試練の終わり
あ、と声が漏れる。
武器から伝わる懐かしい感触。肉を貫く感触。鮮やかな血の色。死の色を、臭いを、あのアシェルが漂わせている。
アシェルに死をおそれる色はなく、美しく微笑んでいる。
震える手から柄が離れて、アシェルの胸を貫いたアインホルンがすべり落ちた。フェルゼンの色であり、アシェルを象徴する赤が大地を濡らす。
「これでいい」
アシェルはつぶやいて、その場に崩れ落ちた。
「アシェル様ぁぁ!」
エミリアは両腕を広げて、力の抜けた体を受け止めた。
戦姫の白の装束が、アシェルの血を吸って赤く染められていく。
「どうして、どうしてこのようなことを!」
エミリアはあえぐように、アシェルの体を抱きしめて叫んだ。
アシェルはかすかに身動ぎして、わずかに顔をあげた。
口の端に血があふれて、呼吸も満足にできないだろうに、それでも穏やかな微笑みが消えることはない。
「俺はきみを手にかけてしまったことを、ずっと後悔していた……そうだ、俺はきみを知っているんだ」
アシェルの左手がエミリアをなぐさめるように頬をなでる。
その手は手袋越しでも冷え切っていて、エミリアは体温を分け与えるように己の手を重ねて、ぐっと頬に押しつける。
「やっと俺と一緒に生きてくれる人を見つけたと思った。俺が触れても、壊れない強い人を……なのに、俺が壊してしまった」
「アシェル様……」
エミリアの目にたまった涙が、アシェルの白い頬に落ちる。
アシェルの息づかいが次第に弱まって、エミリアを映す瞳がガラスのように無機質な輝きを帯びはじめる。
「あぁ、いやだ……いやだ!」
死の臭いをまとわせるアシェルに、エミリアは現実を否定するように何度も頭を振った。
「こんなの嘘! アシェル様を失うなんて、お願い、夢なら覚めて……お願いします、女神様!」
「戦姫」
エミリアの悲痛な懇願に、アシェルの苦しげな声が重なった。
アシェルはさびしそうにエミリアを見つめていたが、首元で揺れる婚約指輪を認めて、優しく目を細めた。その目尻から涙がこぼれ落ちる。
「きみを忘れたとしても、きみへの想いだけは決して消えない。忘れたはずの記憶が、きみを知っている。求めている。だからこそ、苦しい」
アシェルは痛みを逃がすように深く息を吐き出した。
「きみの名前を呼びたい。なのに、どうしても、できない」
「エミリアです、私はエミリアマリーです!」
エミリアは必死になって、いままで何度も呼んでくれた名前を叫ぶ。
それでも、アシェルの耳には届いていないのかもしれない。アシェルは切なげに微笑むだけだった。
「戦姫、白銀の姫、白い花……そうとしか呼べない俺を、どうか許してほしい」
「いやだ、おいて行かないで、どこにもいかないで!」
「泣かないでくれ、戦姫。すまない」
「いかないで!」
引き止めるエミリアの腕の中で、アシェルは肺の中の空気をすべて吐き切るような深い呼吸をした。
エミリアは、はっと息をのむ。
それは、人間が命を終えるときの音だ。
アシェルの頭がエミリアの左肩に落ちて、左手から力が抜けた。先ほどまで戦姫と呼んでくれていた唇が青白く乾いて、それ以上動くことはない。赤い瞳はまぶたに閉ざされ、もう二度とエミリアを映すことはない。
「アシェル様?」
アシェルの頭を胸に抱き、柔らかい黒髪をなでる。
「あ、あぁ……うわぁぁぁぁ!」
左胸に激痛が走るが、それをはるかに凌駕する悲しみに、喉から悲鳴のような叫びがあふれた。
冷たい風が吹き抜ける無人の神殿に、エミリアの慟哭だけがひびきわたる。
「ひとりにしないで……どうか、アシェル様」
冷たいアシェルの体を抱きしめながら、エミリアが涙ながらに何度も懇願する。
そこへ、何者かの気配を感じて、エミリアは熱に浮かされたような顔をあげた。
たまった涙の向こうには、エミリアを過去に送った奇跡の女神が微笑んでいた。
「見事でした」
彼女は湖面の上に降り立ち、エミリアの腕の中で息絶えたアシェルを見下ろしている。
「記憶を失いつづけても、あなたはエミリアを愛し、エミリアはあなたを愛した。私に奇跡を証明した」
そう言って、奇跡の女神は場違いなほど満足げな笑みを浮かべた。悲しみの感情は欠片も見受けられない。
人とは異なる理で存在する神には、死の概念がそもそも存在しないのかもしれない。しかし、人の姿をとって人に寄り添ってきた慈愛の女神は、人の育む感情にだけは強い関心を示していた。
エミリアは魂が抜けたようにぼんやりと女神を見上げて、力なくつぶやいた。
「試練は……試練は、失敗して」
奇跡の女神は頭を振った。
「戦姫よ。私は、英雄があなたを完全に認識すれば試練が終わる、とは言っていませんよ」
エミリアは涙に濡れた瞳を大きく見開いた。
「試練は通例が終わるその瞬間まで、あることが継続されていれば終わるのです。それは案外、内容としてはとても単純なこと。あなたたちが、あなたたちであれば良い。歩み寄る努力さえ惜しまなければ、それだけで成し得る必然。しかし、ボタンのかけちがいで未来ではそれが成し得なかった奇跡」
奇跡の女神が両腕を広げると、目がくらむほどの光に包まれ、エミリアは思わずまぶたを閉じた。
次回は10/10に更新します。




