マロニエの実が降る秋に逃げ出した恋を訪ねて
* 武 頼庵(藤谷 K介) さまご主催『この秋、冒険に出よう!! 企画』参加作品です。
後書きに主人公のFAとマロニエの実の写真があります。画像表示不要な方は設定変更をお願いします。
「痛っつ、またこの季節かよ」
仕事帰り、バス停への並木道を歩きながら額を撫でた。ぶつかってきたものはコロンコロンと転がって、芝生上の落ち葉に紛れる。
「おい、マロニエ、このベンジャミン・コール様を狙うとはいい度胸だ。お前なんかな、仏語で呼んでやることもない、食べれもしない『ダメとち』だ」
イギリスの大邸宅のアプローチには、なぜかよくセイヨウトチノキが使われている。
9月末にもなると、鈍らな棘をつけたピンポン玉より大きい実が落ちてくる。油断をしていると、割れた実の中のナッツ部分だけが直撃する。それも食用にする栗より丸々と一回り以上大きく、痛みはある、いや、かなり、痛い。
普段はマイカー通勤のところを、車検に引っ掛かって代車も借りれず不便なバスで出勤した帰宅路、勤務先のお屋敷から、表門横のバス停までの2キロもあるマロニエ並木を歩いていた。
メンテナンス課長という肩書で屋敷の屋根を直したり、地面の中の古い水道管の水漏れを止めたり、何でも屋をしている。
不惑の年齢が限りなく近づき、肉体作業はもう少し若手に任せないと、仕事後に30分歩かされるのは辛いと思い知った。
上からの攻撃を躱せないなんて。
そして、コンカーと呼ばれる『ダメとちの実』は、嫌でも自分の黒歴史を思い出させる。
若き日を過ごしたパリの並木とその頃の不甲斐ない自分。
遅れて来たバスに乗り込んでから、いい歳した男が感傷に浸っても仕方ないなどと思いながらも、あの頃の景色が脳裏にちらつく。
それもきっと、先日のクイズ大会のせいだ。
屋敷の敷地を貸し出して行った初めての野外コンサートが盛況に終わり、オーナーが慰労バーティを開いてくれたのだ。
昔は舞踏会でも開いたのだろう邸内の大広間で、用意された丸テーブルに部門ごと分かれて座り、ディナー、デザート、コーヒー、紅茶、食後酒を手にコンサートに来ていた前座バンドの演奏、なぜかその後にクイズ大会という豪華さ。
カラオケでなかった点はまだよしとしよう。イギリスのカラオケはお笑い重視、どれだけ下手かを競うような、耳に悪いものが多いから。
オレたちメンテナンス部門なんて、手に職で勝負する連中の集まりでクイズなんてからっきし、「DNAが二重らせん構造だと発見した人の名は?」とか聞かれて答えられるわけもない。
IT部門やイベント招致部門の学歴ある若者たちの独壇場。
そこにあの質問だ。
「パリ凱旋門の東側にある、シャンゼリゼ通りで繋がれた有名なランドマークは?」
オレは曖昧過ぎだろ、と鼻で笑った。
「おー、シャンゼリゼ~」と気持ちよく酔った奴らが歌い出す。イギリス人でパリに一度も行ったことが無い者は、まあ少ない。何といっても距離が近い。
あちこちのテーブルから手が上がり差された者が思い思いの答えを口にする。
「ルーブル宮殿」「ルーブル美術館」「チュイルリー庭園」
どれもあながち間違いではないが、その度に前でマイクを握る出題者は首を横に振る。
「エッフェル塔!」とか「ムーランルージュの風車!」など、全く見当違いの答えが上がり出す。
オレはなぜかパリに失礼な気がして手を挙げていた。
荒くたい作業職のベンジャミンがパリを知っているのかと会場がしんとする。
「ロン・ポワン劇場」
「ブッブー」
とマイク係に言われ、場内にやっぱりね、という空気が流れる。
「それでは回答です」
と司会者が言うのと食い気味に、オレは、「グラン・パレ、プチ・パレ、プラース・ド・ラ・コンコルド」と凱旋門側から順に並ぶものの名を挙げていた。
「あ、当たり、当たりです、プラース・ド・ラ・コンコルド、コンコルド広場です」
会場はうぉーっとわけのわからない雄叫びに包まれた。
オレはいつも一緒に作業している仲間たちに「課長、すごいじゃないですか」などと言われて照れ笑いに忙しい。
オレがコンコルド広場を何度巡ったか、中心に立つオベリスクを何度睨んだか、誰も知らない。
それもそのはず、オレはあの頃の話を誰にもしていないのだから。
