翼を忘れないで
高校生の畑中正志は、ある時、同級生の白井翼が背中に純白の翼を生やすところを見てしまう。それからというもの、何となく関わり合うようになった二人はお互いに影響を受けていく。やがて、畑中と白井は翼の力を有効活用しようとあることを始める。この交流は、二人にとっての救いなのか、それとも……
第21回書き出し祭り参加作品
連載開始時期未定
この日、僕は見てしまった。彼女が純白の翼を生やしてしまったことを。この日から始まった彼女との十年間は僕にとって救いだった。僕は生涯この日のことを忘れないだろう。
昼休みの教室。スマートフォンで動画を見ていると突然スマホが持ち上がった。スマホを持ち上げたのは、クラスの王様、橋本君だ。ちなみに僕は橋本君のことが苦手である。
「おい、畑中。何の動画を見ているんだ」
そう言って彼は動画を見る。画面に映っているのは世間的にはマイナーなボカロ曲のミュージックビデオである。
「ああ、畑中ってこういう趣味があるんだ。ふーん」
高校に入学して二か月。橋本君についてわかったことは、彼は自分が気にいらない人の趣味を笑う人である、ということである。二〇一六年になっても人の趣味を笑う人間はいなくならないのだなとつくづく思う。
「おい、オタク。俺のパンを買ってこい。今すぐに」
「……わかった」
辺りを見回すと僕の方を見てくすくすと笑っている連中が何組もいた。僕は完全にクラス内で舐められたものである。かと言って橋本君を敵に回すと、この狭い世界の全てを敵に回しかねないので僕はパンを買うために歩き出した。教室を出る直前、クラス内ではそんなに目立っていない白井さんが僕のことを見ていたような気がした。その目には僕に対する同情があるように感じた。それから僕はパンを買って彼に渡したものの、買ったパンがまずいからと僕に食べかけのパンを投げつけた。その瞬間を先生は見ていたが、あいつは何も見なかったと言わんばかりに無視した。橋本を殺したいとは思わなかったが、こいつには社会的に死んでほしいとは思った。
放課後、忘れ物を思い出して教室に戻る。しかし、既に先客がいたようだ。ドアの窓越しに人影が見える。どうやら男女がいちゃいちゃしている様に見えた。しかしである。それにしては女の方が逃げ出そうと必死そうなのだ。僕は彼らに気づかれないように頭を下げて、扉に目一杯近づいて声を聴こうと試みた。すると、なんとなく何を言っているのかが聞こえてきた。
「おい、逃げんなよ。せっかく二人なんだから楽しもうぜ」
男は明らかに橋本の声だ。
「離して!」
もう一方の声はおそらくだが、白井さんだろう……。
なんてこった! 橋本は男連中をいじめることに飽き足らず、女性にまで手を出すなんて! 体は勝手に動いていた。
「おい! この外道!」
僕は一人で教室に突入し、白井さんを助けようと橋本に近づいたが、あっけなく彼に顔面を殴られてしまった。その場で倒れ込む。
「お前が俺にたてつくなんて百年早いんだよ!」
僕は必至であいつにしがみついた。しかし、僕とあいつの力には大きな差があり、僕は全くかなわなかった。それでも、だ。ここでしがみつかなければ、僕は一生後悔することになるような気がしていた。
結果を言うと僕はあいつに負けた。もう動けない中で白井さんは服を脱がされ始め、あいつが彼女を襲おうとしている様子を見ていることしかできなかった。もう彼女を助けられない、ごめんなさい白井さん、と思った瞬間青白い光が教室を包んだ。何が起きたのかすぐには理解できなかった。光が収まると、彼女の露わになっていた背中に何かが生えているのが見えた。見るに純白の大きな翼だった。
「ああ、なんだよ、その羽」
