第二章
「だから士乃武。お前は今日結婚するんだ……あの時母さんの中にはお前がいたからな」
周五郎はなんでもないかのように彼に告げ、呆然としている士乃武に片目をつぶった。
「いや……それ……なに?」
士乃武は狼狽して母の恵子に視線を移したが、彼女も了解しているらしく、大きく頷く。
「仕方ないのよ士乃武。私も父さんから聞かされて驚いたわ。でもあんたにはちょうど良いお話だと思って」
ここで士乃武は二人の様子がおかしいと気づいた。まるで酒にでも酔っぱらっているように、どこか茫としてふわふわとしている。
「へぇー」今年で九歳になる妹の都が、事情が分かっているのか目を見張る。
「お兄ちゃん、もう結婚するんだ」
「しないよっ!」
思わず士乃武は叫んでいた。
「何を勝手なこを言っているんだ! 僕には一言もなく、突然! 大体まだ僕は十四歳だ。結婚なんて出来ないよ、法的に」
「『法』はな」
「そうね『法』はね」
周五郎と恵子は信じられない言葉を吐く。
つまり『法律』とは関係ないところで、『結婚』させようとしているのだ。会ったこともない人と。
「滅茶苦茶だよ! どうしていきなりそんな話になるんだ! なんで今まで言ってくれないんだよ」
数分まで彼は十四歳の誕生日を家族に祝われて幸せだった。しかしなんでもないかのように突然、それらの幸福は叩き壊された。
「それはお前」父は頭の後ろをがしがしとかいた。
「ハッピーサプライズだ。結婚おめでとうの」
「どこがハッピーだ! 結婚がサプライズでたまるかっ!」
「あれ? おかしいね士乃武。あんたそんなに嫌がるなんて、好きな子でもいるの?」
母の言葉を受け、思わず彼は桑原美冬を思い出した。
幼稚園からの幼馴染みで、今は手の届かない場所に行ってしまった少女だ。
「そ、そんなこと、ないよ……」
もごもごと否定する。それだけしか士乃武には出来ない。
「なら、問題ないわね」
母が笑顔で手を叩くと同時に、アパートの安っぽいチャイムが鳴った。
「お、先方がこられたようだ」
言葉を見つけられないでいる士乃武の前で、父が嬉しそうに椅子から立ち上がった。
士乃武は視線でそれを止めようとしたが、父は構わず扉へと急いだ。
そして玄関が騒がしくなり、父が一人の少女を伴って戻ってきた。
士乃武の心が一目で痺れた。
それは、あまりにも美しい少女だった。
ヨーロッパ系か、アジア人とは明らかに違う顔かたちであり、大きな切れ長の目の中に輝くのは珍しい赤い瞳、ゆるくウェーヴが入っている金と銀の混ざり合ったふわりとした髪、鼻は高くすっと通り、唇は血のように紅い。
士乃武がこれまで観てきたハリウッド映画の美人女優が裸足で逃げ出すほどの、圧倒的な美貌の少女だった。
ただ、ただ一点……彼女の顔は嫌に白かった。体調が悪いわけではなさそうなのに、血の気を感じさせない。
「初めまして士乃武様、わたくしはベアトリーチェと申します」
少女は士乃武を知っているのか、真っ直ぐに彼を見つめると、ふっと微笑んだ。
それが敷島士乃武とベアトリーチェの出会いだった。
ベアトリーチェと名乗った少女は、ゆったりとした黒いドレスを着ていた。
誰が見ても仕立ての良い高級なそれは、こんな中流家庭がやっと手に入れたアパートには場違いすぎる。
部屋着のジャージ姿だった士乃武は、思わず我が身を見下ろした。
頬が嫌に熱い。
ベアトリーチェの人口の0.001%しかいないレアな赤色の瞳で見られると、彼は恥部さえも全て見透かされているような感覚に襲われる。
美しい少女、ベアトリーチェは、まるで突然現れた閃光、もしくは暗黒のように、全てに置いて普通の日本人の家庭でしかない敷島家では異質だった。
「じゃあ、ここに座って下さい」
父の周五郎に促され、「ありがとうございます」とベアトリーチェが士乃武の対面に座る。
テーブルの向こうの美少女に、彼は思わず俯いた。
耳まで紅潮していると自覚している。
突然の、しかも美しすぎる『結婚相手』だ。どんな顔をし良いいか分からない。
そもそも、父の話しは聞いていたが、あれのどこにこの綺麗な少女が登場したのか。
士乃武は、もじもじとテーブルの下に目をやり、時折美しい花嫁にちらちらちと視線を上げた。
ベアトリーチェはにっこりと幸せそうに微笑んでいた。