凱旋門とコンコルド広場間は、苛酷な自転車耐久ロードレース、ツール・ド・フランスのゴールだ。
オレはサイクリストだった。そう、ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなどグランツールの常連。
でも誰もオレの名を知らないのは、ペロトンの一員、チームメンバーに過ぎなかったから。
スプリント王に捧げられる緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール 」をチームリーダーに取らせることがオレの使命だった。
リーダーの前を走りスリップストリームを最大限に使わせ、ゴール直前で道を開け、名誉あるシャンゼリゼの最終スプリントで勝たせる。リーダーというロケットに準備をさせ最善の状態で打ち上げる発射台だったわけ。
自分もスプリンターだったというのに、そのためだけに、7月の暑い中、20数日もアルプスやらピレネーやらの山岳コースを走り抜き生き残った。若かったと思う。
最終日、凱旋門下でジャージ獲得者は表彰され、綺麗な女性から頬にキスをもらう。
引退前の3年間、オレはその中の一人と付き合っていた。
スポンサーのキャラぬいぐるみを抱き、花束を持ち、勝者を祝福する女たち。
「これが仕事なの。意味なんてないから」
彼女、マルチーヌはセクシーなフランス訛りの英語で囁いた。
自分が表彰台に立つことは決してないとわかっていることが、男をどれだけ卑屈にするか知りもしないで。
マルチーヌは、オレがリーダーを勝たせることができなかった年、オレが引退を決めた年に、マイヨ・ジョーヌを獲得した総合優勝者ルシアンと結婚した。
脇役の青春、ってことだ。
彼女の印象が強すぎたのかどうか、オレにはわからない。だが、今の今まで他の女が欲しくならなかった。
いや、軽めに付き合った女はいたんだが、結婚する気は端からなかった。
1時間のバスの旅が終わる。現実に戻ろう。四十路突入寸前の一人住まい、コンビニに寄って夕食を見繕って。
ぶらぶらと袋を下げて自宅まで、スケートパークのある公園を突っ切るのが近道。
今日は男の子がただ一人、普通の自転車でBMXの真似事をしていた。
人工的に作られた登り傾斜で、重力に抗して自分の身体が止まる感覚を楽しんでいるようで、降りるスピードばかりを楽しむ子より見込みがありそうだ。
何となく楽しい気分になって進行方向に顔を向ける。そこへはらりと、紅葉した桜の葉が散った。
「行くか? 行ってみるか? パリ五輪は終わった、街ももう落ち着いてるだろ」
―◇◇―
今年の7月前半、ツール・ド・フランスは地中海、ニースが最終到着地だった。パリは五輪準備で忙しく、それもセーヌ河を使っての開会式など、セキュリティ問題ありありだと騒然としていて。
久しぶりに総合優勝を果たした仲間に電話してみたら、寝耳に水なことを言われた。
「ベンジャミン、戻らないか? 駆け引きのできる発射台が必要だって」
「何言ってんだよ、オレはもうあの頃のスポーツ心臓の持ち主じゃないんだ」
「ハハ、お前の心臓には毛が生えてるって有名だったもんな」
「ロートルは遠慮しとくよ」
「ロートルと言えば、ペロトンとして残っていたルシアンがドーピングに引っ掛かった。5年前から既に使ってたらしくて、総合優勝も返上だ」
「ルシアンの総合優勝って、5年前の、オレの引退時の?」
「そうそう、それで俺たちが繰り上がり優勝」
「…………」
「ルシアン、自転車全部辞めるってよ」
じゃあ、マルチーヌはどうするんだ?
ふたりの家庭は?
ドーピングじゃメーカーやアパレルなどスポンサーからの収入も途絶えてしまう。
「もう一度一緒に走らないか?」
そう言ってくれる旧友を笑い飛ばして電話を切った。
―◇◇◇―
ある程度歳が行くと、何事もすぐには行動に移せなくなる。
冒険なんて、アタックなんて、オフェンスなんて、怖くて仕方がない。
ただ、友人の「もう一度一緒に走ろう」という言葉が今も頭で唸っている。
もし可能性があるとしたら、一緒に走りたいのはロードレースじゃない。
マルチーヌの人生のほうだ。
それをマロニエの実がコツンと気付かせてくれたのだとしたら?
