第十六章
はあはあはあ、と士乃武と美冬は紫文第二中学校の廊下を走っている。
だが奇妙だった。
先ほどまでは夕日に染め上げられていた校舎が、今は闇に沈んでいる。
助けを求めようとしたが、まだ部活やらで残っているはずの生徒の、教師の気配はなかった。
まるで異世界にでも迷い込んだみたいだ。
げはげはげは、どこからか嘲弄するような笑い声が聞こえた。
「あたしらから逃げられると本気で思っているのかい? どこまでも逃げるが良い、すぐに追いついて喰ってやる」
「しーちゃん……恐いよ」美冬は涙声で彼に囁く。
「大丈夫だよ、みーちゃん。僕が君だけは助ける!」
士乃武は美冬を肩を抱いて走り、階段を駆け下り、玄関へと向かった。
すぐに生徒用の玄関が目の前に現れる。
だがぴたりとガラスの扉が閉められていた。
「なんだよこれ!」
士乃武は必至に開けようとしたが、アルミの扉はびくともしない。
「くそっ」彼は鉄製の傘立てを持ち上げ、ガラス扉に投げつけた。
ばいん、と跳ね返り、高い音を上げながら傘立てが転がる。
「しーちゃん……」
「ここはダメだ!」
何らかの力が働いていてるのか、生徒玄関は封じられている。
士乃武は考えた。どこか空いている場所……。
思い出す、職員室の横に生徒がいる間は閉まらない、校庭への木のドアがあった。
「みーちゃん、行くよ!」
士乃武は追ってくるだろう二体のグールの存在を素早く確認し、再び美冬の手を引く。
職員室に近づく頃、背後に気配を感じた。
振り向くと、闇の中に立つ、真絢の姿がある。
「げはげはげは、みーつけた」
「早く!」
士乃武は更に加速し、職員室の横のドアへ向かった。
「ああ」と美冬の唇から絶望の声が漏れる。
ドアは閉まっていた。
針金で固定されているはずなのだが、それもするりと外されている。
「くそっ!」
もう引き返す暇はない。グーラーの真絢が近くにいる。グールの保もそうだろう。
そして彼らは、重い人体を十メートル以上投げ飛ばす膂力がある。
捕まったらおしまいだ。
「こうなったら……」
士乃武は閉まっているドアへ体当たりをした。
かちゃ、と簡単にそれは開き、士乃武の身体だけは吐き出されるかのように、通じている校庭に転がる。
「え?」
と、体勢を崩しながら目を上げると、ドアががたり、と勝手に閉まり、ガラスの窓の中で驚いている美冬の姿が見えた。
士乃武は跳ね起き、扉のノブに手をやる。
回るどころか一ミリも動かない。
「な、何だよこれ? 何で?」
と、ドアの窓から美冬が真絢に襲いかかられる姿が見えた。
「みーちゃん! 美冬! どうして俺だけ!」
「どうやらあんたは何かに守られているようだね。まあいいさ、この娘を喰ったらあたしはこの街から消える。ずっとそうして来たからね」
ドアの向こうから、美冬を拘束した真絢が、楽しげに宣言をする。
「ふざけるな! くそっくそっ!」
士乃武は思い切りドアを叩いた。
だが木製の筈のそれは、鉄扉のように硬く、どんなに叩いても小揺るぎもしない。
「助けて! しーちゃん!」
美冬が連れて行かれる、士乃武は扉を殴り続けたが、意味がなかった。
「だ、誰か……」
彼は助けを求めるためにドアを置いて駆け出し、校外の道路に出た。
だが無意味だと悟る。
世界は暗黒一色に塗り込められていた。
本来なら暗くなると灯るはずの街灯も沈黙しており、これがただの夜ではないと如実に彼に語っていた。
恐らくこの世界に人はいないのだろう。
「そんな……こんなことって……みーちゃん」
がくり、と士乃武はその場に膝と両手をついた。
とんでもない世界の闇と遭遇してしまった。とんでもない世界の闇は彼の手に負えなかった。
大好きな女の子は、いつかの望のように無残に喰い殺されるのだ。
士乃武には何も出来ない。
「う、うううう」彼は絶望し、頭を垂れて泣き出した。
自分の弱さが恨めしい。情けない。
助けを呼ぶことさえ出来ない自分が、酷くみじめだった。
その時、まさにその時、ぱかぱかとして音を聞いた。
真の闇のはずの世界に、雷のように鮮烈な影が動いていた。
ぱかぱかぱか……馬の足音。
目をこらすと、ランタンを輝かせて一台に馬車がゆっくりと近づいてきた。
周囲に霧がふわりと立ちこめ出す。
何者か、どうしてか士乃武にはすぐに分かった。
馬車は彼の前で止まり、御者のダイアナが無言で彼を見つめていた。
扉が開く、案の定そこには、輝くような美貌の少女が微笑んでいた。
ベアトリーチェ。