新たな未来と罪
翌日、フェルゼンの国王、リヒター・フェルゼンが城に到着した。
アインホルン城前に広がる石畳の広場に、フェルゼンの旗を掲げた馬車が停まり、開かれた扉の向こうから、暴力的とも言えるフランメの気配を漂わせた王が姿を現した。
アシェルと同じ黒髪の、整った容貌の男である。
威風堂々と歩くその姿からは、人の上に立つべき者の風格がにじみ出ている。
あまりに美しく、威圧的な王の登場に、エミリアは圧倒されてしまった。
聖戦を生き抜いた記憶を持つエミリアであるが、体はまだまだ未熟な子供である。リヒターの発するフランメに、小さな体のほうが怖気づいてしまっていた。
戦姫のエミリアでさえそんな状態なのだから、一度も戦場に出たことのないエーデルシュタインの王であるディリゲントやカルロッタは、怯えたように目を見開いている。
しかし、そこは国の統治者、ディリゲントは自らを鼓舞するように一歩踏み出した。
「ようこそ、リヒター王」
ディリゲントは自らリヒターに握手を求め、額に脂汗を浮かべながらも笑顔で歓迎している。豊かに蓄えられた白い髭が、心なしか、恐怖と汗でしぼんだように見えた。
エミリアは、城内に入るふたりの国王の背中を見送り、ほっと胸をなでおろした。あとは大人たちの時間である。
その後、エミリアはアシェルの制御訓練に付き合うため、城外の広大な緑の野へと移動した。向かい合うふたりの周囲に人の気配はなく、空には鳥の影もない。
「はじめましょうか、アシェル様」
「あぁ、頼む」
エミリアはアシェルと距離をとると、いつでも氷の魔術を発動できるように、体内のフランメを活性化させた。エミリアの全身を、フランメの青い光が覆う。
アシェルはふうっと息を吐き出して、まぶたを閉じると、ゆっくりとフランメを放出しはじめる。アシェルの体を太陽のような黄金色の光が覆っていく。
徐々にフランメを消費して力を高めるやり方から、襲撃時のように爆発的にフランメを消費してからの制御など、状況を想定しながらの制御訓練はおどろくほどに順調だった。
いざとなればエミリアが氷の盾を出現させてくれるという信頼があるからか、アシェルはのびのびと魔術を使っている様子だ。
これなら暴走の心配はなさそうだ。
アシェルを包むフランメの輝きが消えるのを見計らって、エミリアは声をかけた。
「やはり親子ですね。フランメの属性の気配がまったく同じです」
「俺自身はよくわからないが……同じ英雄の称号を持つ、破壊の魔術の使い手だからな」
アシェルは、あいまいな笑顔を浮かべた。リヒターに対して、何か思うところがあるのかもしれない。
それ以上その話題が広がることはなかったが、エミリアはアシェルの魔術について深い興味を寄せていた。
何度も戦場で戦ってきたエミリアだが、いまだに破壊の魔術を超える特殊な魔術を見たことがなかったからだ。
そもそもフランメの属性とは、地水火風の四属性が存在している。
エミリアは水属性のフランメを保有しているため、得意属性が水となり、そこから派生して難易度が高い氷の魔術を得意としている。
アシェルは地属性のフランメを保有しているが、派生魔術があまりにも特殊だった。地属性は地面を変形させたり、植物を操ったりなどと大地に関係する魔術がほとんどだが、アシェルは大地に接するものすべてを破壊する魔術を得意としていた。
その非常に稀有で圧倒的な魔術は、聖戦時代の恐怖の象徴であった。
アシェルが出陣したあとの惨状を、いまでも夢に見る。人も大地も等しく粉砕された、あのおぞましい光景を。
「どうした?」
エミリアははっと我に返った。
目の前には、あどけない顔でエミリアを見つめるアシェルがいる。
「体調が悪いのか?」
「い、いえ、体調は万全です。魔術のことについて、その、考え事をしておりました」
「そうか、訓練内容を更新していくのも大事だからな」
前向きな解釈をしてくれたアシェルに、エミリアは内心安堵した。
「すでに次のことを考えているとは、本当に頼もしいな。きみがいるから、俺は安心できる。ありがとう」
「アシェル様……」
アシェルが屈託なさそうに笑う。エミリアの顔が熱くなり、鼓動が高まるのを感じた。
「裏切り者」
高揚する気持ちを咎めるように、何者かが耳元でささやいた。
憎しみという濃厚な毒をそそぎこむような、低い女の声だ。
エミリアはあわてて振り返るが、背後に人の気配はない。
