第一章
敷島士乃武は十四歳の誕生日、いきなり結婚した。
「は? 結婚?」
まだ中学二年生でしかない彼はひどく驚き、ぽかんと口を開けて、父の敷島周五郎に問い直した。
「ああそうだ」
父は大きく頷いて。遠い目になる。
「これは……ずっと前からの約束なんだ」
彼は語り出す。
十五年前の出来事だった。
まだ何も知らない大学生だった周五郎は、イスラエル民族のエジプト脱出後の気持ちを察したくて、わざわざ旅行で訪れ、チンの荒野を単身さすらった。
愚かで甘やかされた彼は、その時荒野を侮り、軽装のまま砂と岩しかない土地へと足を踏み入れた。
半日で水が失われ、夜が訪れるころには、彼は誰もいない岩場で脱水症状で動けなくなっていた。
「うううう」周五郎は呻いて地面に倒れ込んだ。
もう限界だった。喉は乾いているのではなく痛みにひりつき、指先がひどく冷える。
ジャッカルの遠吠えが聞こえた。
周五郎は申し訳程度に草が生えている荒野の真ん中で、足掻いた。
助けを呼ぼうにも、スマホは電波が届かない表示を出すだけで役に立たず、彼は笑顔で地元民の警告を振り払った数時間前を後悔した。
空は闇に覆われ、地にはびゅうびゅうと強い風が吹きつけていた。
「た、たすけてくれ」かさかさに擦れた声で誰かに救援を求めたが、風によりそれはかき消える。
──俺はこのまま死ぬのか?
周五郎は胸部にしか残らなくなった温もりに浸り、心の中で目をこらした。
夢のように浮かぶのはふるさとの日本のなんでもない光景。付き合い出して数ヶ月の美しい恋人の恵子。
「もしかして子どもが出来たかも……」
その恵子が申し訳なさそうに彼に告げたから、この旅を計画した。
自由な身である独身の最後の思い出として。
だがそこで彼は死の影を踏んだ。
頬を張るような風に抗して目を開けると、星もない闇の中、どこまでも続く砂と岩だけが見えた。
周五郎は絶望した。
既に彼は自分にそこを踏破できる体力がないと分かっていた。
彼はここで死ぬのだ。
「いやだ……」気が付くとその言葉が漏れていた。
「俺には愛する人がいる、帰る場所がある……ここで死にたくない……だれか……だれか助けてくれ! ……どんな物でも差し出すから」
その瞬間、彼を苛んでいた風がぴたりと止んだ。
「え?」と周五郎が目を瞬かせると、闇の中で何か巨大な物が動いた気配がした。
『どんなものでも? そう言ったか?』
どこからか雷鳴のような声が轟いた。
男のものか女のものかも分からない、ただ幾重にも辺りに反響する声だった。
『答えろ。貴様は死の代わりに、我に何でも与える、そう誓ったのか?』
周五郎は自分が夢を見ているのだと思った。
死の前の最後の夢。
「ああ……俺が持つものなら」
ばくん、とチンの荒野が波打った。
『ならば貴様の息子を、今度産まれる息子を渡せ』
「え?」
──息子……? 恵子の中の子?
夢うつつの彼は、喫茶店で俯く彼女の姿を見ている。
『無論、傷つけようとは思っておらぬ。貴様の息子と我の娘と娶せたいのだ』
声から威圧的な雰囲気が消えていた。まるで彼を丸めこませようとしているのか、どこかに甘い誘惑がある。
『そうすれば、貴様の命は助けよう』
周五郎はただ闇の中で目を細めた。一体何者が語りかけているのか。
『そうでないのなら』
ごうっと再び彼の体力を削る突風が吹きつけてくる。
周五郎は後方に引っ張られる髪を感じながら、考えた。
本能的に『それ』は忌避しなければならないものだと、何かが警告していたのだ。
だが風は、環境は、刻一刻と周五郎の命を短くしている。
暗黒、死、絶望、禁忌、過ち……だが彼は決意した。
「わかった……俺の息子は……あんたの娘と結婚させる」
周五郎は息を吐く。
「だから、俺を助けてくれ!」
それが限界だった。
ぷちりと彼の意識は途絶え、暗闇の中に落ちていった。
次に彼が目を開けると、イスラエルの首都エルサレムの高級なホテルのベッドだった。
狼狽しているとドアが叩かれ、流暢な日本語を話すホテリエが部屋の外に待っていた。
そのホテリエからホテルの代金を既に払ってあると知らされた周五郎は、さらに託されたらしい手紙を渡された。
やはり見事な日本語で文字が書かれていた。
『婚礼の約束は成された。今より十四年後、そちらの男子にこちらの花嫁が向かう。用意をするように』
周五郎は手紙を胸に、出来事が夢幻ではなかったと確信した。