第十章
大きな洋館だった。
ダイアナの操る馬車で案内された場所だ。
外観は重厚な茶系で塗装され、屋根にはいくつかの煙突がある。
まるで時間を超えて現れたような、不思議な建物だった。
「着きました」
ダイアナは士乃武へと告げ、次には箱形馬車の扉を開いていた。
「どうぞこちらに」
「う、うん」完全に気後れしている士乃武は、ダイアナの言うとおりに案内され、屋敷の大きな扉の前に立った。
ダイアナが躊躇無く両開きの扉を開く。
ぱあっと広がった光に、霧の立ちこめる闇を進んできた士乃武は、思わず目を細めた。
「ようこそお越し下さいました。士乃武様」
今日は深紅のドレスを着たベアトリーチェが、うれしそうに微笑む。
「あ、ええと、うん……」
母からちゃんと挨拶をしなさいと教えられていた彼だが、瞳の緋色と良く合うベアトリーチェの可憐な姿を一目見た途端、彼の舌がこんがらがる。
ベアトリーチェの美貌はやはり別格だ。見つめているだけで士乃武の心は彼女だけで占められてしまう。
「さあ、いらして下さい」
ベアトリーチェは緊張に金縛り状態の士乃武の腕に自分のそれを絡ませると、彼を屋敷の中へと引っ張った。
「はああ」とため息しか出なかった。
ベアトリーチェの屋敷は見たこともない世界だった。
足元には厚い絨毯が敷かれ、アンティーク家具が幾つも揃えられ、光源は蝋燭だ。
時代錯誤、と言えばそのままだが、どこかそれが普通なくらい屋敷の至る所が清潔で、蝋燭の灯だというのに隅々まで光が届いている。
何故かと振り仰ぐと、きらきらと煌めくシャンデリアが天井にはあった。
──ここどこ? 僕は一体どこに来たんだ?
士乃武は現実離れした光景に何度もそう自問してしまう程、彼女の家は豪華で豪奢、華麗だった。
そんな彼は長く細いテーブルが置かれた大きな部屋に足を踏み入れる。
赤毛の少女がいた。
ダイアナと同じくメイド服姿で、士乃武の姿をみとめると柔らかく微笑んで挨拶する。
「私はアンです。このお屋敷のメイドをしております」
アンの言葉に士乃武は本格的に困惑する。
この時代にメイドを二人も雇う西洋屋敷……何か大きな齟齬がどこかにあるような気がして、士乃武は己の現実との違いに惑う。
制服を着て、普通の中学校に通う。
彼はそんな『普通』の日本の少年だったはずだ。
だが今士乃武は、座り心地の良い椅子に腰掛け、しみ一つ無い真白いテーブルクロスで覆われたテーブルに向かっている。
彼の前に並べられた皿もぴかぴかに磨かれ、ナイフとフォークは銀製のようだった。
「本当はコース料理でも良かったのですが、士乃武様はまだこちらの方がいいでしょう?」
調理担当なのか、アンが大きな皿に大きなステーキを載せて、テーブルに乗せる。
パン、そして赤色のスープと料理は続く。
「本日は肉料理にいたしました」
アンは優しく言って下がり、扉の近くでダイアナと並んで立つ。
「さあ、温かい内に召し上がりましょう」
長テーブル故に少し離れた場所に座るベアトリーチェに促され、士乃武は指紋がつくのを恐れながら、磨き上げられた銀のナイフを持った。
ステーキは絶品だった。
ミディアム・レアに焼かれた肉は軟らかく、脂はとろりと甘く、ナイフですっと切ると肉汁が溢れ出す。かかっているソースも肉の風味に良く合い、本当においしい物を初めて食べた気分だった。
「これ、おいしいね」
思わず士乃武が口にすると、アンが畏まる。
「ありがとうございます。それはこの夜で最も新鮮で美味な肉です。ご堪能下さい」
士乃武はきょとんとした。
てっきり牛だと思っていたが、このステーキは違う肉なのか。
ベアトリーチェに目を向けると、彼女はほとんど焼かれていないブルー派らしく、文字通り血がしたたる肉塊を口に運んでいる。
ふっと目をそらした。
ベアトリーチェは口元を血で赤く汚しながらステーキを食べているのだ。
すぐにナプキンで拭くのだろうが、美しい彼女の瑕疵はどこか罪悪めいていて、直視できなかった。
士乃武の若い胃袋のせいか、アンの手腕か、彼は並べられた料理をあっと言う間に平らげた。
「ふうぅ」と満足げに吐息すると、ベアトリーチェがゆったりと問うてくる。
「何かありましたか? 近頃、。どこか士乃武様は悲しんでいらっしゃいます」
どきりとした。望の不審な死についての一連が見抜かれたのだ。
士乃武は『その話題』を引っ込めようとしたが、自然と口から出ていた。
「……実は……クラスメイトが死んだんだ……不思議な死だった」
何かに憑かれたように、彼は全てを話した。
望が学校で消えたこと、不自然な状況、無残な死体……。
恐らくこの場での話ではないのだろうが、彼は話さずにはいられなかった。
そして数人で明日から探索する、とまで白状した跡、士乃武は我に返り、頬の熱を感じ黙った。
「……なるほど」しばらくの静寂の後、ベアトリーチェが口を開いた。
「士乃武様の親しい方の死の真相を知りたいのですね?」
「知りたい……と言うか、疑問を解決したいんだ」
「そうですか」
再びしばらくの静寂。
ベアトリーチェの瞳に、形容しがたい光がたゆたっていた。
「……きっと思いもよらぬ出来事なのでしょう」
彼女は一つ頷くと、ナプキンで口辺を拭う。
「士乃武様、それより少し運動をしませんか? あまり食べてばかりだと身体に悪いのです」
楽しげな所作で彼女は椅子から立ち上がり、ダイアナが素早く食器を手に持つ。
士乃武の方はアンであり、ソースの跡しか残っていない皿を、彼女は横合いから持ち上げた。
「あ、ありがとう」もぐもぐと礼を言うと、アンは緑色の瞳に光を湛え答える。
「いいえ、これが私たちの仕事ですから……それより、士乃武様はベアトリーチェ様とホールへお行き下さい」
──ホール?
と訝しがる士乃武は、すぐにベアトリーチェに一つの部屋へと誘われた。
喫驚した。
ぴかぴかの木の床がどこまでも広がる、大きな場所だった。
部屋の隅にはソファなどが置かれ、小さなサイドテーブルにチェス盤などもあった。