「アシェル様、いま誰かの声が聞こえませんでしたか?」
「いや、俺には何も聞こえなかったが」
幻聴とは思えないほど鮮明な女性の声だった。
周囲を警戒して視線をめぐらせるが、アシェルのほかには、遠くに控えるグレーテルとアシェルの使用人の姿しかない。
エミリアはアシェルに向き直って微笑んだ。
「きっと、鳥の鳴き声ですね。不安にさせるようなことを言って申し訳ありません。訓練を再開しましょう」
エミリアは気をとりなおして、アシェルの訓練に集中する。それでも、あの女性の声が耳にこびりついて離れなかった。
訓練が一段落ついたところで、アシェルが使用人に呼ばれて席を外したので、エミリアは平原にぽつりと存在する休憩用の小さな建物へと向かった。
その建物に壁はなく、雨や日差しをしのぐための屋根と柱だけの休憩所である。
中で読書をしていたキルシュがエミリアに気づいて、わざわざ椅子から立ちあがって出迎えてくれた。
「お疲れさまです、エミリア様。アシェルの訓練に付き合ってくださって本当に感謝いたしますわ」
「いえ、私にとっても良い訓練になっていますから」
「そうおっしゃっていただけると助かります。疲れたでしょう、いま紅茶を用意しますわ」
「ありがとうございます」
エミリアが向かい合うようにして椅子に座ると、キルシュが紅茶をいれてくれた。
紅茶にこだわりがあるらしく、普段から侍女にも振る舞っているそうだ。
薔薇のような香りのする紅茶を飲み、皿の上のアーモンドクッキーを一口かじる。ほんのり感じる塩気と砕かれたアーモンドが口いっぱいに広がった。香ばしく甘いクッキーと紅茶の香りが合わさって幸福感に包まれる。
「紅茶もクッキーも、とってもおいしいです!」
「お気に召していただけて幸いですわ」
感激するエミリアに、キルシュはうれしそうに微笑んだ。
胃も心も満たされたことで、訓練で消費したフランメが徐々に回復しはじめたような気がした。
「それにしても、あのアシェルが誰かと打ち解けている姿なんて、はじめて見ましたわ」
「そうなのですか? あのアシェル様が?」
「私とちがってあの子は、英雄の力を受け継いでいます。その力がある程度制御できるまではずっと大人に囲まれていましたから、同年代の子供との意思疎通が難しいようです」
だから、ちょっと安心しました。とキルシュは、まるで保護者のような顔で微笑んでいる。
当のエミリアも、グレーテル以外に心を許した相手はいなかったが、あのアシェルにもそんな時期があったとは意外に思った。
ふと、キルシュが思い出したように、ティーカップを置いて言った。
「そういえばエミリア様。ずっと聞きたかったのですけど、なぜわたくしたちが襲撃を受けているとわかりましたの?」
アシェルと同じ赤い瞳が、疑問を浮かべてエミリアを見つめている。
当然の疑問だろう。エミリアの行動は、あらかじめ襲撃を知っていた者の動きである。エミリアは表情を引きしめた。
「あ、誤解しないでくださいね」
キルシュがあせったように、あわてて付け足して言った。
「エミリア様が首謀者などと、そんなばかげたことは考えておりませんからね! あぁ、わたくしったら失礼なことを……」
「大丈夫ですよ、キルシュ様。あなたの疑問は当然のものです」
エミリアは安心させるように小さく微笑んだ。
「信じられないかもしれませんが、奇跡の女神様のお告げがあったのです。キルシュ様とアシェル様を失えば、未来が消えると」
「わたくしたちがいなくなることで、未来が? そうおっしゃられたのですか?」
キルシュは目を見張って、指先で口元を隠した。
聡明なキルシュが、このような話を信じてくれるか不安だったが、奇跡の女神の力を受け継いだエミリアだからこそ、信憑性が高いと判断してくれたのだろう。
「女神様がわたくしたちを救うために、エミリア様を遣わしてくださったのですね」
キリシュは感謝を伝えるように両手を組んでまぶたを閉じる。
再びまぶたを開いたとき、キルシュはすこしうつむき加減になった。
「キルシュ様?」
「わたくしにも、エミリア様のような力があれば、アシェルを支えてあげられたのに……ごめんなさい、ないものねだりをしたって何も解決しないのはわかっておりますのに」
「キルシュ様がそばにいるだけで、アシェル様はじゅうぶん支えられているはずです」
