第四章
次の日、夢の残滓をすっかり無くし、士乃武はいつもどおりの時間に起きた。
学校へ行くのだ……それが、十四歳の士乃武の日常だった。
昨晩の不意の非日常を思いながら、彼は朝の用意を済ませ、登校の用意をする。
「……お兄ちゃん」
通学鞄を持つと、もう片方の手が妹に握られる。
「うん? どうした?」
都の瞳を覗くと、妹にはまだ怯えがあった。
「何だよ、何が恐いんだ?」
ぎゅっと都は士乃武の手を握る。
「約束してよ、アレは辞めるって……もうアレには関わらないって」
「アレって……」士乃武は呆れた。
どうやら妹は昨日突如現れた士乃武の『結婚相手』ベアトリーチェがお気に召さないようだ。
「美人さんだろ? こんなチャンス僕にはもうないかも」
冗談めかして答えると、みるみる都の瞳に涙が溜まっていく。
「い、いや、冗談だよ!」士乃武は慌てた。
だが妙だった。都は最近生意気になり、「バカにい」と事あるごとに蹴って来て鬱陶しかったのだが、今はまるで怪談を聞いた乙女のようになっている。
「あの人が僕を選ぶわけないし、僕もいきなり外国人と結婚しないよ」
「……絶対だよ……」小さな声で、都は呟く。
「絶対アレに騙されないでね!」
そうこうしている内に、家のインターホンが鳴った。
都の友達が彼女と登校しようというのでろう。妹は兄よりも優秀で、仲の良い友達も沢山いるのだ。
「ほら、友達を待たせるなよ」
士乃武が敢えて明るい口調で彼女の背を押すと、都は「うん」と答えて何度も振り返りながら最初に家を出て行った。
「どうしたんだあいつ」
士乃武は一人ごちるが、心配の種は尽きない。
昨日あれ程機嫌が良かった両親の眉間に、深い皺が刻まれているのだ。
「何だか、俺たち昨日おかしかった気がする」
「うん、さすがに士乃武には結婚は早いわよね……どうしてあんなに勧めたのかしら」
呆れた。今更そこに思考が到達したのだ。
「でも……どうして昨晩はあんなに嬉しかったんだろう」
出勤のスーツ姿で悩む父に肩をすくめ、士乃武は「行ってきます」と家を出た。
紫文第二中学は、どこにでもある公立の中学校だ。
校庭などの敷地内を背の高いフェンスで囲んだ中に、面白みのない真四角のコンクリ校舎が建っている、日本の原風景と言っても過言ではない平凡さだった。
士乃武は幾人もの生徒に混じり、下足箱で上履きに着替えると、一路自分のクラス、二年一組へと急いだ。
二年一組はいつも通りの歓声の中にいた。
そこここで生徒達が流行りのユーチューバーやティックトッカーの話題で盛り上がり、最近ヤマを迎えている漫画やらの展開も、休むことなく語られ尽くしている。
クラスでそんなに話すタイプにいない士乃武は、黙って自分の席へと向かう。
「よう」と声をかけたのは、陰キャ仲間の河野保だ。
河野とはソシャゲやオンラインゲームを共にする知人であり、友人と評するにはやや溝があるが、士乃武が学校で最も親しく話す存在だった。
「あん」と河野が眉をしかめている。
「……お前……」
くんくんと何かを嗅いで、彼は唇を結んだ。
士乃武は内心焦った。何か臭いに関する不備でもあったのか。だとするとクラスでの悪評が立つ前に何とかしないと。
「なした? 僕なんかヘン?」
「いや……お前さ、昨日誰かと会った?」
「え?」
すぐ浮かぶのはベアトリーチェだ。
だがどうしてか彼女のことは口に出来ない。
「昨日突然僕の結婚相手の、すっごい美人のヨーロッパ系の女の子が来たんだよねー」
と簡単に口先で弄べなかった。そんな重量のない問題ではない。
「……別に……」
どっと突然教室の中心が沸いた。
振り向くと、そこに彼女がいた。
桑原美冬……小学校までは『みーちゃん』と呼んでいた、呼べていた彼女は、今やクラスの中心部分、頂点にいる。
亜麻色の流れるようなロングヘアに、整った容姿。テレビに出てくるアイドルなんかよりよっぽど可愛い少女。
だから彼女は二年一組のカースト・トップにいる。
集まるトップ集団の彼女の横にいるのは、女子人気№1の完璧イケメン中村希代であり、彼の言葉に笑顔になっている美冬を見ると、妙に心が消沈した。
──ベアトリーチェ……。
その名が蘇り、士乃武は慄然とする。
今彼はベアトリーチェと名乗った美少女に陥落しかけた。
密かに思いを寄せる幼馴染みの美冬の視界に入らない諦念が、強烈にベアトリーチェの顔を思い出させた。
どうせ思いが届かないなら……と考えてしまった。
慌ててかぶりを振った。
父から聞いた話しは『奇妙』の一言であり、ベアトリーチェが何者か知らないが、新手の詐欺の可能性すらあるのだ。
──あんなに美人なんだし……。
士乃武は自分をベアトリーチェのような美少女が思ってくれるなんて、考えてもいなかった。
