」
士乃武は少し心に活力が戻るのを感じた。美冬と久しぶりに話せた。
なのに邪魔者はすぐに現れる。
「おやー、敷島と美冬ちゃん。何事か密談ですかな? 愛の囁きとか」
望だ。彼女は満面の笑みになっている。恐らく士乃武の気持ちに気づいているのだろう。
「そんなんじゃないよ、望」
答えられない士乃武に代わって、美冬が軽く否定する。
「何だか今日、おかしくないみんな」
「はにゃ? お菓子は美味しいですな」
「てかボケない。ほら、何かみんなちょっと浮き足立っているような気がする」
美冬に言われ、望はクラスメイトたちに視線を向ける。
具体的に指摘され。士乃武も膝を打った。
確かに皆、今日はどこかざわざわと騒がしかった。いつもそうだが、いつもより軽薄なのだ。
雪山で遭難した者たちが、軽口で気を紛らわせているような、どこかにある恐怖から目をそらすかのように声を張り上げている。
だが何故か分からない。一見するといつもどおりなのだ。
真絢がうわさ話を友達に披露しているし、中村は所属するサッカー部や、友達と組んだバンドについて熱心に話している。
まさに普段だ……ただ、教室はどこかに白々しい茶番の雰囲気があり、確かにそれは士乃武の恐怖に繋がっていた。
わっ、と誰かがいきなり叫べば、きっとクラス中がびくりとするだろう。
「テストに怯えているとか……」
望が口にしたのは大外れの見解だ。
事実次の時間の化学では、小テストがあるらしいが、それだけで二年一組をここまでびびらせないだろう。
「……てか、望ちゃん、これから用事あんだよね」
望はスマホで時間を確認する。
「だから美冬ちゃんさ、悪いけどあたしの給食も受け取ってくんないかな? 報酬はあたしが敷島から与えられるはずのプリン」
「え? 良いよ」
美冬は頷くが、少し目を見開いている。
こんな時間に用事なんて、普段はないのだ。
「それなんよー」と望は唇を尖らせる。
「何だか変なメッセきてさー。スルーもあれじゃん? だから一応顔出すんよ」
「それ、大丈夫?」
「あ、大丈夫大丈夫。美冬ちゃんは敷島の心配でもしてて」
「何よそれ」
「ちょっとしたジョークでしたー」
手をひらひらさせながら望が教室から出て行く。メッセージの相手とやらに会いに行くのだろう。
だが士乃武はそんなことは考えられない。
望が最後に放っていった軽口のバクダンにより、美冬と気まずい雰囲気になったのだ。
──僕の心配って何だよ!
結局、美冬とはその後、弾ませる会話も見つからなくなり、気まずく離れた。
「あああ」と士乃武は机に突っ伏す。
何も上手くいかない。しかもこの上給食の彩りの一つ、プリンも取られるのだ。
まさに踏んだり蹴ったりだ。
だがそれは些細な出来事だった。
結局、給食の時間を含めた昼休みに、湊望は帰ってこなかったのだ。