第十一章
「ここって……」
「ダンスホールです」
士乃武の言葉に、ベアトリーチェは快活に答える。
「ダンスホール?」嫌な予感が彼の胸に起き上がった。
「士乃武様、わたくしと踊りましょう!」
予感が的中し、いやいやと士乃武は手を振る。
「僕は踊れないよ! そんなの無理だよ!」
社交ダンスなどテレビ番組の中の出来事で、士乃武のこれまでの人生とはかすってもいない。
「いいえ、わたくしがリード致しますので大丈夫です」
ベアトリーチェが合図をすると、ダイアナの手によりレコードが回り出す。
びっくりするくらい年代物の蓄音機のラッパのようなホーンから、明るい曲が流れてくる。
しかしやはりアンティークだからなのか、曲は所々歪み、飛び、どこか悪夢めいていた。
「さあっ」とベアトリーチェは気にせず手を伸ばし、彼女のきらきらとした目に抗せなくなった士乃武は、弱々しくそれを取った。
どこか禍々しく速く、遅くなる音楽の中、士乃武はベアトリーチェと踊った。
ワルツのようだが、彼女のリードが上手いのか、自分でも驚くぐらい足腰が動く。
「そうです、その調子です」
世界が回る。
ぐるぐると回る。
ダイアナとアンが拍手している。
食事後特有の腹部の重さも忘れ、酒でも飲んだみたいに酔っぱらい、士乃武は踊った。
心も跳ねる。楽しくて仕方がない。光が、闇が交差し、どちらでもない混沌になっていく。だが、それもどこか彼の心を浮き立たせた。
──この時間が一生続けばいいな……。
士乃武の魂が片方に傾きかけた。
『しーちゃん!』
隙をつかれたように、彼は美冬を思い出す。
同時に肉体の疲労感も思い出した。
「も、もう限界だよ」と、士乃武はダンスを中断させた。
「そうですか、残念です」
華奢な身体のどこにそんな力があるのか、まだまだ元気そうなベアトリーチェが、肩を落とした。
「いやっ、今度また踊ろうよ……なんだか僕も出来るみたいだから」
その様子が見ていられなくて、思わず士乃武が提案した。
「まあ、そうですか! よろこんで」効果はかなり良かった。
ベアトリーチェは赤い瞳を煌めかせ、うっとりと手を合わせる。
「わたくし、とても楽しみです。いつにしましょう?」
「ええと」自然と士乃武はスマホで時刻を確認して驚いた。
もうかなり深い時間だったのだ。
「あ、こんな時間だ。もう帰らないと」
「いえ」とふるふるベアトリーチェは首を振る。
「今日は泊まっていって下さい。ちゃんとお風呂もありますよ」
「い、いや」さすがに士乃武は鼻白む。
婚約者? とは言え、女の子ばかりの家に簡単に泊まれない。
「僕は今日は帰るよ、明日も学校あるし」
「そうですか」とベアトリーチェは目を伏せる。
「わたくし、二人用の天蓋つきのベッドを、今夜のために用意していたのですけれど」
「え?」
「いえ、士乃武様はいつでもこの屋敷で寝泊まりする用意は整っております」
「そ、そうありがとう。でも今日はいいかな」
「……分かりました。ダイアナ」
呼ばれたダイアナは「はい」と答え、部屋から出て行く。
馬車を用意しているのだろう。
「アン」とベアトリーチェはもう一人のメイドの名を呼ぶ。
「はい」とアンが進み出て、士乃武に、こちらへ、と扉の外を示した。
「これはわたくしからの一つのヒントでございます」
ベアトリーチェの言葉に首を傾げながら、アンに伴われ廊下に出た。
廊下には木の調度品が幾つも置かれ、その中に石で作られたのか椅子に座る翼のある怪物の像があった。
「これです」とアンはその不気味な悪魔を象った像を指す。
「これはガーゴイルの像です」
「がーご……?」
「まあ、お守りみたいな物です。士乃武様、これを持ち上げられますか?」
「え?」言われた士乃武は近づいて、椅子に座るガーゴイルの像を持ち上げようとした。
できない。ひんやりとした石の像は重くて、微かにも動かせなかった。
「無理だよ……こんな重い物、きっと人一人では持ち上げられない」
「あら、そうですか?」
アンが進み出て、ガーゴイル像に手をかける。
ひょい、と容易くそれは持ち上がった。
「えっ!」士乃武は目を剥いた。
彼には重すぎたガーゴイルを、アンはまるで少し大きなバスケットのように簡単に宙に浮かせたのだ。
「な、そんな?」士乃武は混乱する。
アンは普通の女の子だと思っていたのだが、違うのか。
「良いですか士乃武様、世の中には出来ないと思うことを簡単に成してしまう者がいます。どうか硬直した考えを持たずに、自由に発想して下さい」
「……はい」としか彼には答えられない。
その後すぐ、馬車の用意が出来たとのダイアナの報告があり、士乃武はベアトリーチェとアンに見送られて屋敷を出た。
再び濃い霧の中を馬車で進み、彼は馴染みのある家の前で降ろされた。
「では士乃武様、今日は私も楽しかったです。ではいずれ」
ダイアナは挨拶すると、場所の向きを巡らせ、霧の中に消えていく。
その背を見送っていると、さあっ、霧が晴れた。
驚きながら辺りを見回すと、静かな夜の住宅街が広がっていて、星も見えた。
魔法が解けた心持ちで、士乃武は家へと帰った。
「お兄ちゃん!」と帰宅着後、再び妹が彼にすがりつく。
「何だよ。どうしたんだ都。なんだか近頃変じゃない?」
だが都はぶんぶんかぶりをふるだけだ。
「おお、どうだった?」
帰宅していた父に尋ねられ、少し考えた彼は、
「おいしいステーキをごちそうになったよ」と答えた。
「よかったな」父は何度も頷くが、妹の都は怯えた目で士乃武を見つめ続けた。