第十七章
ベアトリーチェは言葉もなく蹲る士乃武へと、音もなく歩み寄る。
「どうかしましたか? 士乃武様」
「学校に……怪物が……」
答えられたのはそれだけだ。
ベアトリーチェは細く長い指で、彼の涙を払う。
「わたくしは言ったはずです。本当にあなたが嘆くとき、必ずわたくしがあなたをお救い致します、と」
何故だか士乃武にも分からない。しかしその時、彼はベアトリーチェには頼れるとの確信があった。
「助けてくれ、ベアトリーチェさん。美冬が、美冬が……」
「あら」と彼女の目がやや細まる。
「窮地なのは『あの女』なのですか……まあ良いでしょう。ならば約束して下さい」
ベアトリーチェは士乃武の頭を、豊かな胸に抱きしめる。
「ことが終わったら、これからはわたくしの家で生活して下さい。婚約者なのだし、けっして不便な思いはさせません」
どうして今その話題なのか、士乃武は分からない。だから何度も頷いた。
「ああ、美冬を助けられるなら、僕はどこにでも行く」
「約束ですよ」ベアトリーチェは熱い吐息と呟くと、すっと立ち上がる。
「ダイアナ、そこにいなさい」
「しかしベアトリーチェ様」
ふ、とベアトリーチェは楽しげに頬を緩める。
「小物相手にこちらが本気になる必要はありません、それに……敵は士乃武様を泣かせました」
ダイアナが深く一礼し、何事もないかのような足取りでベアトリーチェは閉じられた学校の玄関へと進んだ。
「あっ」と士乃武は小さく叫ぶ。
ベアトリーチェは中の危険性を知らないのだ。美冬も助けたかったが、これ以上犠牲者を出したくない。
「ご心配なく、士乃武様」
御者台から、ダイアナが声をかけてくる。
「ベアトリーチェ様は、小物の魔物などに負けません」
何も答えられない士乃武が見ていると、彼女は生徒用の玄関、先ほど全く開かなかったそれに近づいた。
がらり、と自動扉のようにそれはベアトリーチェの前で開く。
「え?」
目を瞬かせる士乃武に、ベアトリーチェは振り向いて笑った。
「では、少々暴れてまいります」
すたすたとベアトリーチェは暗い校内を歩いた。
電灯は全て消えてしまった。敵がこちらに気づいたのだろうか。
しかしベアトリーチェの目は闇の中も昼間のように見通せるので、意味がない。
「まあまあの異界ね」それだけは彼女も認めた。
『異界』とは魔が己の力を出し切るために作る異世界のことで、そこに人を引き込んで襲うのだ。
だから周囲にいる人間は気づかない……神隠しの正体だ。
「でも、詰まらないわ。面白味にかけるもの」
ベアトリーチェは嘆息しつつ歩を進めた。
敵の気配は掴んでいる。だからすぐに遭遇した。
体育館だった。
ざっと金属製の扉がベアトリーチェを迎え入れるかのように左右に開き、木の床の体育館の中央付近にいる真絢と保が彼女を視線で射た。
今まさに、美冬の首に噛みつこうとしている瞬間だった。
「お辞めなさい。その娘には興味ありませんが、わたくしの夫が悲しみますので」
ベアトリーチェの登場に虚をつかれた様子の真絢と保だったが、すぐに黄色い牙を鳴らす。
「何だお前は? どうしてこの場所に入れた?」
「自らの分を知りなさい。ここはわたくしのテリトリー内です。もし今失せるのなら何もしません。しかしわたくしのテリトリーでこれ以上の狼藉を続けるのなら……殺します」
「げはげは、どうやらあんた、人間じゃないようだな? 何故この娘を救う? 人でない者の筈のあんたが、人に興味があるのか?」
「その女に興味はありません。わたくしはただ愛する夫に尽くしたいのです」
げはげはげはと真絢が哄笑する。
「人に媚びるか? あんたも『魔』だろ?」
ベアトリーチェは輝くような笑顔になる。
「わたくしは人を愛することにしたのです……まあ、士乃武様だけですけれど、で、どうなさいます?」
不意に真絢の笑みが消えた。
ベアトリーチェと真絢、保が向かい合う。
そのまま数秒……。
先に動いたのは保だった。
「ぐわぁぁぁ!」と鋭い爪を伸ばして、保がベアトリーチェを切り裂こうとする。
「お前の臭いだ! あの日、お前の臭いが敷島からしたから、俺は食欲を抑えられなくなった!」
保が叫ぶ……だが、
一撃だった。
ベアトリーチェは手を軽く持ち上げ、接近した彼にそれを降ろす。
それだけで保の頭部がぐしゃりと潰れる。
ばしゃっ、と血が飛び散り、頭部を失った保の身体がどたりと後ろに倒れる。
「下賤なグールごときが、わたくしに触れられるとでも思ったのですか?」
呆れた様子のベアトリーチェに、真絢は美冬の身体を投げ捨てる。
「あんた! 何者よっ?」
「滅びる者に自己紹介など致しません」
「舐めるなっ!」
真絢が大きな口を開け、ベアトリーチェに飛びかかった。
ベアトリーチェもふわりと宙に上がり、空中で真絢の横っ面を蹴る。
「ギャワアっ!」
強烈な一撃を受けた真絢の肉体は、ばりっと体育館の壁をぶちやぶり、校庭に落下した。
「こ、こんな、馬鹿な……!」
校庭の土にまみれながら真絢が吠える。
「言ったはずですよ」静かな足取りで、ベアトリーチェも校庭へと足を踏み入れた。
「下賤なグールごとき、と」
「グルグルグル……」
真絢は金色の目を光らせて、四つんばいでベアトリーチェに威嚇した。
「あら。ここまでの差を見せられても逃げないなんて、そこは認めますわ」
退屈そうに髪を弄るベアトリーチェに、真絢が絶叫する。
「侮るな! グワァァァァァ!」
咆吼は闇の世界に何重も反響した。
「これは?」初めてベアトリーチェの表情が動く。
「くくくく、あたしがただのグーラーだと思った? あたしはグーラーの王族イスカンドラのマーヤ。今からグールの本当の力を見せてあげる」
真絢、マーヤの言葉通り、全方向にある異様な気配に、ベアトリーチェは身構えた。