【番外編】降り止まない雨の世界γ
「……え? どういうことですかお母様?」
「どうもこうもないわ。もう英語は完璧に習得したのだから、これ以上こんな治安の悪いところに留まる必要はないでしょう?」
「……! でも、友達が!」
「はぁ、まだそんな甘っちょろいこと言ってるの? どうせあのそばかす女のことでしょう?」
「!」
私はピンポイントに当てられたことに少し驚いてから、黙ってこくりと頷いた。
「あのね。いい? ざえ、あなたは選ばれた人間なの。鏡に映るのは、その美しい顔。テスト用紙に残るのは、100点の文字。そんな優秀なあなたの人間関係は、当然高品質なものでないといけないの。こんな治安の悪い異国の低所得家庭と仲良くする意味なんてないのよ!」
バン! っと母は壁を叩いて怒りを露わにする。
「ざえ。あなたは弱者と目線を合わせる必要なんてないの。石ころと対話を図る必要は無いの。視界に入れない。入れても気が付かない。気分によっては蹴りつけたり川へ投げても良い。分かる?」
「……はい」
「そうよ。あなたはそんなくだらないものに時間を費やしてはいけないの!興味なんて湧かなくていい! 私は石ころに興味はありません。さあ、繰り返し言いなさい!!」
「私は……石ころに、興味はありません」
「もう一度! 声が小さいのよ!」
「私は石ころに興味はありません!」
「もっと大きな声で! 自分の体に染み込ませるように言うのよ!」
「……私は、石ころに興味はありません」
パチン
朝10時。空港。
突然アメリカを去る私に会いにはるばるやってきてくれたエマに、母を信じてこの言葉を吐いた。瞬間、私の左頬に激痛が走った。
しかし、それよりも鮮明に覚えていたのは、エマの流した大粒の涙だった。
今までの学校生活で一度も泣き顔を見せることのなかった彼女の貴重な涙には、こらえ難い憤怒と失望の感情が凝縮されている気がした。
日本に到着した頃には、私の心は案外整理されていた。日本とアメリカの距離は子供だった私にとって現実に思えない程に莫大で、それに、"日本に来た今、アメリカの友達なんてどうでもいい"と自分に言い聞かせれば、心は自ずと軽くなったのだ。
「ざえ、これ以降は自分一人で生活しなさい。お金ならいくらでもあげるから、小学生のうちに不都合なことがあれば召使いを雇いなさい。わかったわね?」
母は諸々の説明をした後でアメリカにとんぼ返りしていった。彼女はアメリカを拠点に仕事を行っているからである。
ここだけ切り取れば放任主義に思えるが、彼女の場合はその放任すらも計画のうちに入れた徹底管理主義であることを、私は知っている。
母が"何事にも興味を持つな"と言ってくれた方が、まだマシだったのかもしれない。
母は"母が思う将来役に立つもの"に興味を持つことを望み、それ以外には一切興味を持つことを禁じた。
きっとこの時、私の"興味"は壊れてしまったのだ。




