雨の戦場の記憶
激しく叩きつける冷たい雨にも動じず、ふたりはにらみ合っている。
エミリアの全身は傷だらけで、白を基調とした戦姫の衣装はほとんど形を残していない。
いつもより体が重い自覚があったエミリアは、それを対峙するアシェルに気取られないように神槍を構え直す。
しかし、アシェルはあきれたようにため息をついて剣をおろした。
「どういうつもりです!」
「無様な格好だ。見るに堪えん」
「なんだと」
怒りで頭が沸騰し、にぎりしめた神槍の穂先が震えた。
こんな挑発に乗ってしまうほど、いまのエミリアは冷静さを欠いていた。
「命のやりとりをしているのです。衣装がどうなろうと関係ありません!」
アシェルは唇の端に軽蔑の色を浮かべた。
「それにすら誇りをもてないようでは、俺と戦う資格はない」
「資格? 何様のつもりです。私はまだ戦えます。衣装などなくともこの神槍と魔術さえあれば!」
「知らん。お前のくだらない意地に付き合うつもりはない」
アシェルはすっかり興味を失ったように背を向けてしまった。
エミリアはとまどいながら、遠ざかる背中に手をのばした。
「待ちなさい! 逃げるつもりで……わぷっ」
アシェルは何も言わず、英雄の衣装である深紅のマントをエミリアの顔に投げつけてきた。
どうやら、それで体を隠せという意味のようだった。
敵に情けをかけられた屈辱に、エミリアは血がにじむほど強く唇をかんだ。
しかしそれ以上に、アシェルのマントを捨てることができなかった自分自身に腹が立った。
まぶたを開くと、心配そうにこちらを覗きこんでいるグレーテルと目が合った。
グレーレルはほっと安堵の色を浮かべた。
「姫様、気分はどうですか?」
「グレーテル……あの男はどこです」
「あの男とは?」
「あのむかつく男です」
そう言ってため息をついたエミリアは、弾かれたように飛び起きた。
聖戦時代の夢を見たせいか、つい十年後にいるような感覚で話してしまった。
目を丸くしたグレーテルに、エミリアはあいまいに笑って言った。
「変な夢を見てしまっただけです、忘れてください」
「殿方に言い寄られる夢でも?」
「ま、まさか、そんなはずありませんから! べつに言い寄られてなんかいませんから! さっきの言葉は忘れてください!」
「仰せのとおりに」
グレーテルはにやりと口角をあげた。この表情は新しい玩具を見つけた顔である。
エミリアは疲れたようにため息をついた。
「それはさておき、姫様」
「はい」
「このグレーテルはとても心配したのですよ」
グレーテルは水差しからコップに水を注ぎ、それをエミリアに手渡しながら言った。
彼女は微笑んではいたが、どこかさびしそうだった。
エミリアは罪悪感を覚えて、うつむいた。
「勝手な行動をとってごめんなさい。虫の知らせというのでしょうか、居ても立っても居られなくなって……何も言わずに飛び出したことを反省しています」
「奇跡の女神様からの警告だったのかもしれませんね。姫様の活躍でアシェル様とキルシュブリューテ様は無事に城に到着されましたよ」
「よかった……」
あらためてふたりの無事を聞かされたエミリアは、ようやく肩の荷がおりた気がした。
聖戦のきっかけと言われる事件を解決したことは、聖戦回避に大きく影響するのではないだろうか。
「たくさんの感謝のお言葉が届いておりますよ。姫様の侍女としてとても誇らしく思いますが、私はすこし心配です。私もエミリア様の力になりたい、支えたいと思っているのです。それだけは覚えておいてくださいね」
有無を言わさない強いまなざしに、エミリアはこくりとうなずいた。
「ありがとう、グレーテル。絶対に忘れません」
グレーテルは満足そうに微笑んだ。
「今回はうまくいったが、勇敢と無謀を履き違えるなよ」
「え?」
エミリアが声のしたほうに顔を向けると、絨毯の上でシュトラールが寝転がっていた。
「シュトラール様!」
「おどろきましたよ。姫様が、まさかシュトラール様の背中に乗せられて帰ってくるとは思いませんでしたから」
「そ、そうだったのですね。運んでくださってありがとうございます。でも、どうしてここにシュトラール様が?」
シュトラールは首をもたげて、のんびりと大きなあくびをした。
「お前を試すと言っただろう。離れていては意味がない」
「そうでしたね」
シュトラールはゆっくりと体を起こすと、こちらに背中を向けて座った。そして、ちらちらと視線を向けてくる。
「ふむ、毛が乱れているな。どうしたものか」
「あ、ブラッシングですね! お任せください!」
「姫様、これをお使いください」
ベッドから立ちあがったエミリアは、グレーテルから大きなブラシを手渡された。
見覚えのない青いブラシだ。もしかしたら、母が使用していたシュトラール専用のブラシなのかもしれない。
エミリアは慣れない手つきで、きらきらと輝く白銀の毛にブラシをかけた。この偉大な聖獣にすこしだけ認めてもらえた気がしてうれしかった。