橋本がうろたえた。僕だって何が起きているのかさっぱりわからなかった。彼女は倒れて動けない僕を見つめる。その時の彼女は人間じゃない存在のように思えた。彼女は僕を抱き上げると窓を開け、背中の翼で飛び立った。僕は彼女に抱きしめられたまま一緒に空を飛んだ。どのくらいの高度で飛んでいるのかは僕にはわからなかった。下を見るとそこには僕らが住んでいる町のほぼ一帯が見えていたような気がした。
この日、僕は見てしまった。彼女が純白の翼を生やしてしまったことを。この日から始まった彼女との十年間は僕にとって救いだった。僕は生涯この日のことを忘れないだろう。
白井さんは学校から少し離れた場所で地面に降りた。僕を離すと彼女の翼はみるみる縮んでいき、本当にさっきまで翼が生えていたのかわからなくなるまでに畳まれていた。彼女は今上半身が露わになっている。さすがに女性の裸をまじまじと見るのはまずい。翼が畳まれた今なら服を着せられるだろうか。ひとまず、自分が着ているジャケットを彼女に渡そう。ジャケットを脱いで差し出した。
「これ、貸しますから今は着てください」
彼女は呆然としていたようですぐには反応がなかった。
「白井さん……」
「あ、ごめん……。自分でも何がなんだかわからなくて。ジャケット、ありがたく借りるね」
彼女は受け取ったジャケットを着てくれた。ひとまず、目のやり場には困らなくなった。
それにしてもである。あの青白い光は一体何だったのだろうか。彼女も自分の状況をよくわかっていないようで、何か考え事をしている仕草をしていた。程なくして、彼女は僕の方を見てきた。
「さっきは、助けに入ってくれてありがとう」
白井さんから感謝された。
「いいや、結局僕は何もできなかったから、ありがとうと言われても……」
実際その通りなのだ。僕は助けに入ったのはいいものの何の助けにもなれずに橋本に返り討ちにあっただけだった。不甲斐ない。
白井さんは話を続ける。
「それでも、あの場に畑中君が来てくれたことが私にとっては大きな救いだった。最終的にはだめだめだったかもしれないけど、あの場で必死に助けてくれようとしたのは嬉しかった。あなたは、いざって時は勇気を出せる人なのね。私も見習いたいわ」
そう言われると助けに入った甲斐はあったと思えた。素直に嬉しくなる。
「こちらこそ、そう言ってくれてありがとう」
僕はそう返事をした。彼女は微笑んで頷いてくれた。
程なくして白井さんが困った様子で言った。
「それにしても、どうしよう。あいつに襲われて逃げ出した時のことをどう説明したらいいんだろう」
確かにである。学校を飛び出してここにいる理由を後でどう説明したらいいのか。
「うーん。……橋本に襲われたところを僕が助けようとしたけどダメだった。だけど、白井さんが逃げる隙はできたから白井さんは伸びた僕を何とか運んで、なり振り構わずに外まで逃げた。もちろん翼のことは伏せておく。ひとまずは、これでどうかな?」
「そうね。それしかなさそうよね」
彼女は納得したようだった。
「それじゃあ、ひとまず近くの交番に行こう。保護してもらって今話した通りに事情を説明したら、きっと何かは助けてくれるよ」
「うん」
僕らは歩いて近くの交番に向かった。交番に着いて僕らは警官の人に事情を説明した。すると、学校から連絡はあったようで学校側も僕らを探していたらしかった。
迎えにきたのはこれまで全然関わりのなかった先生だった。その先生から聞いたことだが、どうやら巡回中だった別の先生が、教室にいた放心状態の橋本を見つけたらしい。教室に散らばっていた白井さんのジャケットや下着を見て状況はすぐにわかったという。迎えに来てくれた先生はクラスの担任とは大違いで白井さんと僕のことをとても心配してくれていた。「逃げてくれてよかった。無事でほっとした」とも言っていた。学校や警察にさらに詳しく事情を説明したり傷の手当てだ何だをした結果、その日、白井さんと別れて家に帰れたのは夜の九時を過ぎていた。帰ってきた直後はひどく疲れていたと思う。
後日、橋本は退学した。それから彼の姿を見ることは二度となかった。