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聖獣シュトラール


 城内には、エーデルシュタインが誇る豊かな水源と大地が広がっている。

 エミリアは風の抵抗を受けながら、柔らかな草原の上を駆け抜けた。


「こんなに、体力がないなんて、想定外です!」


 エミリアは顔を真っ赤にして叫んだ。

 十年後の体力を基準にして走っていたため、鍛えていない未発達な体は早々に悲鳴をあげていた。

 息切れがして立ち止まると、のどの奥から鉄の味がした。

 発熱したように全身が熱く、いたるところから汗が流れ落ちていく。


「豊富なフランメに頼りすぎですよ、過去の私……これからしっかり鍛えなければ!」


 エミリアはそう決意を固めて、再び重い足を動かした。

 いくつかの丘を越えた先には聖域と呼ばれる深い森がある。

 鳥や虫の声も聞こえない静寂に包まれた森を歩きつづけていると、やがて岩肌がむき出しになっている丘が見えてきた。

 丘の上には、白銀の美しい毛並みをもつ大きな獣がいた。狼とよく似た姿をした獣は、獣の王を名乗るに相応しい威風を漂わせている。獣は腹を地面につけた伏せの体勢のままエミリアを見下ろしていた。

 彼は代々の戦姫とともに戦場を駆け抜けたと伝えられる伝説の聖獣、シュトラールである。

 聖獣とは、生まれもった豊富なフランメにより、人間以上の高度な知識を得た獣の総称である。彼らは人語を理解しているため意思疎通は可能だが、人間に友好的な個体はすくない。

 しかし、奇跡の女神に遣わされたと言われているシュトラールだけは、戦姫に心を開いたという。

 彼の足ならば襲撃に間に合うはずだが、ひとつ問題があった。

 戦姫の相棒であるシュトラールは、エミリアに心を開いてくれたことは一度もない。

 何度言葉を尽くそうとも、彼は一度も力を貸してくれることはなく、戦闘が激化するにつれてエミリアもここに寄りつかなくなってしまった。

 シュトラールと向き合うことをあきらめ、逃げ出してしまったのだ。

 心の弱さを見透かすような黄金色の瞳に足がすくむが、王女のことを思えばなりふりかまってはいられない。

 エミリアは自分を鼓舞するように、声を張りあげた。


「エーデルシュタインの守護者、聖獣シュトラールよ。どうかこの私に力を貸してください!」


 シュトラールは退屈そうに、ふいっと視線をそらした。

 いつもと同じだ。エミリアが何を言っても、シュトラールは決して応えてはくれない。

 先代の戦姫であった母と同じように、いつかはシュトラールの背に乗せてもらえると信じていたかつてのエミリアは、このシュトラールの態度にすっかり怖気づいてしまったのである。

 エミリアは震えそうになる手をにぎりしめた。


「認めてもらえないのは、私が未熟だからですよね?」


 シュトラールは不機嫌そうに鼻を鳴らし、立ちあがった。

 エミリアはあわてて丘をのぼると、立ち去ろうとするシュトラールの前に立ちふさがった。


「待ってください! どうしてもあなたの力を貸していただきたいのです!」


 シュトラールは立ち止まったが、まともに視線すら向けてもらえなかった。

 戦う手段だけは誰よりも学んできたエミリアだが、シュトラールの信頼を得る方法だけは十年経ったいまでもわからない。

 情けなさと焦燥感に苛まれたエミリアは、一度冷静になろうと渦巻く不安ごとゆっくりと息を吐き出す。

 ふと、この時代に送られる直前の女神の言葉を思い出した。


「偽らない魂にのみ、女神の力は応えるでしょう」


 偽ったつもりはない。けれど、本心を語ったこともなかった。

 エミリアは声の調子をととのえて言った。


「アシェル王子とキルシュブリューテ王女を助けたいのです」

 

 そこでようやく黄金色の瞳がエミリアを見た。


「エーデルシュタインとフェルゼンの対立により勃発する聖戦を回避するためには、ふたりを助けなければなりません。私はもう二度と大切なものを失いたくない。誰の命も奪いたくない! 殺したくない! 本当はあの人と殺し合いなんてしたくなかった!」


 まだ起こってさえいない未来を語るエミリアを見て、シュトラールは正気ではないと判断するだろう。それでも、あふれる感情は止められなかった。


「血に濡れた未来を壊すために、どうか私に力を貸してください! お願いします!」


 エミリアの悲鳴のような叫び声が聖域にひびいた。

 シュトラールは見定めるようにエミリアを見つめていたが、しばらくしてその横を通りすぎた。

 エミリアは膝から崩れ落ちた。

 たしかに母のような立派な戦姫ではなかった。使命を果たすこともできなかった。認められなくて当然かもしれない。


「でも、もう失いたくない」


 エミリアはゆらりと立ちあがる。女神に使命を与えられたから聖戦を回避したいわけではない。これはエミリアの意思だ。

 絶対にあきらめるものか。エミリアは拳を強くにぎりしめた。


「何をしている」


 背後からあがった男性の声に、エミリアは弾かれたように振り返った。

 シュトラールが丘の下からこちらを見上げている。


「王子と王女を助けに向かうのだろう。乗るのか、乗らないのか」

「の、乗ります!」


 エミリアはあわててシュトラールに駆け寄ると、屈んで待ってくれているその背中によじのぼり、またがった。

 白銀の毛は思っていたよりも硬く、そして温かい。

 母も同じ景色を見たのだと、エミリアは胸が熱くなった。


「本心を隠して綺麗ごとばかりを並べていたつまらぬ小娘よ。名を名乗れ」

「エミリアマリー・エル・エーデルシュタインです」

「エミリア。ようやくお前の本心が聞けたな。世界を守るためだと使い古された常套句よりも、ずっと良かったぞ」

「あ……ありがとうございます!」


 シュトラールはエミリアに視線だけを向けて言った。


「お前のその覚悟、これから試させてもらうぞ」

「戦姫の名を継ぎし者として、聖獣の試練に応えてみせます」

「口だけではなんとでも言える。行動で示せ」


 シュトラールは助走もなしに、いきなり走り出した。

 馬とは比べものにならない速度で森の景色が流れていく。

 毛をつかむ指がすべり、風の抵抗で振り落とされそうになると、シュトラールはあえて速度をあげていく。

 大きな背中が「その程度か?」と語りかけてくる。


「まだまだ!」


 エミリアは遠慮なく白銀の毛を鷲づかみにしてしがみついた。

 もう忘れたのか、とエミリアは自身を叱咤する。

 あの凄惨な戦いを。悔しさと怒りと悲しみを。あのときのつらさは、こんなものではなかっただろう!

 エミリアは挑むように顔をあげた。


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