内心気を引き締めた彼は、朝の光の中にいる美冬を見つめた。
「てかさー、例の事件ヤバくね? ここらで起こっている連続殺人事件」
「うん、人が……られる事件だよね」
中村と美冬の話題が楽しい物から180度変わっていた。
「うんそれっ、マジきっしょいわ。人間食うか? 普通」
美冬らカースト・トップが話しているのは、近頃紫文第二中学校の通学圏内で起こっている凄惨な事件だ。
何人もの年齢職業性別バラバラな人たちが、喰い殺されている。
そう、『喰い』殺されているのだ。
中学生にも降りてくる情報でしかないが、被害者は頬や二の腕や腿の肉が食いちぎられ、無くなっているらしい。
しかも歯形から判明したのは、どうやらそれを行っているのが『人間』だ、という凄惨な事実だった。
つまり、士乃武らが住む町に、人を喰う何者かがいる。
それはあまりにも恐ろしく、だがあまりにも非現実的で、中学生たちは新鮮な都市伝説として舌の上に上げている。
あるいは彼らが思っているよりも不穏な話なのかもしれないが、陽光の下にいる皆は、異常な事件をファーストフードのような軽さで扱っていた。
異常殺人犯に対峙するのは、中学生でしかない彼らではなく、大人の警官なのだから。
士乃武も一瞬胸に不安が掠めたが、それを秒で忘れ、じっと思いを寄せる少女を見つめた。
美冬は一軍女子と何か一所懸命情報交換をしている。
士乃武はため息をついた。
昔は、まだここまでクラス内の立場が変わっていない頃は、平気で彼女との話題に首を突っ込めた。
だが今はこうやって、熱のある視線で彼女を眺めるしかできない。いつからそんな『差』が出来たのだろう。
「……おやー、敷島、何を見ているのかなー」
沈思していた彼に、不意に明るい声がかけられる。
クラスメイトの湊望。
だから彼は戦慄する。
望は美冬の親友であり、やはりクラスのトップに連ねている少女だ。
ショートカットの活発な可愛い女の子で、男子とも性別の垣根無く接し、中でも士乃武に良く絡んでくる。
「好きな女の子でもいるんー?」
いたずら子猫を思わせる望の笑顔に、密かに汗をかきながら士乃武は抗する。
「ち、違うよ……今日は良い天気だなーと思って」
「ふむふむ、そんな言い訳をこの望ちゃんにするんだー。ま、確かに良い天気だけど」
確かにその日は快晴だった。
雲一つもなく、六月の梅雨時という時期を考えれば、光に満ちあふれすぎている空だった。
「で、誰に見とれてたんよ?」
全く追及をかわせていなかった。
「違うから、僕は本当に……ただ空を」
「ほほー、とぼけるのかにゃあ。なら、ちょっと真絢ー」
士乃武は顔を覆いかけた。
望がこともあろうに、クラスのスピーカー的存在の姉崎真絢を呼んだのだ。
「なになに」とセミロングの真絢が、整った顔に『興味』を浮かべてすぐに近づいてくる。
「いやー、望ちゃんさー、敷島の奴がどの女子かを視姦していることに気づいてさー。誰かなーてっ」
「うっわサイテー」
真絢がどん引き、士乃武は驚く。
「いや、辞めて。視姦とか女の子が使わないで。僕を貶めないで」
「ふーん」と真絢が彼の隣に立つ。
「なるほど。ここからだとやはり美冬ちゃんではないですか? 望さん」
「やはりそうですか真絢さん。ち、モテる女子は羨ましい」
「分かりました。私が美冬っちに今回の視姦の件をめっちゃ伝えておきます。彼女の身の安全のために」
「やめて、僕の名誉のためにやめて下さい。給食で出るプリンを捧げますので」
士乃武は必死だ。真絢の『伝える』は、学校中の生徒を対象にしているのだ。
「ちょっと、ならあたしは?」
満足そうな望に対し、真絢が強欲な要求をしてくる。
「……ジュースを、ジュースを奢らせて下さい」
「うむよろしい。ならエナドリね」
「高い物を狙うとか。ひどいです」
悄然とする士乃武に何か言おうとした真絢だが、ふと視線を変えた。背後に座る保だ。
「ん? どうかした? 河野」
それでようやく、保の顔色が土気色になっていると、士乃武も気づく。
「どうした? 気分悪いのか? 河野」
保は脂汗で顔中を濡らしながら、頭を垂れる。
「……なんだかそうみたいだ……俺、もう帰るよ」
時計に目を走らせると、まだ8時10分だ。
これでは何をしに学校に登校したのか分からない。しかし確かに保は気分が悪そうなので、望が首肯した。
「わかった。あたし先生に言っとく。速く帰りな」
「ありがとう」保は微かに笑顔になると、荷物を持って席を立ち、教室の扉をくぐって外に出て行った。
「どうしたんだろう? あいつ」
消えた背中を目で追っていた士乃武が呟くと、
「風邪でも引いているんでしょ」
と真絢が心配していない声色で答えた。
その後すぐ予鈴がなり、皆はそれぞれの席へと散った。
授業が始まるのだ。