美姫、窮地
「オリガ様、危ない‼︎」
悪霊の詠唱を中断させたのは、どこからともなく現れたヴィーゼルの剣撃であった。
咄嗟に躱されたため致命傷には至らなかったが、真っ暗な口腔から怨嗟の唸り声が上がる。
「ここは自分にお任せを!エルシュ殿、オリガ様を頼みましたぞ!」
言うが早いか、ヴィーゼルは再び悪霊に挑みかかっていく。
その様子を尻目に、エルシュがわらわの腕を引いた。
「一旦退がりましょう、オリガ様。巻き込まれちゃいます」
彼女の言葉に従いながら、わらわは問うた。
「エルシュ、悪霊はこの頃目撃されておらぬのではなかったのか?それが何故…」
エルシュは困った顔で首を振る。
「目撃例が無かったのは本当なんですけど…もしかして隠れてた?でも、そんなことする理由って…?」
エルシュが思考に浸りかけた、その時。
「がッ…‼︎」
大柄な体躯が泥に塗れながら、わらわ達の足元に転がってきた。
「ヴィーゼル⁉︎」
「っ問題、ありません…‼︎」
よろめきながら、ヴィーゼルは身を起こす。
しかし脇腹から多量に出血している姿は、どう見ても軽症とは言い難い。
雨の帷を抜けて、悪霊がゆっくりとこちらに接近してくる。
彼奴の害意を湛えた視線が、痛い程に突き刺さった。
…彼奴はわらわだけを見ていた。
その他の者達など、眼中に無いといった様子で。
冷たく燃える憎悪の矛先を、わらわだけに突きつけていた。
「オリガ様、ここは私が…」
恨まれるようなことをした覚えはない。
彼奴がわらわを、誰か別人と間違えている可能性もある。
「オリガ様?」
わらわは一歩前に出た。
また一歩、更に一歩と。
訝しげに動きを止めた悪霊の前に進み出て、わらわは彼奴と向き合った。
「わらわの名はオリガ!オリガ・フォンテールである!」
雨音に掻き消されぬよう、わらわは声を張り上げる。
「悪霊よ、これが其方が真に恨む者の名か?其方が真に呪う者は、確かにわらわか⁈」
しばしの沈黙。
やがて真っ暗な口腔が、薄く開かれた。
「……」
声は聞こえない。
ただ、乾涸びた唇の両端が弓形に釣り上がった。
…嗤っている。
真紅の双眸に憎悪を激らせたまま、悪霊はわらわを嘲笑している。
刹那、しわがれた【大地ノ鋭爪】の詠唱の一端が耳に届いた。
「「オリガ様‼︎」」
「‼︎」
泥濘が、再び波打つ。
回避しようと身を捩るが、魔法の大岩は既に迫ってきていた。
腹部に衝撃が奔る中、掠れた嗤い声がやけに大きく聞こえていた。