アルプス・ステージのメッカ、自転車を漕いでも漕いでも自分の位置が変わらない「魔の山」と呼ばれたモン・ヴァントゥ踏破を思い出す。
スニーカーの靴ひものように折れ曲がるヘアピンカーブ。
苦しくなって足を止めたら自転車が転ぶ。
酸素が薄くて傾斜が急で、体調を崩す者が続出、遠い過去には死んだ男もいるらしい。
オレはそんな難所を、毎年楽しみにしていたんではなかったか?
先行した者たちが疲れてどんどん落ちてくる、自分のペースで足を回しておくだけで自分の順位がどんどん上がっていった。
スプリンター役の自分が山岳コース専門の男たちにも負けないって。
40歳直前にして昔の恋を訪ねるのは恐い。
だが、モン・ヴァントゥを攻略した自分が、挑戦もせず負け犬のまま朽ちていっていいのか?
マルチーヌの幸せを確認するだけでいい。会えないなら会えなくてもいい。
自分の想いに踏ん切りをつけるだけでもいいじゃないか。
彼女とルシアンの愛の巣は、アパルトマンと呼ぶには豪華すぎるパリのどこかのマンション。
パリに行ってみよう。
この手にあるのは選手時代に交換していたルシアンのアカウントのみ。
マルチーヌに会いたいとルシアンに告げたら、アイツはどうするだろう?
二人が盤石なら握りつぶすだろう、嫉妬に駆られたら闇に葬られる。
オレの未練たらしい恋なんて、そのくらいの細い可能性がいいんじゃないだろうか?
どこで倒れるかわからない、モン・ヴァントゥのヘアピンカーブのように。
―◇◇◇◇―
2週間後、マロニエの実も葉も落ちたパリに立ち尽くしていた。
10時から15時の5時間、まあ粘ったほうだろう。
「10月14日、コンコルド広場オベリスクの前でマルチーヌに会いたい」とルシアンのアカウントに入れたメッセージは、スルーされてしまったということだ。
マルチーヌどころか、ルシアンからでさえ何の反応もなかった。
なくても、この場所に自分が立つことに意味があると思ってドーバー海峡を渡った。
当然の結果だ。
マルチーヌが幸せならそれでいい。
夫が自転車競技を辞めてもうまく暮らしていけるなら、肉体労働何でも屋で食いつないでるオレなんかよりよほどいい。
さて、オランジュリー美術館でも見ていくか、ルーブルまで戻るか?
悔しいとか悲しいとか感慨が胸に浮かぶ前に道路を渡って、チュイルリー庭園に入った。
芝生の間を、向こうからふわふわの金髪をツインテールにした女の子が駆けてくる。
「ママン、観覧車しよ? ねぇ、いいでしょ?」
後ろから、マロニエの実のような艶々なブルネットを靡かせたスレンダーな女性が歩いてくる。粋なパリジェンヌそのもののオーラを放って。
「ちょっと待ってね、ママンはこのオジサンと話があるから」
オレの限られたフランス語力でもこのくらいは聞き取れた。
びくりとして立ち止まると次に聞こえたのは英語だ。
「いくら何でも諦め早すぎない? こっちは別居中でプロヴァンスの実家に帰ってたのよ?」
オレは5年経とうが母になろうが美し過ぎるマルチーヌに声も出なかった。
「それで、ルシアンから奪うつもりはあるの?」
オレはマルチーヌの瞳に吸い込まれそうになりながらただ頷いた。
「薬とチームメイトの風除けのお陰でやっとモン・ヴァントゥ登った男との違いを見せてもらうわよ?」
オレはまたコクリとしてから、疑問が湧いた。
「オレの登り、もしかして見ててくれたのか?」
「当然でしょ、私地元なんだから。チームがあなたを発射台に使わなかったら、もっと総合順位は高かったわよ。オールラウンダーとして扱わなかった監督のミスだわ」
「ロードレースはチームプレーだから……」
「私のプライベートは全部あなたにあげるつもりだったのに、何も言わずにイギリス帰っちゃって」
「すまん……」
「私もバカだった、結婚してすぐ、日頃から何か飲んでるの気付いたのに……」
気が強いはずのマルチーヌの鳶色の瞳から涙が落ちる。
オレは恐る恐る女の肩に手を回した。
「ねぇ、観覧車~!」
ルシアンから金髪をもらった少女は涙を隠す母親を可愛らしく見上げていた。
オレはその子の前に膝をつく。
「オジサンも一緒に乗っていいかい?」
その子は「え~」と首を傾げたが、
「ママンがいいなら一緒でいいよっ!」
と言ってパリの大観覧車に向かって走っていった。
―了―