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死に場所がやってきた

 ヴォルフはハエの羽音を聞きながら、気怠そうにまぶたを開いた。

 ゴミ捨て場のような路地裏から見上げた青空には、白い月が浮かんで見えた。

 視線だけで右隣を見ると、妹の亡骸を覆い隠す布の上にネズミが乗っていて、ヴォルフはかっとなってネズミを追い払った。

 短い布から飛び出した小さな左手にもハエがたかっていて、その手を傷つけないように追い払う。骨と皮だけなのに、妙にやわらかいと思った。

 ヴォルフはすっかり嗅覚が麻痺しているので、どれだけ妹に近づいても平気だったが、道行く人々はその異臭に気づいてこちらに視線を向けて、そして見て見ぬふりをした。

 それからヴォルフは、亡骸の前であぐらをかいて一日をすごした。

 二度目の朝陽が路地裏をかすかに照らしはじめたとき、ヴォルフに近づく気配があった。


「おい」


 しおれた植物のようにうなだれていたヴォルフは、億劫そうに顔をあげた。

ずいぶんと身なりの良い少年が立っていた。気品を漂わせた美しい少年は、この異臭の中でも表情ひとつ変えなかった。

 天使様だろうか。

 ヴォルフはぼんやりとした意識でそう思った。

 少年はヴォルフを見下ろして尋ねた。


「この町や周辺の村で、一度も捕まったことのない食料泥棒がいるという。それはお前だな」


 確認ではなく、ヴォルフが犯人であると断定した物言いであった。

 ヴォルフは途端にどうでもよくなって、妹の亡骸に視線をもどした。


「警備兵に突き出したいなら、好きにすればいい」

「そのつもりはない」

「あ、そう」


 彼はなぜここに来たのだろう。ずいぶんと物好きな貴族の少年だ。


「その子は?」


 少年が妹を見て尋ねた。


「妹」

「そうか。お前の家族か」

「病気ばっかりして、父さんや母さんを独占するから嫌いだった。母さんが妹を守ってあげてって言うから、面倒をみてただけ」


 自分ひとり生きていくのも困難だというのに、兄というだけで妹を守らなければならない理不尽さに、何度も「妹を捨てていこう」という考えがよぎった。それほどヴォルフたちの生活は限界を迎えていた。


「こいつはすぐ熱を出すし、人が必死で盗んできた食べ物を食べようとしないし、俺の言うことなんてひとつも聞こうとしなかった。俺がいないと何もできないくせに……俺のほうが元気だからって、俺に食べさせようとするんだ。誰のために盗みなんてやってると思ってんだ、馬鹿じゃないのか」


 ぽつぽつ、とあぐらを組んだ足に温かい雫が落ちる。

 亡骸に悪態を投げつけていたヴォルフは、ようやく自分が泣いていることに気がついた。

 妹の存在を苦痛に感じながらも、ヴォルフは妹に置いていかれるのが怖かった。

死なないでくれ、という心からの祈りは届かず、彼女は最期まで兄を優先して死んでしまった。

 心の支えを失ったヴォルフはひとりで生きることも、このまま死ぬこともできず、この腐った路地裏から一歩も踏み出せないでいた。


「未来に絶望しながらも、ひとりで死ぬ勇気もないか」


 ヴォルフは妹を失ってはじめて、激しい怒りが湧いた。

 何不自由ない暮らしをしている貴族に何がわかるというのだ!

怒りに顔を赤らめたヴォルフは、隣の少年を見上げてはっと息を呑んだ。

少年の赤い瞳の中で、フランメの炎が激しく燃えていた。その熱がヴォルフに伝播して、胸の奥に小さな火をともした。


「だったらその命、俺がもらう。俺の騎士となって、俺のためだけに死ね」


 生きる理由と、死に場所がやってきた。

 ヴォルフはその瞬間から、この少年に魅入られてしまった。


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