キルシュは悲しげに目を伏せて頭を振った。白い頬に落ちる睫毛の影が切なく、美しかった。
「あの破壊の魔術は、フェルゼン王家でも男児にしか受け継がれない特殊な力。その恩恵はあの子を孤独にする」
「それは……」
戦姫であるエミリアも他人事ではなかった。人とはちがう強力な魔術の才能を受け継いだエミリアは、エーデルシュタインの守護者として崇められるか、または恐怖の対象となった。おそれず近づいてきてくれたのは、グレーテルくらいだった。
「エミリア様、今回の襲撃はおそらくフェルゼンの反王政派のものです。圧倒的な英雄の力で周辺国を制圧し、とりこまれてきた人々の古くからの恨みは、いまも当代の英雄に向けられている。わたくしでは、あの子を支えることすらできない」
「それはちがいますよ、キルシュ様。あなたの言葉はアシェル様の誇りとなって彼の心を守っています」
「え?」
キルシュは目を丸くした。
エミリアは、アシェルが母のドレスやアクセサリーを守ってくれたときの話をした。
「アシェル様は受け継いだ英雄の力とそのすべてを誇りだと言った。強大な力に恐怖を覚えても、完全に憎まずにいられたのは、きっとキルシュ様のお言葉があったからです」
キルシュが亡くなったあとも、彼女の言葉はずっとアシェルの中で生きつづけて、それが英雄を名乗る彼の魂を守っていたことを、エミリアは知っている。
あの雨の戦場でのアシェルの行動が、それを物語っていた。
「キルシュ様のお言葉は、アシェル様だけではなく、私の心を救ってくださったのです。ありがとう、キルシュ様」
聖戦時のエミリアの誇り。この時代で奪われそうになった母の誇り。エミリアは、それを守ってくれたことへの感謝を伝えた。
キルシュは恥らうように、ほんのりと染まった顔を両手で包みこんだ。
「そ、そんなことを言われたのははじめてです。わたくしの言葉が、アシェルとエミリア様を救っていたなんて……あぁ、あの子が夢中になるはずですね」
「俺抜きで内緒話か?」
アシェルが身を乗り出すようにして、エミリアとキルシュの間に割って入った。
キルシュは、むっとしたように唇をとがらせる。
「ちょっとお話ししていただけでしょう。きのうはアシェルがエミリア様を独り占めしていたくせに」
「それはキルシュが足をくじいたからだろ。仕方ないじゃないか」
アシェルは不機嫌そうに腕を組んで言った。姉をとられて拗ねているのか、とエミリアは思った。
「ご安心ください、アシェル様。キルシュ様がどれほど素敵な人なのかを話していただけですよ」
「まあ!」
キルシュがさらに顔を赤らめて、アシェルが腕を組んだまま誇らしげにうなずいた。
「そうか。キルシュは俺の自慢の姉だからな」
「アシェル!」
至極当然のことと言わんばかりのアシェルの態度に、キルシュは心を打たれたように目をうるませた。
仲睦まじい双子の様子に、エミリアは自分のことのようにうれしく思った。
アシェルは気恥ずかしくなったのか、それを隠すようにエミリアに向き直って言った。
「よし、では訓練を再開しようか、エミリア」
「わかりました」
アシェルの発言に、キルシュが目を見張った。
「アシェル、そのように呼び捨てにするなんて失礼ではありませんか」
「エミリアには許可をとった。俺のことも敬称なしで呼んでほしいものだが」
「すみません。まだ慣れなくて」
エミリアは少なくなった紅茶を飲み干して、立ちあがった。
キルシュは上目遣いにエミリアを見て言った。
「エミリア様、もし不快ならば、そうおっしゃっていただいてもよろしいのですよ」
「なんだキルシュ、俺がうらやましいのならそう言えばいいのに」
「まあ!」
キルシュの反撃を受けるまえに、アシェルは悪戯っぽく笑って陽のあたる草原へと飛び出した。
「行こうか、エミリア!」
「はい!」
エミリアはキルシュに一礼して、アシェルのあとを追った。
穏やかな緑の野や、風に揺れる白い花のひとつひとつが、宝石のように輝いて見える。アシェルと一緒に過ごすようになってから、エミリアの世界は美しいものであふれていた。
アシェルが振り返って、顔をほころばせる。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
永遠にこの日々がつづくのだと錯覚するくらいには、エミリアは浮かれていた。
しかし、そんなエミリアを責めるように、つねに誰かの視線を感じていた。




